後編

 語学の講義の時だった。

 必修の英語の講義で、私の隣の席に彼女は突然、座ってきた。


 モナリザとそっくりの女性だった。

 私は冷や汗をだらだら流した。

 思わず、バッと大げさに視線を逸らしてしまう。


 この女はなんだ?

 まさか、絵から出てきたのか?

 いや、そんなわけないか……。


 それ以降、彼女と極力目を合わさないようにした。


 しかし、英語の講義の時、なぜか彼女は必ず私の隣に座ってきた。

 私は第二外国語でドイツ語を選択していたのだが、その講義でも彼女は私の隣に座ってくるようになった。

 わざとそうしているんじゃないかという気がしてくる。

 だんだんと語学以外の講義でも私の隣に座るようになってきた。

 さすがに、意図的にそうしているとしか思えなかった。


 ある日の一般教養で取った文化人類学の講義の時、隣に座っていた彼女が、講義が始まる五分前に声をかけてきた。


「なんか私たち、よく一緒になるね」


 あの絵のあの表情で、彼女はそう言ってきた。

 声は夢で何度も出てきたあの女と同じ声だった。

 その偶然とは思えない奇妙な一致に、私は心の中で発狂していた。


 そして同時になにを言ってるんだこいつは、とも思っていた。

 お前、どう考えてもわざとだろ。

 意図的に私の前に現われているんだろ、なぁ、そうなんだろ?

 心ではそう言っていたが、それは表に出さず、「そうだね」とそっけなく私は返した。


「なんか、運命みたいなのを、感じるよね?」


 あの表情でそう言われた瞬間、ぞわっとした。

 運命……運命だと?

 ふざけるな、私を散々苦しめておいて。自分はそんな涼しげな笑みをいつも浮かべているなんて!


 だが、しかし、運命か……ああ、くそっ!

 その表現がしっくりくるのも確かだった。


「私、水口理沙、あなたは?」

「俺は、岡野京一」

「じゃあ岡野くんって呼ぶね」

「え、うん」

「なに、京一君って呼ぶ方がよかったかしら?」

「い、いや、岡野でいい」

「あらそう」

「俺は君のことを水口さんって呼ぶよ」

「理沙でいいよ?」

「え?」


 困惑した私の顔を、彼女はあの絵と同じ顔で見つめてきた。

 ずっとずっと……。


「い、いや、水口さんと呼ぶことにするよ」

「そう、残念」


 なにが残念なんだ。

 私をからかっているのか?

 わからない。

 彼女のあの顔を見ると、ますます彼女の考えていることがわからなくなる。

 その不可解さが、怖くて怖くてたまらなかった。

 

 それからというもの、彼女は講義が始まる前にいつも声をかけてくるようになった。


「今日はいい天気ね」「朝ごはん、なに食べた?」「テスト、どうだった?」「レポートはもう書いた?」


 特筆すべきことはなにもない、普通の大学生の会話。だが、それら一つ一つが私を不安にさせた。

 こいつは胸の内では本当はなにを考えているのだろう、と。


 ある日、私が食堂でご飯を食べていると、水口さんがこちらにきた。


「ここで食べてもいいかしら?」

 

 私は内心嫌だと叫びながらも、いいよと返した。

「ありがとう」と言って彼女は料理が入った皿を載せたお盆を置いて、私の向かい側に座る。

 鮭ときのこが入ったクリームパスタだった。

 彼女は器用にフォークにパスタを巻きつかせる。

 ぐるぐる、ぐるぐる、と。そしてそれを口に運ぶ。あの恐ろしい唇へと。

 もぐもぐ、もぐもぐ、と。口が動く。

 目をそらしたかったが、彼女から視線を外せなかった。

 彼女が何かを食べる様子が気になって気になってしかたがなかった。


 それにしても、実に奇妙な光景だ。

 だって、考えてもみてくれ、あのモナリザが、あの絵と同じ顔が、私の目の前でパスタを食べているのだ!

 気にせずにいられようか!


「なに、私の食べているところがそんなに面白い?」

「い、いや、そういうわけじゃないんだ」

「じゃあ、私に見惚れたのね?」

「い、いや、それも……」

 

 否定しようとしたが、次の言葉が出てこなかった。

 ごまかすように、私は目の前にあるキーマカレーを貪った。

 味が全然しなかった。

 好物のはずなのに、今は全然おいしく感じない。

 そんな私のことを、水口さんは微笑しながら見つめていた……。

 

