第10話 契約妻の女官勤め(4)

(何もしていないのに、疲れた……)


 撫子は衣を脱ぐと、一気に肩の荷が下りたような気がした。

 女官は女官用のお召し替え部屋で着替え、衣は各自の「長持ち」という蓋付きの箱に入れておく。撫子もそれに倣ってしきに最低限の荷物を包むと、東宮御所の女官用の申し口から出た。

 建物の廊下でつながった先には女官棟があり、住み込みの者はそこから出勤している。

 女官には日勤者の他にも「お残り」という宿直をする者もいるのだが、新参の撫子はまだもう少し先のことであろうと思われた。


 あ、と撫子は小さく声をあげた。

 申し口の所に立っていたのは、優雅であった。撫子は驚くと同時に、本日初めて心からほっとした。


「迎えに来た」

「驚きました……」

「夫が妻を迎えに来るのは、おかしかったか?」

「いえ! ……ありがとうございます」


 優雅はとうぐうかんだが、毎日東宮御所にいるとは限らない。軍の訓練のため屯所に赴く日もあれば、東宮武官長の補佐のための随従もあり、武官としての護衛や待機も交代制であるらしい。そんな中、わざわざ迎えに来てくれたのだ。

 驚いたが、とてもありがたく感じた。


 東宮御所のしきから門まで、撫子は優雅の数歩後を追いながら歩いた。周囲には樹齢数百年はあろうかという大きな木々が多く、もりという言葉がしっくりくる光景であった。


「東宮さまのご様子はいかがだった?」

「えっと……まだごあいさつだけで、お近付きになれておりません。申し訳ございません」


 初対面で拒絶されてしまった、などととても言えなくて、撫子はそう答えるしかなかった。

 ただ、半日東宮御所で感じ取った印象としては、子どもらしいはつらつとした様子がなく、終始機嫌は悪いように感じられた。


「東宮さまの具合は、夏の御用邸に行かれていた際は一時的に改善された。けれどここに戻られてから、以前よりさらに悪くなってしまわれた。このことから、おそらく精神的な不調に違いない。辛抱強く接してくれ」

「わかりました」


 本当は色々と聞きたいのであろうが、深く聞かない優雅の態度に撫子はほっとした。

 普段、東宮御所に勤めている者は、敷地内の中でも比較的近い西側の門から出入りをする。

 撫子と優雅はそこから徒歩でしきに戻るのだ。

 普通、高貴な家柄の者は車や人力車に乗って移動する。けれど優雅は一介の軍人として日常は徒歩で移動しているし、時折使用している車は、軍の所有物であるらしい。

 撫子も乗り物に慣れていないし、優雅を差し置いて乗るのも気が引ける。だから優雅に倣って徒歩で通勤することにした。


 屋敷に着き、優雅の様子に撫子はあれ、と首を傾げた。

 ここひと月、優雅はほぼ官舎の方で過ごしていた。

 そのため、この日は一緒に屋敷に入ったことに違和感を覚えたのだ。

 撫子の反応に、優雅はほんの僅かに苦笑しながら告げた。


「今日からは一緒に暮らす。夫婦なのだから、共に暮らしていないとおかしいと勘繰られるだろう」

「官舎生活をされていたのでは……」

「……君が慣れるまで、男は外の方がいいと思っていたんだ」


 どうやら優雅の官舎生活は、彼の気遣いであったようだ。もちろんや軍務で忙しかったのは本当だろうが。


(本当に良い人……!)


 色々と疲れているので、ささやかな優しさに本当に感動してしまった。

 そういえば、ここ数日露草が忙しそうに、荷物を奥の一室に運び込むなどしていた。手伝うことを申し出たら、大切な物なので触らなくてよいこと、そのようなことをしている暇があるのなら宮中の作法や教養を頭に入れなさい、と断られたのだ。

 そういうわけで、その日は初めて優雅と食事をとった。

 時折「今日はかもにくなんだな」「はい、初めて食べました」といった料理に関する短い会話を挟むぐらいであったが、今日一日見ず知らずの環境にいたためか、優雅と何気ない会話が出来ることに安心感を覚えていた。



 夕食後。残り湯を使わせてもらい、体を清めた撫子が廊下を歩いていると。


「そういえば伝えるのを忘れていたんだが」


 突然背後から声をかけられ、撫子は飛び上がりそうになった。


(足音がほとんどしなかった……)


 見ると、一足先に入浴を済ませていた優雅が、ゆったりした和服姿で近寄っていた。

 普段は軍服姿なので、とても新鮮であった。

 さすがに髪を洗ったからなのか、いつも髪に結んでいる赤い紐は、今は外している。


「俺は訓練の影響で、さいな物音で眠りが浅くなってしまう。だから、俺が寝ている間、部屋へは近付かないようにしてくれ」

「わかりました」


 撫子が返答をすると、優雅はいたわるように首をかしげて尋ねた。


「疲れたか?」


 宮中のことは親兄弟にも話してはいけない、と言われている。だから使用人や露草がいる前で話すことは控えていたが、同じ職場の優雅ならよいだろうか。本日会った東宮の様子など、話をするなら今だ。

 けれど、具体的に何かが撫子の口から出て来ることはなかった。


「……少し」

「そうか。慣れない場所は、俺も苦労をする。家のことは露草と他の者らに任せるように。……おやすみ」

「おやすみなさいませ」


 以前、就寝のあいさつをした時は、軍人と女中のあいさつだった。

 今は少し、夫婦っぽかっただろうか、と撫子は首を傾げた。けれど何だか浮わついた考えのような気がして、撫子は首を振って、そんなふわふわした思考を追い出した。


 床の間に飾った、皇后から頂いた短冊を前に撫子は正座をする。

 明日も朝から出勤だ。今はただ、自分のお役目にいそしまなくては。

 撫子は本日あった様々なことを思い返す。

 あの宮中内で上手うまく立ち回るのは、きっととても難しいだろう。

 東宮に力を注いで、お元気になっていただくことは、果たしてかなうのだろうか。

 そのためには、もっと東宮や内部のことを知らなければいけない。

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