モナリザを殺した
桜森よなが
前編
モナリザを初めて見た時、底知れない恐怖を感じた。
あれは小学生の頃だった。
親に連れられて、私はある美術館に訪れていた。
そこで、レプリカだったが、モナリザの絵を見た。
その瞬間、私は足を杭で打ち付けられたかのようにその場から動けなくなり、冷や汗をだらだら流し、足をがくがくと震わせた。
あの絵は美しかった。それはもう非常に。しかし、その美しさが恐ろしくもあったのだ。
特に、あの目だ、あの全てを見透かしたような瞳!
見ていると、なんだか、自分の心の醜悪な部分を直視されているような気がしてくるのだ。
そして、あの微笑した口元!
あの唇だけならべつに何も恐ろしくはない。しかし、あの目と合わせて見た時、それは根源的な恐怖を生む。
なぜだ、なぜそんな瞳で私を見つめてくる!?
どうして目は笑っていないのに、口はそんなに笑っているのだ!?
それは奇妙な二律背反に思えた。どう見ても、あの目とあの口は私には両立不可能のように感じられるのだ。
しかし、なぜか全体として見ると、不思議とバランスが取れているように見える。
その不可解な調和と美しさが、私は恐ろしくてたまらなかった。
ずっと直視できず、私はとうとう目を逸らした。
そしてその絵が展示されているところから足早に離れた。
しかし、どれだけ離れても、あの絵は私の頭から消えてくれなかった。
モナリザを見たのはおそらく十秒にも満たない、いや、それどころか五秒にすら満たないかもしれない。
だが、あの絵は私の脳内に鮮明な姿で残り続けたのだ。
家に帰ってからも、彼女は私の頭から一瞬も離れなかった。
「出ていってくれ!」
思わず、夕食のときにそう叫んでしまった。
「え……?」
と私の向かい側の席にいた母が、面食らっていた。
そして数秒後には、涙目になった。
「きょう君、私、なんか怒らせるようなことした? もしかして私が作ったハンバーグ、おいしくない?」
母のそんな様子を見て、彼女の隣にいた父の目が鋭くなる。
「なんだ、京一、母さんの料理に文句でもあるのか?」
「ち、ちがうんだ、今のは母さんに言ったわけじゃなくて、ただの独り言なんだ、ハンバーグ、すごくおいしいよ」
「なら、いいけど……でも、きょう君がそんな乱暴なことを言うなんて、珍しいわ。とても穏やかな子だと思っていたけど」
母からそう言われて、ハッとした。
そうだ、たしかにそうだ。
私は自慢じゃないが、あまり怒らない。
友達にゲームのセーブデータを消されても、お気に入りのシャーペンを借りぱくされても、大事にとっておいた給食のプリンを勝手に食われても、たいして怒らなかった。
そんな私があからさまに怒りの感情を発露したのだ。
自分で自分に困惑した。
これは本当に私なのか、とすら思った。
ご飯を食べ終え、お風呂に入り、歯を磨き、ベッドに入った後も、モナリザは私の脳内に住み続けた。
寝よう、私は目を閉じた。
そうしたら、彼女のことを見なくてすむ……
そのはずだった。
気づいたら、どこか知らない場所にいた。
ついさっきまで戦争をしていました、一言で表すと、そんな感じの場所だった。
荒れ果てた大地、血だらけの兵士の死体、バラバラになった手足。飛び散った臓物。ぼろぼろの建物、鉄と煙の臭い。燃えるような暑さ。
グロテスクな光景に、うっ……と吐き気がして、口を押さえる。
「フフフフフ」
笑い声が聞こえる。
たぶん女性の声だ。高くて透き通っていて、どこか不気味な声。
「フフフフフフフフフフフフフ!」
さっきよりも近く聞こえる。
「フフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフ!!」
だんだん声が近づいてくる。
バッと後ろを振り返る。
そこには、あのモナリザとそっくりの女性がいた。
いや、あれは本物だ、おそらく。
モナリザは私の三十メートルくらい後ろにいる。
彼女は歩いているのに走っていた。
意味が分からないことを言っていると自分でも思う。
しかしそうとしか表現できない。
彼女は歩いているような進み方で、走っているような速度を出しているのだ。
それを証拠にさっきまで三十メートルあった距離があっという間に二十メートルに。
そして次の瞬間には十メートルに。
「フフフフフフフフフフフフ」
彼女の笑い声が間近で聞こえる。
既に私から五メートルくらいの距離にいた。
「く、来るなぁぁぁぁあああ!」
私は叫んで、逃げ出した。
全力で走った。
私はクラスで一番足が速い。50メートル走を6秒台後半で走るし、持久力も自信があって、1500メートル走は5分台を切る。
なのに、そんな私が本気で走っているのに、ずっとすぐ後ろで「フフフフフフ」と聞こえてくる。
一分経っても、二分経っても、三分経っても。
ずっとずっと不気味な笑い声がついてきてくる。
ちらっと背後を窺う。
モナリザが私のすぐ後ろにいた。
あの絵のあの表情をしている。
あの、なにもかも見透かしたような目で私を見てくるのだ!
