第9話 契約妻の女官勤め(3)

「新参さんが、東宮さまのご機嫌を損ねてしまわれたそうですよ」

「まあ、一体何をされたのかしら」

「お気に触るような態度だったのかもしれませんね」

「まあまあ、皆さま。そのような大きなお声でお話ししてはったら、聞こえましてよ。ここのことを何にも知らないお人やから、自分の粗相にもお気付きでないのでしょうよ」


 そんなささやきが、建物の奥から聞こえてくる。

 ぐさぐさと心に刺さりながら、撫子はほうきを手に、足早に御殿の側を通り抜けた。


 女官長に連れられて他の女官らに一通りあいさつはしたものの、皆どこか澄ました様子だった。そして何故か、女官長がしゃべったわけでもないのに、東宮とのあいさつの一件も知られてしまっていた。もしかしたら、誰かが聞き耳を立てていたのかもしれない。

 もっと温かな言葉をかければ良かったのだろうか、と思ったが、あの状況ではそのようなことが出来るはずもなく。

 早速期待に応えられなかったことに、撫子は落ち込んでため息を吐いた。


 撫子は世話親となる女官長の指示のもと、動くことになる。しかし、女官長は今、「表」で用があるらしく、それまで別の仕事を言いつかった。

 それは庭のカラスを追い払うという仕事であった。

 袴と同じ緋色ひいろの靴を履いて庭に出て、手に持った箒で木の枝にいるカラスを追い立てる。

 不吉なカラスは高貴なお方の目に触れるのは良くない、ということで申し付けられたのだが、払ってもその場しのぎでいくらでもやって来る。かあ、と鳴かれ、何だか侮られているような気がした。


(女官のお仕事で、こういうのがあるってお話しされていたかしら……?)


 想像していたのと違う仕事内容に、首をかしげながらも一生懸命追い払っていると。

 ふと、すすり泣く声がしげみから聞こえた。

 撫子はそっと声の聞こえる方に近付き、木立をのぞき込む。

 同い年ぐらいの少女が涙を拭っていた。撫子とよく似た服装で、水色のうちきに濃い紫色の袴を身に着けている。

 声をかけてよいものか僅かにためらったが、撫子は放っておけず、近付くことにした。


「だ、大丈夫、ですか……?」


 しかし、自分の出した声は思ったよりも小さかった。

 撫子はもう少し近寄ると、再び声をかけた。


「大丈夫ですか?」


 だが、彼女は返答しない。


(絶対に聞こえているはずなんだけど……)


 泣いていて気付かないのかもしれない。

 撫子は手を伸ばして、背中にとんと触れた。その拍子に、温かい光が指を伝って彼女に注がれる。心の強張こわばりが和らぐよう、ほんの一瞬だけ。

 その子は触れられたからか、もしくは力が届いたからか、驚いた顔をして振り向いた。


 器量の良い娘であった。涙を流していたからか目元は赤いが、鼻筋も通っていて、微笑ほほえんだらさぞ華やかだろう。美しい女官というのは、彼女のような者を指すのだろうと撫子は思った。

 撫子の姿を見て、彼女は戸惑った様子を見せた。


「突然声をかけてごめんなさい。本日から東宮御所でお勤めさせていただきます、撫子と申します。お庭でご用を言いつかっていたのですが、お姿を見かけてつい……」


 撫子の声はどんどん小さくなっていった。

 考えてみれば、いきなり知らない人に声をかけられたら、普通はびっくりしてしまう。特に泣いていたら、放っておいてほしい時もあるだろう。


「ここなら誰も来ないと思っていましたのに……」


 彼女はそう言って、目元の涙を拭った。

 力を注いだのは一瞬だったので、気付かれてはいないようだが、気持ちは多少落ち着いたのだろう。弱々しさから、しゃんとした面立ちになった。


「お見苦しいところをお見せいたしました。東宮さまにお仕えする初音はつねと申しますわ」


 彼女は撫子と同い年の女官にょかんであった。

 泣いていたのは、足袋たびひもを自分の手で直そうとしたのが見付かり、𠮟責を受けてしまったからであったそうだ。高貴なる人に接するには、腰から下は『けがれ』になるので、足袋紐も他の者に直してもらう必要があるという。

 宮中のしきたりを頭に入れていたものの、想像以上の厳しさに撫子は内心おののいた。


「でも、お庭は出てもいいのですよね……?」

「はい。それはかまいません」


 外に出た方が汚れそうであるのだが、その概念の違いに撫子は困惑した。


「あの、教えてくださってありがとうございました。私も同じことをしてしまっていたかもしれません……。もし次に足袋紐を結ぶのが必要になりましたらおっしゃってください」


 そう伝えると初音が驚いた顔をしたので、慌てて言い添えた。


「その……私は小さい子の面倒を見る機会が多かったので。紐結びとか、頼まれて何かするのに慣れています……」


 女中であったことは言えないが、ぼやかしながら何とか良家の子女でもありえそうな内容として伝える。


「でもそうしたら、あなたに手を洗うお手間をとらせてしまうわ」


 初音のもっともな指摘に、撫子はうろたえてしまった。


「……そ、そうでした」


 すると、撫子の反応に初音は少しくすりと微笑んだ。


「ありがとうございます。私も女官の中では一番年下だったので、そう仰ってくださって心強いわ。足袋紐を頼めるかはその時の状況によりますが、また何かございましたら、よろしくお願いいたしますね」

「は、はい……!」


 そして初音は気を取り直した表情で一礼すると、御殿の方へ戻って行った。

 撫子はほっと息をついて、先程の場所に戻るとカラスの確認を再開した。

 なんとか気持ちを落ち着けることが出来たようで、良かった。

 そう安堵あんどしていると程なくして、今度は年嵩としかさの濃い紫ばかまの女官が現れた。女官は撫子を見付けると、鋭い声で言い放った。


「今からお庭で東宮さまの剣術のお稽古の準備をします。あちらへ行ってなさい」

「あの、では代わりに何をしたら……」

「それはあなたの世話親に聞くべきことかと存じます」


 素っ気なく言われてしまった撫子は、そのままとぼとぼとした足取りで御殿に戻った。

 しかし御殿でも居場所がなく、何をしたらよいのかわからない。困っていたところ、女官長が戻って来たので、撫子は急いで次の用事を尋ねた。


「本日は特に何もしなくてよいです。私の後ろに付いて、仕事を覚えなさい」

「……はい」


 何もしなくてよい、という言葉にもどかしさを覚えたが、そう言われたら、新参者である撫子はうなずくしかない。

 その後は言われた通り、女官長に付いて仕事に回った。

 東宮が使用した勉強の道具の片付け、稽古後の着替えの準備、食事や寝る部屋の掃除と準備など、事前に女官教育で学んでいたとはいえ、いざ現場で見ると細かく覚えることや手順、気遣いなどは山のようにあった。

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