第2話 指先の残熱


 夢だったのだろうか。翌朝、目覚めた瞬間に最初に脳裏をよぎったのは、そんな逃避めいた疑念だった。

 カーテンの隙間から差し込む朝日は、昨夜の鋭利な人工光とは異なり、柔らかく部屋を照らしている。セミの鳴き声が遠くから聞こえ、世界はいつもの退屈で平和な夏の朝を取り戻していた。僕はベッドの上で上半身を起こし、自分の身体を見下ろした。Tシャツは皺になり、汗で少し肌に張り付いている。ハーフパンツも乱れているが、それ自体は寝相の悪い僕には珍しいことではない。部屋の中を見渡しても、参考書の山や脱ぎ捨てられた靴下があるだけで、変わった様子はない。ただ一つ、サイドテーブルの上に無造作に置かれた黒いベルベットのアイマスクを除いては。


 夢だ。そうに決まっている。受験のストレスと、璃音への屈折した劣等感が、あんな背徳的な幻覚を見せたに違いない。そうでなければ説明がつかない。あの潔癖で完璧な幼馴染が、深夜に僕の部屋に忍び込み、あんな手つきで僕の体を弄るなんてことが、現実であるはずがない。

 けれど、僕は無意識のうちに自分の右わき腹、昨夜彼女の手が這ったあたりを左手で押さえていた。残っているのだ。皮膚の奥に、氷のように冷たく、それでいて火傷しそうなほど熱かった指先の感触が。まるで、見えない焼印を押されたように、そこだけがジリジリと熱を帯びている。夢なら、これほど生々しい感覚が肉体に刻まれるものだろうか。鼻腔の奥には、まだ微かにあの甘ったるいカシスとバニラの香りがへばりついているような気がした。僕は重い頭を振り、洗面所へと向かったが、冷たい水で顔を洗ってもその「熱」だけは洗い流せなかった。鏡の中の自分は、昨日よりも一層疲弊し、そしてどこか後ろめたい目をして、僕を見つめ返していた。


     *


「蒼くん、おはよ。……うわ、顔色悪いよ?」


 通学路の交差点で待ち合わせていた璃音は、いつものように屈託のない笑顔で僕を迎えた。朝の日差しを浴びて輝く黒髪、シミ一つない白い肌。制服のブラウスは皺一つなくアイロンがかけられ、スカートのプリーツも鋭く整っている。そこには、昨夜の「闇の訪問者」の影など微塵もなかった。彼女は完璧な「昼の璃音」だった。


「……ああ、ちょっとね。暑さで寝苦しくて」


 僕は視線を泳がせながら、努めて平静を装って答えた。嘘だ。寝苦しかったのは暑さのせいじゃない。お前が……いや、お前の幻影が、僕を翻弄したからだ。


「えー、アイマスク使わなかったの? せっかくあげたのに」


 璃音は歩き出しながら、少し拗ねたように唇を尖らせる。その仕草すら、計算されたアイドルのように可愛らしい。


「いや、使ったよ。使ったけど……」

「けど?」

「……なんでもない」


 言えるわけがない。使った結果、視界を奪われた状態で、誰かに体を弄り回される悪夢を見たなんて。僕たちは並んで坂道を登っていく。いつもの通学風景、他愛のない会話。だが、僕の意識は会話の内容よりも、彼女のある一点に釘付けになっていた。手だ。璃音が通学鞄の持ち手を握る、その右手。

 白く、華奢で、指先の手入れが行き届いた美しい手。爪は短く切り揃えられ、薄桃色の健康的な色をしている。昨夜、僕の頬を撫で、唇を塞ぎ、Tシャツの中に滑り込んできた手。大きさは同じだ。形も似ている気がする。あの指先が、僕の腹筋の溝をなぞり、へその窪みを愛でるように回ったのか?


 想像した瞬間、背筋に電流が走り、下腹部がキュッと縮み上がるような感覚に襲われた。違う。信じたくない。目の前で「今日の小テスト、範囲どこだっけ?」と無邪気に笑うこの少女と、昨夜の妖艶な訪問者が同一人物だなんて。もしそうだとしたら、彼女は今、どんな気持ちで僕の隣を歩いているんだ? 僕が気づいていないと思っているのか。それとも、気づいた上で、この「ごっこ遊び」を楽しんでいるのか。


「……蒼くん? 聞いてる?」

「え、あ、ごめん。なんだっけ」

「もう。ぼーっとして。……本当に大丈夫?」


 璃音が心配そうに僕の顔を覗き込む。その距離が近い。ふわ、と風に乗ってシャンプーの香りが漂う。清潔で、爽やかなフローラルの香り。

 違う。昨夜の匂いとは違う。あの夜の匂いは、もっと重く、湿度を含んだ、むせ返るような甘さだった。

 やっぱり、夢だったのかもしれない。僕はその香りの違いに安堵し、同時に、胸の奥底で微かな失望が広がるのを感じた。自分でも信じられない感情だった。僕は、あれが現実であって欲しかったのだろうか。あの背徳的な接触を、もう一度求めているのだろうか。僕は逃げるように視線を逸らし、歩調を速めた。璃音の、すべてを見透かすような澄んだ瞳から逃れるために。


     *


 その日の授業は、ほとんど頭に入らなかった。黒板の文字をノートに写しながらも、意識はずっと昨夜の感触を反芻していた。冷たい指、熱い掌、耳元の囁き。あれが夢なら、僕の脳みそはどうかしちまっている。だが、もし現実なら、僕たちの関係は既に壊れている。