 それから、お互いに大学がある日は毎日、一緒に昼食を取るようになった。

 別に示し合わせたわけじゃない、私が食べていると、なぜか彼女がちょうどいいタイミングで現われて、私と同じテーブルで食事を取り始めるのだ。


 おかげでいつも、昼に食べるものは味がしなかった。

 日常が彼女に侵食されつつある気がする。

 水口から少しでも離れた生活を送りたかった。

 だからそのきっかけになるかと思い、私はあるサークルに入ることにした。


 私が加入したのは10人くらいしかメンバーがいない、小規模の登山サークルだ。

 みんな穏やかな人柄でゆるそうな雰囲気だったのが決め手だ。

 一ヶ月くらい後に、そのサークルの人たちと、人生初の登山をすることになった。


 当日になると、驚愕した。

 なんと、集合場所にあの水口がいたのだ。

 

「なんで君がいるんだ?」

「私も登山に興味があったの」


 彼女はあの微笑を浮かべてそう言った。

 嘘つけ! お前、絶対、私がいるから入ってきたんだろ、なあそうなんだろ?

 そう疑いを込めて水口を見るが、彼女はあの笑みを崩さなかった。


 数分後、登山が開始された。

 最初は楽勝だと思っていたが、一時間もするときつくなってきた。

 私は他のメンバーから遅れ気味になってしまった。

 だが、私以上に遅い人がいたので、少し安心感を覚えてもいた。


 私の後ろで、えっせほいせと小声を出しながら歩いている、細身の野山くん。

 彼の存在は、私の醜悪な劣等感と疎外感を少しだけ慰めてくれた。


 だが、そんな私に罰が当たったのだろうか。

 彼の方ばかり見ていたせいか、いつのまにか前を歩いていたメンバーとはぐれてしまった。

 他にいるのは、私以上に頼りない野山君だけ。


「どうやらはぐれてしまったようだな」


 と言うと、野山くんがキッと私を睨んできた。


「お前のせいだ」

「は?」

「お前が前をよく見ていないから、こうなったんだ!」


 おいおい、確かにそうかもしれないが、私にだけ責任を押し付けるなよ。はぐれたのはお前も同じだろ?


「どうしてくれるんだよ、おい!」


 彼が私の胸ぐらをつかみかかってきた。


「なんだよ、うざいな、放せよ!」


 私は彼をつい強く振り払ってしまった。

 バランスを崩した彼はどさっと後ろ向きに倒れ、そのままごろごろごろっ、ごろんっと斜面を転がっていく。

 そしてゴツンッと鈍い音がしたかと思うと、彼はようやく動きが止まった。


 ただ、様子がおかしい。

 野山君がまったく動かないのだ。


「野山君? おい、野山君?」


 声をかけながら近づいていく。

 彼のように転がらないように慎重に進みながら、野山君の傍まで来ると、彼の頭から血がだらだらと流れていることに気づいた。

 野山君の頭の下には大きくて鋭利な形をした石があった。

 

「野山君?」


 再び声をかけるが、十秒以上経っても返事がない。その時、気づいた。

 呼吸をしていないことに。


「はっ……はっはっはっ、はぁっ、はあぁっ!」


 心臓がバクバクする。息が自分でもはっきりとわかるくらい乱れる。


 え、なんだこれ。

 もしかして、これ、私が殺したことになるのか?

 いや、違う。私は悪くない!

 あいつが悪いんだ!

 あいつが私に掴みかかってくるから……。


「岡野君?」


 ドキリッとする。

 背後から声をかけられた。

 あの声だった。

 私を散々苦しめているあの声。


 振り返ると、やはり水口がいた。


「良かった、無事だったのね、はぐれたみたいだから心配で探しに来たの。 野山君は……」


 彼女が私の背後を見る。

 そして気づいてしまった。

 死んでいる彼に。


「岡野くん、これ……」

「ち、違うんだ、私はやっていない、何もやっていないんだ! こいつが勝手に転がり落ちて、死んだだけなんだっ!」


 今振り返ると、怪しすぎる発言だが、水口はあの絵と同じ表情で私を見つめ、「そう……うん、わかっているわ、全てわかっているから、大丈夫よ」と言ってきた。


 何がわかっているというんだろう。

 まさか、私のせいで彼が死んだことにも気づいているのか?

 知ったうえでそのような微笑を浮かべているのか!?


 そう考えると怖くて怖くて、たまらなかった。

 やがて、他のサークルメンバーもこちらに来た。

 「何が起きたんだ?」とサークルの代表の大木さんが野山を見て驚きながら言うと、水口が「野山君は滑ってこの斜面で転がって、そしてあの大きくて鋭利な形の石に頭を打ってしまったみたいです」


 と私の名前は一言も出さず言った。

 何のつもりだ、水口?

 私を助けたつもりか?

 彼女を見ると、目が合った。

 そして彼女はあのモナリザの絵と同じ顔で、ただ私を見つめ続けてきた。


 いや、違う。助けてなんていない。

 私は彼女に弱みを握られたんだ。

 これはそういうことなんだ。

 そうに違いない!

