第3話 羞恥と快楽


「……起きてるんでしょ? 蒼くん」


 耳元で囁かれたその言葉は、質問ではなく、逃げ道を塞ぐ宣告だった。

 心臓が破裂しそうなほど激しく打ち鳴らされる音が、鼓膜の内側で反響している。僕は答えられない。肯定も否定も、声を発した瞬間にこの「匿名性の遊戯」が崩壊してしまうことを知っているからだ。いや、それ以上に、喉が恐怖と興奮で張り付き、言葉という形を成さない嗚咽しか漏らせそうになかった。

 僕の沈黙を、彼女はどう受け取ったのだろうか。

 肯定とみなしたのか。それとも、怯える獲物の無力な抵抗として楽しんでいるのか。

 ふっ、と短い吐息が耳朶にかかる。彼女が笑った気配がした。それは昼間の教室で見せるような快活な笑いではない。もっと湿度が高く、昏い愉悦を含んだ、支配者の笑みだった。


 彼女は返事を強要しなかった。ただ、僕の下腹部に置いていた手を、ゆっくりと動かし始めただけだ。

 爪を立てず、指の腹で円を描くような愛撫。先ほどまでの探索するような動きとは異なり、明確に「そこ」にある熱を煽るようなリズムへと変わっていた。

 Tシャツの下、直接肌に触れる掌は、最初は冷たかったはずなのに、今では僕の体温を奪い、あるいは彼女自身の昂ぶりを伝播させるように熱を帯びている。

 恥骨の上を滑る指先が、時折、ハーフパンツのゴムの縁に引っかかり、そのたびにゴムが弾ける微かな音が暗闇に響く。その音さえもが、今の僕には猥褻な信号のように聞こえてならなかった。


 不意に、彼女の手が上へと移動した。

 下腹部への執拗な焦らしから解放され、安堵したのも束の間、その手は迷いなく僕の胸元へと這い上がってきた。

 捲れ上がったTシャツの中で、五本の指が肋骨の凹凸を確かめるようになぞり、そして──左の胸の突起を、人差し指と親指で摘まんだ。


「……っ、ぁ……!」


 堪えきれず、微かな声が漏れた。

 予想外の刺激だった。男の乳首なんて、何の意味も持たないただの器官だと思っていた。けれど、視界を奪われ、神経が極限まで研ぎ澄まされた状態で触れられると、そこが信じられないほどの急所であることを思い知らされる。

 彼女の指先は、硬くなった突起を転がし、爪先で軽く引っ掻き、そして掌で押し潰すように回した。

 背筋を電流のような痺れが駆け抜け、足の指先が勝手に丸まる。

 気持ちいい、のか?

 いや、これは痛みだ。屈辱だ。幼馴染の女子に、こんな場所を弄られて感じるなんて、男としてあり得ない。

 そう否定しようとする理性を嘲笑うかのように、身体は正直に反応していた。乳首への刺激が、直接下半身へと繋がり、限界まで張り詰めた男性自身をさらに硬く、熱くさせていく。


 彼女は僕の反応を楽しんでいる。

 呼吸が荒くなり、身体が微かに跳ねるたびに、愛撫のリズムが執拗さを増していく。

 もう片方の手が、僕の首筋に添えられた。汗ばんだ肌に吸い付くような感触。彼女の顔が近づいてくる。カシスとバニラの甘い香りが、酸素の代わりに肺を満たしていく。


「……可愛い」


 甘く、とろけるような声だった。

 その一言が、僕の中の何かを決定的に破壊した。

 可愛い? 僕が?

 違う。僕は男だ。受験生で、プライドが高くて、お前に劣等感を抱いている、惨めな男だ。

 だが、その言葉には抗いがたい魔力があった。

 「可愛い」と定義されることで、僕は男としての責任や主体性を剥奪され、ただ快楽を与えられるだけの「玩具」へと堕とされる。

 その堕落が、たまらなく心地よかった。

 璃音の完璧な光に焼かれるくらいなら、いっそ彼女の影の中で、無力なペットとして飼い殺されたい。そんな倒錯した願望が、胸への愛撫と共に膨れ上がっていく。


 彼女の手は、再び下へと降りていった。

 胸に残る残熱に喘いでいる僕に、追撃を加えるように。

 今度は、ハーフパンツのゴムに指をかけ、躊躇いなく下へと引き下げた。

 涼しい夜気が下半身を包み、次の瞬間、熱い塊が空気に触れる。

 下着ごと、限界まで露出させられたのだ。

 アイマスクをしていても、自分の姿がどれほど無様で、卑猥な状態にあるかは想像がついた。Tシャツは胸元まで捲れ上がり、下半身は露わになり、怒張した欲望が天井を向いて震えている。

