第一章 母

 沙代、二才。

 子育て支援センターの親子教室に参加。

 沙代、三才。

 十二月に初めてクリスマスツリーを見て「キレー」という言葉を発したと、保育所の先生から聞く。

 沙代、四才。

 保育所を週に一度休ませ、幼児教室に通う。

 沙代、六才。

 四才からピアノを始めて二年、五才からダンスを始めて一年が経過。そしてこの年からから塾に通って八ヶ月かつ、乗馬を始めて十一か月。

 そんな記録を辿ってみると、過去の母の苦労が思い出される。母は沙代の悩みを主に自分一人で抱えてきた。きっと責任感と罪悪感を感じていたのだと思う。

 何かをさせて、ちょっとでも新しい変化を期待していた。でもそれがすべて上手くいったとは限らなかった。泣くことの方が多かったかもしれない。

 それでも。

「無駄なことなんてない」

 母は信じた。沙代の希望を。そのおかげか今、沙代はすくすくと成長している。

 でも、私は知っている。

 まるで心の中に岩石があるみたい、と過去に母が呟いていたことも。

「母さん何見てるの」

 午後十時半。

 お風呂上がりでほかほかの沙代が、階段からひょっこりと顔を出す。

「ん? 沙代ちゃんの記録だよ」

「そっか」

「そうよー。沙代ちゃんがおっきくなったなーと思って」

 ぱたんとその記録簿は閉じられる。

「さ、明日学校よ。早く寝なさい」

「はーい」

 短い廊下でそう会話した後、沙代と母は寝室へ行き布団へダイブする。そこには、私がいた。

「ぐえっ」

 情けない声が出る。先ほど見えた、あの微笑ましい光景は何だったのであろうか。

 私の上にはかけ布団があり、それがさらに重みとして私に襲いかかる。沙代と母はそれをわかっていながら、軽く体重をかける。

「重いんやけど。母さん、沙代、おりてくれん?」

「いややんなー、沙代」

「なー」

 母と沙代は特に似ている。二人はいつもいっしょにいる。

 そして構うのは、ちょこっとめんどくさい。

「早く寝るって話じゃないん? もう十一時やで」

 なんとか話題を変えて上から退いてもらおうと必死で模索する。ちょっと苦しい。

「忘れてた、早く寝ないと。こんなことしている場合じゃないね」

 ころころと布団から転がり、私の上から退く。沙代もそれに続いた。

 二人とも布団に潜り込む。父は仕事の疲れのせいか、まったく起きない。

 私はがばっと起き上がり、首をぐるぐると軽く回す。

「じゃあ、おやすみなさい」

「おやすみー」

 私が起こされた意味あったん……

 唐突に起こされ迷惑している私に構わず、電気を消す。

 午前八時。

 母が携帯にセットしていたアラームが鳴り響く。沙代が不機嫌そうにアラームを止める。私はうっすらと目を開ける。まだ八時じゃん、と思いながら沙代の肩をぽんぽんと軽く叩く。

 母はすっと起き、いつもと変わらぬ様子で台所へ向かった。そして沙代のためにせっせとお弁当を作る。フライパンにいるふわんとした卵焼きと、ジュウジュウと鳴るウインナーの良い匂いが漂ってくる。

 寝起きの沙代は機嫌が悪い。ぱっと見ただけですぐわかる。

「沙代、朝やで、学校やで、起きや!」

 母が沙代の布団をめくる。ついでに私の布団もめくられそうになったが、私はジタバタと必死に抵抗した。

「あーもうイライラする」

 そう言いながらも沙代はむくりと起き上がり、クローゼットから制服を引っ張り出す。バタバタと忙しく駆ける二つの足音を聞くと、私は安心してもう一度目を閉じた。

 午後一時。

 だらだらしている私が起きる時間が来る。布団からのっそりと起き上がって、また布団へ倒れこむとちょうどそこへメールが飛んできた。

「起きや」

 母からである。

 やなこった、と思いながらまた寝ようとすると今度はラインが飛んできた。

「起きろよ」

 彼氏からである。

私、今数秒の間に二回も「起き」って言われた……起きれない自分が情けなくて、これはもう起きるしかあるまいと布団を蹴飛ばし、急いで顔を洗いに洗面所へ向かった。

 顔を洗って鏡を見た。沙代は大丈夫かな、と心配になる。

 沙代は、私とよく似ている。昔から人付き合いが下手で、よくいろんな子と揉めてきた私の過去がある。そんな私の過去と妹の現在は同じ状況であり、今頃どうすればいいのか戸惑っていることだろう。

 私はもう一度顔を念入りにぱしゃぱしゃと洗った。気合いを入れるために少し強めに髪をくくる。

「バイト行かなきゃ」

 電車に乗ってバイト先のスーパーマーケットに向かう。バイトは行くまではめんどくさと思うが、到着するととたんにやる気が出る。

「いらっしゃいませー」

 愛想笑いをしつつ、少し高い声を出す。優しく微笑む人、ガミガミと怒鳴る人、無表情の人、どんな人にも丁寧に優しく接客する。人にいつ、どう見られているかわからないから、こういった場所で私は少し嘘の自分を模る。

