第二章 父

「玲衣と沙代が生まれて、嬉しかったんや。雲の上を歩くような気持ちになってな。感動したわ」

 この言葉はもう、何回聞いたかわからないぐらい聞いた。

 午後十一時。

 父は私によく、私と沙代の話をする。

「はいはい。お父さんその話もう耳たこやから。お父さんって親ばかやんな」

「ええやんけ、別に」

 私はくすくす笑いながら、カレーのルーを鍋に入れる。バイトが終わって家に帰り、父の好きなカレーを作っている最中だ。沙代と母はもうぐっすり寝ている。そんな時間に私と父はときどき二人だけで話している。

話題のだいたいは私と沙代の話だ。

 父は私と沙代が大好きらしい。

「ところで玲衣。どこ行ってたんや。帰り遅いし、電話かけてもでーへんしで、心配したわ」

「今日はバイトやってん、電話は受けれんわ」

「そうか」

 父はテレビに目線を変えつつ、ビールをごくりと飲む。

 私はその様子を見て、今度あのメーカーのビールを一ケース買ってきてあげようかな、と思った。

「お疲れ様」

「お父さんもお疲れ様」

 鍋をそのままにして冷蔵庫を開け、珈琲を飲む。無糖ではないが、苦い。

「沙代は?」

「さっき寝たで。今日は早く寝た方やと思う」

「そうか」

 カレーをぐるぐるとかき混ぜに戻る。ぐつぐつと、ただひたすらに煮る。

 本当は父に聞きたいことがあった。それは、最近の状況だ。

 父は明らかに疲れている。最近の顔のしわが休んでいないことを証明している。

「お父さん」

 私は鍋の火を止め、父のそばに寄った。

「なんや?」

 父は不思議そうにこちらを見ている。

 出かかった言葉は最後まで出なかった。だから、ごまかした。

「ごめん、忘れた」

「なんや。ぼけてきたんか」

「うるさい」

 冗談まじりに話しながら台所へ戻り、カレーをまたぐるぐるとかき混ぜた。今の自分のもどかしい思いもいっしょに。

 父は本当に働き者だな、と思う。朝早くに家を出て、夜遅くまで会社に残って、疲れた顔で家に帰ってくる。まる一日会社にいるみたいだ。

 幼い頃に質問したこんな記憶がある。

「なんでそこまでして、仕事がんばるの」

 その時、父は微笑んでこう答えた。

「娘のためやからや。そのためにお父さんは頑張って仕事して、お母さんは頑張って家事をする。な?」

「うちと沙代、そんな大事?」

「大事やで。当たり前やがな、お前らが俺を変えてくれたんやで。ありがとうな」

 私の父は私たちのために、仕事に一生懸命だった。

 しかし、いくらなんでも頑張りすぎじゃないかとたまに心配になる。たまに休日を出勤に変えたりして一週間のうちに休みがない時もある。そのぐらい父は忙しいようだ。

 しかしそんな中でも、私たち姉妹の学校行事は必ずと言っていいほど来てくれた。

「父さん、うちお風呂入る」

「はいはい」

 あ、ちょっと待ってくれ、と、父が見ていたテレビを急に消した。

「玲衣、父さん明日休みやねん。玲衣と沙代は?」

 珍しくそう言ってきた。

「うちも沙代もちょうど休みやで。明日いっしょに過ごす?」

「ええな、そうしよう。お父さんもう眠いから寝るわな」

 父は寝室で布団を敷き、寝る体勢に入った。

「うん、わかった。おやすみ」

「おやすみ」

 お風呂に入ったら、少しリラックスができた。のぼせそうなところで、湯船から出る。身体を拭いてさっき作ったカレーの鍋に目をやった。カレーが少なくなっている。

 いつの間に食べたんだろう、お風呂入ってた間にかな。

 台所の片付けをして、私は枕に顔をうずめた。父との休日。久しぶりに三人でゆっくりいられる、と思った。

 午後三時。

 大型のショッピングセンターに来た。ある程度、必要な買い物は終わった。

 食品売り場から移動する。上の階にあがると、目の前にゲームセンターがあった。

 一目散に走る沙代。全力疾走だ。

「沙代、待ってや!」

 大急ぎで追いかけると、沙代は自分の貯金で太鼓の達人というゲームをしていた。

 私と父はそれを見守っていた。疲れたので座るところを探していると、ちょうど近くにベンチがあった。父と座ることにした。

「あの子、あんな足早かったっけ」

「なあ。あんな早いと思ってなかったわ。成長したなあ」

「そもそもさ、何かに執着してそこに自分から行くっていうのも今思うとびっくりやんな」