「見るな……その目で僕を見るなぁぁぁぁああ!」
私は再び前を向き、がむしゃらに走った。
ずっと、ずっと……。
気づいたら、ベッドの上にいた。
知っている天井だ。
ここは僕の部屋だ。
どうやら私は夢を見ていたようだった。
汗で体中がびっしょりと濡れている。
こんこんとドアがノックされる。
ガチャッとドアを開けて、母が部屋に入ってきた。
「きょうくん、大丈夫、なんか叫び声が聞こえたけど……」
「だ、大丈夫だよ、母さん、ちょっと怖い夢を見ていただけだから」
「そう? ならいいけど……」
と心配そうな顔をしながらも母は去っていった。
いつもより少し早い時間だったが、私は起きることにした。
今日は学校に行く日だ。
登校し、授業を受け、休み時間は友達とくだらない話で談笑し、昼休みは給食を食べた後、ドッチボールをする。
その間、ずっと頭の中にはモナリザがいた。
ずっと彼女はあの絵のあの顔をしていた。
やめろ、いつまでそこにいるつもりだ?
出ていけ!
心の声でそう叫ぶが、彼女はあの微笑を崩さなかった。
学校が終わり、帰宅し、夜、ベッドに入るまで、相変わらずモナリザは私の脳内にいた。
眠るとまた彼女の夢を見た。
今度の場所は草原だった。
遮蔽物がないため、身を隠す場所がなく、私は目覚めるまでずっと彼女と追いかけっこをさせられた。
それからも、毎日、起きている時もモナリザは頭の中にずっといるし、寝ている時も彼女は私の前に登場し続けた。
違うのは、夢で会う場所くらいだった。
時にどこかの学校のグラウンド、時にどこかの公園、時にどこかの遊園地。時にどこかの森。時にどこかの砂漠……。
いろんな場所で彼女と出会った。
そして毎回、追いかけっこをした。
朝起きると、いつも汗だくだった。
そんなことが小学生の間ずっと続いた。
中学生になると、あまりモナリザの夢を見なくなった。
彼女が頭の中に浮かぶことも少なくなった。
念のため、私は美術の教科書に載ってあったモナリザの絵を黒いペンで塗りつぶしておいた。
それをたまたま美術の先生に見られて、「落書きするな」と怒られたけど、私は無視した。
そして中学二年生になったある時のことだ。
私はクラスメイトのある女子から告白された。
目がクリッとしている、可憐な女の子だった。
私はその子と付き合うことになった。
恋人になってから一週間たって、二人で手をつないで下校している時、偶然、人気のない道を歩くことになった。
彼女は急に立ち止まり、私を見て、目を閉じ、顔を近づけてきた。
私も顔を彼女の方へ近づけようとした……
そのとき、突然モナリザの姿が頭の中に鮮明に浮かんだ。
あの絵のあの表情で私をじーっと見てきたのだ。
「……どうしたの?」
いつまでたってもキスしてこない私を不審に思ったのか、彼女は目を開けて、首を傾げる。
「ごめん……君とはキスができないみたいだ」
「は、なにそれ?」
「……ごめん」
彼女は怒った。それはもうカンカンに。
頬を平手で強く叩かれた。
その日、私は恋人を失った。
それ以来、またモナリザは四六時中、私の頭の中に居続けるようになり、夢でも毎日、私の前に現れるようになった。
やめろ、私の前に現れるな、頭から出て行け!
そう思えば思うほど、夢で彼女が登場する回数は増え、より鮮明な姿となって私の前に現れるようになった。
なんなんだよ……どうして私の頭から出ていってくれないんだ!
地獄のような日々をずっと過ごしていた。
だが、高校生になって、ようやく彼女が頭に浮かぶことが少なくなってきた。
夢でもあまり彼女と会わなくなった。
平穏な日々を過ごしていると、高二の頃、またクラスメイトの女子から告白された。
背が高くて、細身で、つり目気味の美人な子だった。
私はその子と付き合うことにした。
付き合って一ヶ月が経った頃。彼女が私の家に来た。
その日、私の家には両親がいなかった。
いい雰囲気になり、自然と私たちはベッドへ移動した。
私は避妊具を装着して、彼女は股を開いた。
「来て……」
そう言う彼女に、私は挿入しようとしたのだが、その時だ。
「フフフフフフフフフ」
あの不気味な声が、突然聞こえてきた。
そして、またモナリザが私の頭の中に現れだした。
あの全てを見透かしたような微笑を浮かべて。
やめろ、見るな、その目で私を見るなあああああああ!
「……どうしたの?」
「ごめん、俺は君とセックスができないみたいだ」
「……なにそれ、ふざけているの?」
「ごめん」
彼女は服を着ると、足早に出て行ってしまった。
そして二度と彼女は私と会話をしてくれることはなかった。
モナリザはまた私の頭の中にずっと住み着くようになってしまった。
そして夢でも、また彼女は現われるようになった。
高校生になっても、私はモナリザと毎晩、夢の中で追いかけっこをするはめになる。
だが、高三になって、受験勉強をしていくうちに、だんだん彼女のことを忘れてきて、第一志望のところに合格し、大学生になると、モナリザのことなんてほとんど考えなくなっていた。
夢でも、まったく登場しなくなっていた。
とても穏やかな日々を過ごし、もうこれであの絵に悩まされることはないだろう、とそう高を括っていた。
そんな時に、彼女と出会った。
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