甘くて苦いレモンの香り
あまねりこ
甘くて苦いレモンの香り
二十六にもなって未だに初恋を忘れられない私は、なんて哀れなんだろう。そんなことを思いながら、ウィスキーを一気に飲み干す。
「今夜……泊まってもいい?」
空になったグラスをテーブルに置き、彼の肩に寄りかかる。
「別にいいけど。明日、会社どうすんの?」
「大丈夫。前に置いていった服着るから」
仕事終わり、同僚の高山くんの家に転がり込む私。彼の部屋には私の荷物が増えていた。
「そっか」
彼とのキスはいつもお酒の味がする。ワイシャツの擦れる音が、静かに部屋に響いた。
薄暗い部屋に、オレンジ色のライトがため息のように漏れている。
彼の腕の中は暖かい。誰にも譲りたくないほどに。なのに、どうしてこんなに満たされないの。
ふと、鏡に映る自分の顔を見て気づく。好きな男に抱かれているはずなのに、私の顔はちっとも幸せそうには見えないことに。
綺麗な恋がしたかった。素直で可愛い女の子になれたらよかった。いつからこんなに汚れてしまったんだろう。
こんなことを考えるようになったのも全部、全部、彼のせい。彼の背後に薄っすらと感じる、私ではない他の女の香り。
本当にバカ――。
私は静かに微笑むと、彼の顔をグッと引き寄せ、キスをした。甘くて、苦い。
「高山くん、好き」
「うん……」
私は静かに瞼を閉じた。
卒業生の声が校舎を舞う。式が終わり、友達と卒業アルバムにメッセージを送り合う中、私は彼を駆け足で追いかけていた。
「かっ、書いて……!」
勇気を振り絞って出した声は、自分の想像よりもはるかに大きな声だった。彼は立ち止まり、驚いた表情で振り返る。
「俺?」
私は小さく「うん」と頷き、彼に卒業アルバムを突き出す。恥ずかしくて、彼を見ることができない。アルバムにペンが走る音が聞こえる。
「はい」
その声に、私はようやく顔を上げることができた。
『卒業おめでとう。三年間、お疲れ様』とだけ書かれた短いメッセージ。なんとも彼らしくて、私は思わず笑ってしまった。
「……変だった?」
「ううん、全然。ありがとう!」
じゃあ、と彼は再び歩き出す。三年間ずっと同じクラスだったのに、彼と話したのは今日が初めてだった。
三年間の、私の密かな片思い。思いやりがあって、聞き上手なところ。真面目でクールなところ。自分を犠牲にしてまで相手を助けちゃうところ。そんな優しい彼が大好きだった。
私はもう一度、小さな声で彼に言った。
「ありがとう」
彼からはいつも、レモンの香りがした。
時計を見る。針は五時過ぎを示していた。眠ったままの彼にキスをし、私はそっとベッドを降りる。床にはお互いの服が散乱としていた。メイクを落とし、シャワーを浴びる。
「…………」
首についた赤い跡が、ほのかに私の心を苦しめる。
部屋に戻ると、彼は水を飲んでいるところだった。カーテンが開けられ、光が部屋の中に差し込んでいる。
「おはよう」
「うん……おはよう」
濡れた髪を拭きながら、私は彼に聞く。
「高山くんって、本当は好きな人いるでしょ?」
昨日からずっと一緒にいたはずなのに、今初めて彼と目が合った気がした。
「……別に」
「そっか」
彼はクールだ。嘘つきなクール。
彼にはきっと好きな人がいる。でもその好きな人は、きっと彼を好きではないのだろう。だからこの私を家に入れている。私という存在で我慢している。
彼の気持ちに気づいていながら、私はこの先も彼の家に上がることをやめられなかった。
彼からはいつも、懐かしいあのレモンの香りがするから――。
甘くて苦いレモンの香り あまねりこ @amane_riko54
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