 放課後、僕は図書室で自習をして時間を潰し、璃音とは別々に帰宅した。顔を合わせれば、動揺を悟られる自信があったからだ。帰宅して夕食を摂り、風呂に入る。自分の部屋に戻ると、もう夜の十時を回っていた。机に向かうが、参考書を開いても文字が上滑りするだけだ。時間が経つのが、ひどく遅く感じられた。


 午前一時。家の中が静まり返る。両親は今日も夜勤で不在だ。

 僕は電気を消し、ベッドに潜り込んだ。心臓の鼓動が、不自然なほど速い。サイドテーブルの上には、アイマスクがある。昨夜は、光を遮るために着けた。安眠のために着けた。だが、今夜は違う。

 僕は暗闇の中で、璃音の部屋の窓を見る。カーテンの隙間から、今日も変わらず鋭い光が漏れている。彼女は起きている。窓の鍵は、開けたままだ。網戸にして、夜風を入れている。条件は昨日と同じ。僕は震える手で、アイマスクを手に取った。

 これを着ければ、僕は「無防備な被害者」になれる。何が起きても、それは僕の意志ではない。僕はただ寝ているだけだ。相手が誰かも分からない。そんな卑怯な言い訳を自分に用意して、僕はアイマスクを装着した。視界が闇に閉ざされる。昨日よりも深く、濃い闇。それは僕が自ら望んで招き入れた、欲望のための闇だった。


 待っている。僕は眠ろうとなんてしていない。全身の神経を耳と肌に集中させ、あの「訪問者」を待っているのだ。来てくれ。確かめたい。あれが夢だったのか、現実だったのか。いや、そんな高尚な理由じゃない。もう一度、触れられたい。あの冷たい指で、僕の惨めな劣等感ごと、理性をかき乱してほしい。

 時間は永遠のように感じられた。十分、二十分。それとも一時間だっただろうか。自分の呼吸音だけが響く静寂の中で、僕は焦燥と興奮に焼かれていた。来ないのか。やっぱり、昨日はただの夢だったのか。諦めて、アイマスクを外そうとした、その時だった。


 カタリ。


 昨日と同じ音がした。心臓が跳ね上がり、喉の奥で詰まる。サッシが開く音。湿った夜風の流れ込み。そして、ふわりと漂ってくる、あの甘く濃厚な香り。

 カシスとバニラ。昼間のシャンプーとは違う、夜の璃音の匂い。

 来た。現実に、来たんだ。


 気配は音もなくベッドに近づいてくる。僕は全身を硬直させ、必死に寝息を装った。バレてはいけない。起きていると知られたら、彼女は引き返してしまうかもしれない。あるいは、この奇妙な共犯関係が終わってしまうかもしれない。ベッドが沈む。昨日よりも深く、近く。彼女の体温が、すぐ傍にあるのを感じる。

 数秒の沈黙。彼女は僕の寝顔を見下ろしているのだろうか。どんな顔をしている? 優等生の仮面を被っているのか、それとも見たこともないような冷酷な目をしているのか。見たい。アイマスクを剥ぎ取って、その正体を暴きたい。だが、身体は動かない。恐怖と期待で、指一本動かせない。


 スッ、と肌に何かが触れた。Tシャツの裾だ。昨日と同じ場所から、冷たい指先が侵入してくる。ゾクリとした快感が、脊髄を駆け抜けた。夢じゃない。この冷たさ、爪の先が微かに肌を引っ掻く感触。間違いなく現実だ。

 指は躊躇いなく、僕の脇腹を這い上がってくる。昨日はここで終わった。いや、ここで僕の意識が途切れたのか、彼女が止めたのかは分からない。だが、今夜は違った。指先は脇腹を愛撫した後、ゆっくりと、円を描くように腹部の中央へと移動してくる。へその周りをくすぐるような、焦らすような動き。僕は必死に声を殺した。あえぎ声が出そうになるのを、唇を噛んで耐える。その反応を楽しんでいるかのように、指先の動きは大胆になっていく。


 冷たかった指が、僕の体温を奪って徐々に熱を帯びていくのが分かった。掌全体が、僕の下腹部にぴたりと押し当てられる。熱い。布一枚隔てた下で、僕の男性自身が怒張し、脈打っているのが伝わっているはずだ。恥ずかしい。こんな姿を、幼馴染に見られているなんて。けれど、その羞恥心こそが、最高の燃料となって快感を増幅させる。

 彼女の手は、そこからさらに下へ。ハーフパンツのゴムのあたりに指をかけ、ごく僅かに引き下げた。ゴムが肌に食い込む感触と、冷たい外気が陰毛の生え際に触れる感覚。まさか、直接……?

 期待と恐怖で脳が沸騰しそうになった瞬間、彼女の手はそこで止まった。それ以上、下へは行かない。代わりに、その位置で──恥骨のすぐ上、敏感な下腹部の皮膚を、爪を立てずに指の腹で何度も何度も、執拗に撫で回し始めた。


 じれったい。触れてほしい場所に、あと数センチ届かない。その寸止めの愛撫が、僕の理性をジリジリと削り取っていく。


「……んっ」


 わずかに漏れた僕の吐息に、手がピクリと反応した。気づかれたか? しかし、手は離れない。それどころか、耳元に顔を寄せられ、熱い吐息と共に、昨日よりもはっきりとした言葉が囁かれた。


「……起きてるんでしょ? 蒼くん」


 それは質問ではなかった。僕の共犯を確信した、甘く残酷な確認だった。

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