 ああ、なんてことだ……よりにもよってこの女に……。


 その後、警察が来て、署まで連行されて、いろいろ事情を訊かれたが、結局、野山君は不運な事故で死んだということになった。

 私は最初こそ事件の関与を疑われたが、最終的には彼の死に何の関係もしていないという結論を下され、解放された。


 だが、私は全然安心できなかった。

 水口に弱みを握られてしまったからだ。

 彼女はきっと何もかもわかりきっている。

 全てわかったうえで、彼女は私をあの目でずっと見続けるつもりなんだ。

 そんなの、耐えられるわけない。

 なら、どうすれば……


 その時、あるアイデアがピカッと閃光を伴って私の頭に浮かんできた。

 ああ、そうだ、そうすればいいじゃないか。

 なんでもっと早くそれを思いつかなかったんだ!


 彼女を消そう、そう決意した。

 もはや、それしかない、私の心の平穏のためには、あの忌まわしきモナリザを抹殺する他ないのだ!


 一週間後、私は彼女を自宅に呼んだ。


「男の人の家に来るのなんて初めて」


 と能天気に微笑を浮かべて彼女は私の部屋に入ってきた。


「どうぞ、リビングへ」


 私は先に水口さんを歩かせた。

 そして、彼女が私に背中を向けた瞬間、ズボンのポケットに入れていたナイフで無防備な背中をブスっと刺した。


 はは、ははははははははっ!


 どうだ、さすがのお前ももう笑うことはできないだろう?

 さぁ、私に見せてみろ、無様な表情を!

 そう思って彼女の顔を見た瞬間、驚愕した。

 水口は微笑んでいたのだ。あの絵のように。


「ふ、ふざけるなぁぁあ、なんでまだ、そんな、その顔をやめろぉぉぉぉぉぉ!」


 私は水口を押したおし、彼女の顔面を刺した。何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も! 顔の原型がなくなるくらいに!

 やがて、目の前には、顔のない女性の死体と血だまりが、ただあるだけになった。


 やり遂げた。

 ついにやり遂げたぞ。

 これでもう私はあの顔を見なくてすむ!

 踊りたい気分だった。

 だが、その前に、この死体をバラバラにして、どこかに埋めないと……。


 ああ、でも、なんか疲れた。それをするのは明日でいいや。

 心地よい疲労感を抱いて、私は風呂に入り、その後、人生で一番なんじゃないかというくらい、穏やかな気持ちで床に入った――



 また私は知らないところにいた。

 どこかの小さな村。

 周りには廃墟だらけ。遠くにぼろぼろの教会が見える。

 そこで気づく。

 ああ、これは夢なんだと。

 嫌な予感がした。

 そしてそれはすぐに的中してしまった。


「フフフフフフフ」


 あの不気味な笑い声が背後から聞こえてくる。

 後ろを見ると、いた、モナリザが。

 私がぐちゃぐちゃに破壊した顔ではなく、あの絵のあの顔で、私の眼前にまた現れたのだ!


「ああ、そ、そんな……」


 私は絶望した。

 彼女は殺しても消すことができないのだと、気づかされた。


「フフフフフフ!」


 モナリザは笑う、あの絵の顔で。

 微笑を崩さず、不気味な笑い声を上げつづける。


「どうすれば消えてくれるんだ?」

「無理よ、あなたは私を消すことはできない、私も消えるつもりはない、だから、あきらめてずっと一緒にいましょう?」

「いやだ……」

「これは運命なのよ、運命からは逃れることはできない、人が皆いずれ死ぬように……ね」

「じゃあ、どうすればこの恐怖から解放される?」

「簡単よ、私を受け入れてくれればいいのよ」


 彼女はそう言って腕を広げた。


「さあ、おいで? あなたの全てを受け入れてあげるから。どれだけあなたが悪党だろうと、醜い心を持っていようと、私は許してあげるから……ね?」

「あ、あ、ああ……」


 手を伸ばす、彼女の美しい手に向かって。

 歩いていく、彼女が待つそこへ。

 私はこれをずっと望んでいたのかもしれない、

 ああ、本当は、私は、私はっ!


「ねぇ、あなたのことは全てお見通しなのよ? 本当は私のことをどう思っているのかも……」

「あ、ああ、ああぁ……」


 輝いて見える、彼女が。

 恐ろしいけど、吸い込まれていく、彼女のあの瞳に。

 

「ねえ、聞かせて、あなたの本当の気持ちを?」

「あ、あ、ああ、愛している、私はずっと君を愛していたんだ」

「ふふ、私もよ、愛しているわ、京一、だからほら、早く来て?」

「ああ、行くよ、今すぐに……!」


 私は走った。全力で。


「ほら、もうすぐ、もうすぐよ、フフフ、フフフフフフ、フフフフフフフフフフフフフ、フフフフフフフフフフフフフフフフ、フフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフ、フフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフ!」

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