沙代と歩む
れいちぇる
序章
※注 この小説はノンフィクションですが、登場人物の名前や地名などは実際とは異なります。
四月二日。
妹が生まれた日である。この日が私の運命を変えたきっかけなのかもしれない。
「はぁ。どうしよう、全然進まない」
リビングで卒業制作を前に苦悩し机に突っ伏していた私の隣に、いつの間にか沙代がいた。私の瞳をぼんやりと見つめてくる。一人の女の子。
「黒目が気になると思ってたから」
そう言って無垢な笑みで人と接している。そう、とても近い距離で。横に振り向いた時、私の右耳から髪が前に垂れた。彼女はすかさずそれを直そうと髪を右耳にかける。
「ありがとう、沙代」
「どういたしまして」
沙代はそう言うと台所へ向かう。最近は洗い物や洗濯物を自分からできるようになった。気が付いたら家事をやってくれている。それがお小遣い目的だとしても、こちらとしてはすごく助かっている。
「クリーニング、乾燥機行きたいな」
「なんでや」
父は椅子に座って新聞を広げながら、相変わらずのしかめっ面で聞く。
「洗濯物、乾燥させたいから」
そう答え無表情になりつつも私から離れ、洗い物を始める沙代。食べ物を食べている時と楽しいことをしている時の顔とはまるで別人みたいだな、と思う。機械のように淡々と物事をこなしている。すると彼女は洗い物をしていた手を止め、レバー式の蛇口をぼんっと下に倒して水を止めた。
「お母さんは仕事」
不安そうにあたりを見渡す沙代。
「そうやで。お母さんは仕事や」
「忙しいな、仕事で。仕事中でできない。明日からも仕事だから電話できないんだ。電話できないの」
妹は土曜日と日曜日、祝日以外は学校だ。最近では友人関係で悩むことも多いようで、私と母は沙代の話を「うんうん」と聞いている。
父は日曜日以外、朝早くから夜遅くまで仕事。毎日、口癖のように「仕事が終わらない。でも仕事があることはいいことやで」と言う。
私は週に五日間アルバイトをし、他の曜日は授業で実質休みはない。しかし午前中は特に予定がないので、寝てばかりいる。生活がすっかり昼夜逆転した私の辞書に、早寝早起きという言葉はなくなっていた。
母は水曜日以外は夕方まで仕事だ。たまに体調が優れない時はお昼に帰って来ていることもある。
午前十一時半。
父は休みだが、母は今日仕事で家にはいない。母以外はのんびりと家で過ごしている。そんな家とは逆に、外では車が忙しく走り続けている。
私たち家族は忙しい。なかなか最近は家族全員で集まって過ごす時間はない。だから昨日の夜も沙代は「お父さんお母さん仕事。寂しいね」と悲しそうに呟いていたのだった。そんな沙代の手をぺろぺろとなめるのは、アンディという小さなミニチュアダックスフンド。彼は家族の安らぎとなっており、毎日家の中を元気よく跳ねまわっている。
そんな家族の中での日常生活。一般的でいて、ごく普通の家庭のようにも見える。
深夜の十二時半。
私はアルバイトを終え眠たそうな重いまぶたを必死に開けながら、寝室となる和室で未だ真っ白である卒業制作にとりかかるために眠気と葛藤していた。
ふと隣で静かに眠っている妹のことをぼんやりと考える。ああ変わったなー、と。昔は全然笑わなかったのに、今ではちょっとしたことでもすぐ笑う。ずいぶんと明るい子になったと思いながら彼女の穏やかな寝顔を眺め、筆記用具とファイルを机の上に置く。しかし困ったことに、卒業制作のテーマが何も思いつかない。
とりあえず、候補のアイデアでも出してみるか。
私はシャーペンに手を伸ばし、カチカチと芯を出した。その時だった。
突然、がばっと妹が起きだした。ひどく驚いた私に構わず、とことこと歩いていく。
リビングへのドアが開く。
「お父さん、何食べてるの?」
台所で父がこっそりと食べていた、インスタントラーメンを嗅ぎ付けたようだ。しまったと言わんばかりの顔をしている父の姿を見つけるなり、沙代はにやにやした。
「食べるか」
父は彼女のためにもう一膳、お箸を用意しようと立ち上がった。
「ううん、欲しい! けど、痩せるために我慢する」
そう言って首を横に振りながら、沙代はまたとことこと寝室へと歩き戻ってきた。私はこの子にはかなわないと笑った。それと同時にはっとした。
そうだ、沙代を卒業制作に書こう、と。
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