 でも正直すぎる沙代にはそれができない。だからと言って、上手いこと嘘をつくようになれとは言えないなあ、と思いながら飲料のダンボールを運ぶ。

 午後九時。

「お疲れ様でした」

 バイトがようやく終わり、お店の前で解散するとアイフォンの電源を付ける。

 黒っぽいコートが薄暗がりにとけ、白い顔だけがその景色の中で浮いている。

 着信が十件とラインが十五件、入っていることを確認した。しかしそれは嬉しい連絡ではないことを私は知っていた。

 思わずため息をつく。

 着信にライン、どちらも母からの連絡だった。歩きながら連絡先から母という文字を呼び出し、タッチする。

「もしもし、母さん」

「玲衣、もう私しんどい」

「どうしたん」

 母は声を荒げた。いつもより辛そうだ。

「沙代な」

「うん」

「今日もまた仕事、中断した」

「……またか」

 沙代は学校で嫌なことがあって家に帰ると、母に必ず電話する。

 話すことは悪いことではない。しかし、母もずっと暇ではない。毎日ほとんど仕事だ。

 だから沙代には、家に帰ってから直接話し、とずっと私から言い聞かせをしてきた。

 ところがその癖はなおらない。なおらないどころか、最近では「数学が嫌だ」と些細なことでさえも嫌がって泣き出し、通話することもあるようだ。

 沙代に泣かれては母も心配で、しかし今やっている仕事を放り出すわけにもいかない。母は沙代と仕事に挟まれ、ストレスが溜まっていた。

「すぐ帰る。帰ったら話聞くから」

 通話を切り、急いで電車に飛び乗る。昼間あれだけいた乗客が、夜ではもうほとんどいない。

 放出駅から全速力でダッシュし、家を目指す。

 流れる外の暗い景色が、私をどこまでも追いかけた。

 静かな自分の家が見えてきた。

「ただいま」

 扉を勢いよく開ける。

 玄関には悲しそうな母がいた。

「おかえり。玲衣、私どうしたらいい? 最近ずっと仕事中、沙代から電話があって……」

 母は俯いてそう言った。顔色はなく、目の下には黒いクマができていた。心なしか少し痩せたようにも見える。

 母の手を取り、階段をのぼる。

「母さんはとりあえず寝よう。ちょっと沙代と話してくるから」

「ん、わかった、寝てる」

 寝室へ移動する母を見とどけると、私は沙代を呼んだ。

 沙代はリビングで机の上に色鉛筆を置き、塗り絵をしていた。夢中になっているようだった。

「沙代聞いて」

「今忙しい」

「聞いて」

 黙っている。塗り絵の手を止めない。目を合わせようとともしない。

 私は少し怒った。

「沙代!」

「はい」

 沙代の手が止まった。しょんぼりとした顔で、ようやくこっちを向いてくれた。

 私はあくまで優しく、沙代に語りかけた。

「あんな、お母さんしんどいねんて。なんでやと思う?」

「お母さんしんどくさせてる」

 沙代は私の言葉を反復する。

「そうやな、誰が?」

「私」

「うん。この前も言ったけどな、電話したらあかんねん」

「なんで?」

「お母さん昼、どこ行ってる?」

 もうこのやり取りを何回したのだろう。

「仕事。お母さん仕事」

「そうやな。その仕事の邪魔していい?」

「えっと」

「じゃあ、たとえば沙代ちゃんが学校で楽しく過ごしてるとしよう」

「うん」

「お姉ちゃんもずっと一緒にそこおっていい? 一緒に沙代の友達と喋ったり勉強して邪魔していい?」

「嫌だ。来ないで」

 沙代が首を横に振った。

「そうなるでしょ?」

「うん」

「それと同じ」

 何かの理由がわからない時は、沙代の経験に置き換えてあげないといけない。例えを出してあげなければならない。

 そして、話をした後は理解したかどうかの確認をしなければならない。

「じゃあ、お母さんに電話、しないであげてくれる?」

「メールは?」

「メールはいいで。でもいっぱい送ったらあかん」

「わかってるわかってる」

 沙代が塗り絵を片付け始めた。私はそれを見て、あることを思いついた。

「沙代、それ貸して」

「どうぞ」

 色鉛筆を借り、不要なチラシの裏に絵を描く。

「これが沙代な、それから、これがお母さん」

「うん」

 二人の人間と二つの携帯の絵を描く。メール、電話、母、沙代、といった言葉も並べる。

「電話したらお母さんしんどくなります。メールは少しならいいです。でもいっぱい送ったら……」

 沙代は絵に矢印をひく私の言葉を遮り、自分で答えを出した。

「お母さんしんどくなる」

「そうそう。えらいな、賢いな。お母さんと話す時は、家帰って話そうな」

「うん」

 沙代の頭を撫でてあげた。沙代は嬉しそうに小さく笑った。

 私も沙代に笑い返した。

 そして時計を見て、沙代の手をきゅっと握る。

「賢い沙代ちゃん。そろそろ寝ないけんね。お布団入っといで」

「はーい」

 沙代はそう返事をすると寝室まで走っていく。後から、お母さんごめんね、と寝室から声が聞こえた。

 私はそれを聞いて早く寝るため、そして早く卒業制作に取り掛かるために、軽い足取りでお風呂場へと向かった。

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