 見られている。

 暗闇の中とはいえ、彼女の目は慣れているはずだ。僕の興奮のすべてを、彼女は見下ろしている。

 その視線の重さを感じるだけで、射精してしまいそうだった。


 彼女の指が、先端に触れた。

 鈴口から滲み出した先走りの液を、指先ですくい取るように撫でる。

 ぬちゃ、という水音が、静寂の中で爆音のように響いた。


「……すごい、なってる」


 独り言のような、感嘆の溜息。

 彼女は僕のいちばん敏感な部分を、壊れ物を扱うような手つきで、しかし容赦なく刺激した。

 裏筋をなぞり、カリの縁を爪でくすぐり、張り詰めた竿を掌で包み込んで、ゆっくりと上下に動かす。

 僕の意思など関係ない。彼女のリズムが、僕の世界のすべてになる。

 アイマスクの裏側で、僕は目を固く閉じ、歯を食いしばった。

 璃音。璃音。璃音。

 頭の中で彼女の名前を叫ぶ。

 昼間の清楚な笑顔がフラッシュバックし、今の淫らな指使いと重なる。そのギャップが、僕の脳髄を焼き切ろうとしていた。

 行きたい。このまま、彼女の手の中で、すべてを吐き出してしまいたい。

 腰が勝手に浮き上がる。シーツを握りしめる手に力が入り、爪が食い込む。


「……ん、くっ……!」


 限界が近づいていた。

 高まり続ける快楽の波が、頂点に達しようとした、その瞬間。


 フッ、と刺激が消えた。


 彼女の手が、離れたのだ。

 僕は梯子を外されたように、宙ぶらりんの快楽の中で硬直した。

 え? どうして?

 混乱する僕の耳元で、衣擦れの音がする。彼女がベッドから立ち上がる気配。


「……今日は、ここまで」


 悪戯っぽく、それでいて冷徹な声が降ってきた。

 置き去りにされた熱が、行き場を失って体内で暴れ回る。

 待ってくれ。行かないでくれ。

 そんな懇願が喉まで出掛かったが、声にはならなかった。

 彼女は、僕が求めていることを知っていて、あえて焦らしているのだ。この生殺しの状態こそが、彼女の与える最大の「罰」であり、同時に次の夜への「予約」であることを、僕は本能で理解していた。


 窓が閉まる音がした。

 カタリ、という無機質な音が、訪問者の退室を告げる。

 部屋には再び、エアコンの駆動音と、僕の荒い呼吸音だけが残された。


 僕はアイマスクを着けたまま、しばらく動けなかった。

 下半身はまだ痛いほどに勃ち上がり、処理されない欲望が脈打っている。

 悔しい。恥ずかしい。

 けれど、それ以上に、彼女が去ってしまった喪失感が胸を締め付けた。

 僕は震える手で、自分自身のそれに触れた。

 彼女の指の感触が残っている。その残滓を追いかけるように、僕は自分で手を動かした。

 惨めだ。幼馴染に弄ばれ、寸止めされ、最後は自分で慰めるなんて。

 だが、彼女の「可愛い」という声を思い出した瞬間、腰の奥から熱い奔流が込み上げてきた。

 数回、腰を跳ねさせただけで、僕は果てた。

 白濁した液体が、腹や太腿に飛び散る。その生暖かい感触と、部屋に充満し始めた栗の花のような独特の匂いが、僕の堕落を決定的なものにしていた。


 アイマスクを外す気力もなかった。

 僕は闇の中で、精液に塗れた自分の体を抱きしめるようにして丸まった。

 明日、どんな顔をして璃音に会えばいいのだろう。

 そんな不安とは裏腹に、僕の身体は深く満たされ、泥のような眠りへと引きずり込まれていった。

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