第8話 契約妻の女官勤め(2)

「さあ、こちらへ」


 感慨にふける間もなく、誘導されて撫子は御座所へと案内される。

 袴であることに加え、帯がないので、普段よりも動きやすいように撫子は感じた。

皇后が日常を過ごす御座所は、和室に絨毯が敷かれ、洋風の家具が置かれている。

 高貴な人が住む独特の、幽玄な静けさと穏やかな時間が流れているように感じられた。

 緊張はいよいよ最高潮となる。

 撫子は震えそうになりながらも、女官長と並んで絨毯の上に座り、平伏ひれふした。


「面を上げなさい」


 声をかけられて、撫子は顔を上げた。

 長椅子に、一人の女性が腰をかけていた。

 豊かな黒髪を美しく結って下げ巻きに、こぼれる横髪は両肩に流している。豪奢ではないが、淡い黄色の絹の色染めが美しい仕立ての良いドレス姿であった。

 東宮の母であり、大人の魅力にあふれた女性だが、まるで少女のようにふわりと笑った。


綺麗きれい……)


 間違いなく、撫子の人生で出会った人の中で一番美しい女性であった。

 皇后には体が弱いといううわさがあったが、堂々とした姿で、とてもそのようには見えなかった。


「ごあいさつを」


 皇后付きの女官に促されて、撫子は口を開いた。


「初めてお目もじつかまつります。撫子と申します」

「そう。もう既に源氏名のような、可愛らしい名前を持っているのね」


 ひと昔前の女官にょかんは、源氏名を賜るのが一般的であったそうだ。今でも風習は残っているが、必ずしもというわけではないと聞いていた。


「これを」


 皇后は優美な仕草で手を差し出し、女官へ指示する。

 すると、短冊と筆と墨の載った黒塗りの盆が運ばれてきた。皇后は筆を手にとると、さらさらと短冊に何かを書きつける。

 女官を介して渡された短冊には達筆で、花と共に訪れた秋の季節を喜ばしく思う旨の歌が記されていた。

 皇后の賢さと雅さを兼ね備えたその振る舞いに、撫子は圧倒されて思わず手が震えた。


「皇后さまはお歌を好まれ、その時々に心に浮かんだ句を詠まれるのです」

「差し上げるわ。どうか東宮を頼みましたよ」


 畏れ多くて、撫子は平伏する。感動しすぎて礼を何と言ったか覚えていない。けれどその心は、確かにときめいていた。


「ようございましたね」



 女官長に言われて、撫子は短冊を丁重に抱えながら一礼した。


「家宝にいたします」


 今、撫子が使用している部屋に床の間があるので、帰ったらすぐに飾ることを決めた。


「皇后さまとのお目見えも無事に済みましたので、こちらをお渡ししましょう」


 差し出されたのは、真鍮しんちゅうの笛であった。


「一身をかけてご奉仕する女官には、緊急の際に使用出来るよう、こちらの呼子よびこ を渡しております。常時、肌身離さず持っておくように」

「はい」


 撫子は受け取ると、たもとに入れた。


「では、このまま東宮さまのもとへ参りましょう」


 そして先程の着替えの入った風呂敷ふろしきを抱えて、女官長の後ろに付いて行った。

 皇后との謁見が上手うまくいったことに、嬉しさと高揚を覚えたからだろうか。撫子は次なる東宮へのあいさつに、緊張しながらも少しの期待が膨らんだ。

 東宮の住まいは同じ皇宮の敷地しきち内だが、宮殿から離れた所にあった。

 周囲はかしけやきの木が生い茂り、とても静かな一帯だ。


(あれ、ここは……)


 よく見ると、初めて東宮侍従長じじゅうちょうのもとに案内された時に訪れた建物であった。元々皇族邸として建てられ、今は東宮が住んでいるので東宮御所と呼ばれているそうだ。

 東宮御所も宮殿と同じように絢爛豪華ごうかな場所かと思っていたが、そうではないらしい。

 皇族であっても贅沢ぜいたくに慣れてしまわないよう、質素な建物の造りにされたのだという。


 正直、撫子は少しほっとした。

 いきなり宮殿のようなきらびやかな所で仕事をすることになったら、身が持たないと思ったからだ。

 執務室のある洋館と、東宮が日常を住まう和風の御殿に棟は分かれており、優雅ら東宮とうぐう武官ぶかんが詰めているのは、洋館の方に当たる。


「私たち女官らが勤めるのは、こちらの奥の御殿の方となります」


 和風の建物は二階建てで、上が学問所と呼ばれる勉強の間、下が日常を過ごす間となっている。

 こちらも宮殿の表と奥のように、廊下でつながっている。

 女官長の案内で、撫子は廊下を通って、洋館から御殿の方へと進んだ。

 質素な建物といっても、やはり造りは立派なもので、各所に皇家の象徴の花である菊をかたどった紋様がある。ふすまの引手一つにも繊細な意匠が施されており、華美でない分、趣深さを感じられた。


 御座所前の畳廊下にて、撫子は先程と同様に両手をついて、東宮が訪れるのを待った。

 こちらも畳に絨毯を敷いた部屋だが、室内の奥には屛風びょうぶがあり、その手前に深紅の布張りの椅子がある。

 しばらくすると、女官の滑らすような足さばきとはまた違う、絨毯を踏む軽い足音が聞こえてきた。その足音の主は、体重を感じさせない軽やかな動作で、布張りの椅子に腰をかけた。


「東宮さま、本日からこちらの御所で仕えることになりました新参の女官、撫子でございます」


 女官長はそう言って紹介をした。

 しかし返答はない。撫子は顔を上げる間がわからず、平伏し続けている。


「彼女は、朝霧あさぎり優雅殿の奥方であります」


 女官長のその言葉に、東宮は初めて反応を示した。


「――優雅の?」


 五歳という年相応の声音が聞こえた。それと同時に動く気配を感じた。


「東宮さま?」


 小さな素足が見えて、思わず撫子は許しを得ていないのに顔を上げてしまった。

 頭に白い布をかけている。布地から垣間かいまえた面差しは黒目がちで、撫子のことを品定めするように眺めていた。


 布をかけていてわかりにくいが、肩より長めの髪を後ろで一つにくくっているようだ。服はまだはかまのない童装束であった。萌黄もえぎ色の地に小槌こづちの柄で、身丈に合わせた肩揚げと腰揚げがされた薄物である。腰は苦しくないよう、柔らかい兵児へこおびが結ばれていた。


「東宮さま、お戻りくださいませ。お行儀が悪うございます」


 女官長が注意をする。すると東宮はふい、とそっぽを向いた。


「いらぬ」


 硬い声音が室内に響いた。


「もうそんなにたくさん、女官はいらぬ。下がれ」


 東宮は素っ気なく告げると、訪れた時よりも急ぎ足で襖の奥へと引っ込んでしまった。


「東宮さま」


 女官長は厳しい声をあげたが、呆気にとられた撫子は声すらあげられなかった。

 皇后にあいさつをした時から続いていた高揚した気持ちが、一気にしぼむのを感じた。


「本日はご機嫌が斜めであらしゃりましたようで。このような時もございます」

「あの、私はどうしたら……」

「そうですね……」


 女官長は表情や感情をさほど出すことなく、思案する。


「あなたにはしばらく、東宮さまの目に入らぬ所で奉仕するよう、申し付けましょう」

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