「昔やったら、そんなことなかったやろうな」

「たしかに」

 思い出話が口からぽろぽろとこぼれていく。

「玲衣、覚えてるか」

「ん?」

 近くのベンチで座ってると父は大きく伸びをした。

「ペンギンの問題、っていう漫画があってな」

「ああ、コロコロコミックのあれね」

 一時期大流行したギャグ漫画だ。沙代はあの漫画のネタが好きで、ネタをやってはいろんな人を笑わせていたような気もする。

 父は隣にあった自動販売機でオレンジジュースを買うと、私にくれた。

「それのカードホルダーを探し回っていろんなお店二十店舗くらい行ったんやけどなくて。ないと言うか、売り切れでな。でもどうしても沙代が欲しがってたから、なんとしても探そうと決めてたんや」

「うん」

「そしたらな、よう知らん大阪の店の地下で定価で売ってた。高かったけどな、そりゃあもう喜んで持って帰ったわ。沙代も喜んでくれて嬉しかってん」

「おお、頑張ったんやな。よかったよかった」

 当の本人はまだ、のんきにゲームをしている。

「でもな」

「え」

「二週間後にはほったらかし」

 父は苦笑いしながら沙代に近付いて話をする。沙代は怒っている。

「邪魔しないで」

 目は本気だ。しばらくは邪魔をしない方がいいのかもしれない。

 私も苦笑いしながら荷物を持って、沙代のそばに行った。

 沙代は飽き性だ。熱中したと思いきや、いつの間にか冷めている。いつかこのゲームも、あのカードホルダーのように飽きてしまうのだろうか。

 いつか、家族と出かけることにも飽きてしまうのだろうか。

 そんな時が来ないことを願った。

「そろそろ帰ろうか」

「うん」

「帰ろう。お腹すいた」

「沙代、さっきたこ焼き食べたとこやろ」

「えー、知らん知らん知らん」

「何が知らんやねん」

 三人で笑いながら手をつないだ。

 夕日に向かって歩き、電車に乗る。一番後ろの車両に乗り込んだ。

 午後五時半。

「疲れたね」

「疲れたなあ」

 沙代はちょっと出かけるだけでも疲れちゃうから、もう今から寝るだろうな、と予想したその時だった。

「うう、ううううう」

 沙代が泣き出した。

「えっ!」

「どうしたんや、沙代」

 戸惑う。

 車内で人という人が振り返り、私たち家族を見る。今日一日で今までに嫌だったことや辛かったことは、何一つなかったはずだ。思い当たる節がない。いきなり泣くなんてよほど悲しいことがあったに違いない。それなのに理由が見当たらない。

 どうした、という問いに沙代は答えない。

 答えられない。

 私と父はしばらく沙代をなだめることに必死だった。

「えっえっえっ」

「よしよし、大丈夫やで。大丈夫」

 父がハンカチを沙代に渡す。沙代はハンカチを目に押し当てながら泣き続ける。

 ふと思い当たることがあり、沙代に聞いてみた。

「沙代、もしかして。車両違うのが嫌なんか」

「えっ」

 父が目を見開いた。

「沙代、そうなんか?」

 沙代は小さくこくりとうなずいた。

「移動しよう」

 父が沙代を支えながら早歩きをする。沙代は俯いたままだ。

 私は沙代がこけないよう気をつけながら静かに後ろを歩いた。

 車両連結部の扉がばたんと閉まる。沙代を椅子に座らせた。もう既に落ち着いており、小さく笑っている。父も沙代の横に座ると、目の前で立っている私に疑問を投げかけた。

「玲衣、なんでわかったんや」

 私は沙代を見た。

「この子な、いっつももっと前の車両に乗ってんねん。女性専用車両か、その近くの車両。今日沙代が泣くような酷いこととかはなかったはずやから、それかなって」

 父は私からそう聞くと悲しそうに笑った。

「そうか、それは知らんかったわ」

 家族でも一歩違う景色を見たら知らないことがあるとわかる。また、特定の人を思う気持ちはみんながみんな同じ、とは限らない。

 電車を降りるとオレンジと黒が混ざった、日が暮れかけているような薄暗い空が広がっていた。

「早く家に帰ろう」

 寒さに震えながら、早足で帰った。

 温かくて安心できる我が家の明かりが、いつものように私たちを待っていた。

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