第4話 昼夜の隔たり


 翌朝の教室は、僕にとって針の筵(むしろ)だった。

 気怠い夏の湿気が窓から入り込み、クラスメイトたちの話し声が耳障りなノイズとなって鼓膜を叩く。僕は机に突っ伏し、泥のように重い瞼を無理やり持ち上げていた。身体の芯には、昨夜の処理しきれなかった熱の残滓が澱(おり)のように溜まり、節々が気味悪く疼いている。


 視線の先には、月原璃音がいた。

 彼女は黒板の前で、英語教師と流暢な発音で会話を交わしている。窓際から差し込む午前の陽光が、彼女の艶やかな黒髪を透かし、天使の輪のような光沢を作り出していた。清潔な白いブラウス、膝丈で整えられたスカート、そして穏やかで知的な微笑み。

 そこには、昨夜僕の部屋に侵入し、恥辱と快楽を与えた「夜の訪問者」の影など、微塵も感じられない。

 完璧だ。あまりにも完璧すぎて、吐き気がするほどだった。


 あんなにも淫らな手つきで僕を弄った指が、今はチョークを握り、美しい筆記体で英単語を綴っている。

 「可愛い」と僕を玩具扱いした唇が、今は模範的な生徒としての言葉を紡いでいる。

 僕は彼女を見ているようで、見ていなかった。脳裏に焼き付いているのは、暗闇の中で想像した、濡れた瞳と舌なめずりをする表情だけだ。

 どちらが本当の璃音なんだ。

 いや、どちらも彼女なのだろう。昼の光の中で築き上げた「優等生」という堅牢な城壁と、夜の闇の中でだけ解放される「支配者」としての本性。その二つが、高野蒼という一人の人間を媒介にして、歪な形で共存している。

 僕はその事実に戦慄し、同時に、どうしようもない背徳的な興奮を覚えていた。みんなが憧れるマドンナの、誰にも見せない裏の顔を、僕だけが知っている。その優越感と、罪悪感が入り混じり、胃の腑を熱く焼く。


 放課後、ホームルームが終わると同時に、璃音が僕の席に近づいてきた。

 周囲の男子生徒たちが、羨望と嫉妬の混じった視線を向けてくるのが分かる。幼馴染という特権階級。だが彼らは知らない。この特権が、どれほど残酷で、甘美な毒を含んでいるかを。


「蒼くん、ちょっといい?」


 鈴を転がすような、澄んだ声。

 僕はびくりと肩を震わせ、顔を上げた。至近距離にある彼女の顔は、どこまでも無垢で、心配そうに眉を下げている。


「……なに?」


「今日の小テスト、全然ダメだったでしょ。先生が心配してたよ」


 図星だった。昨夜の出来事が頭から離れず、英単語など一つも思い出せなかったのだ。


「……うるさいな。ちょっと調子が悪かっただけだよ」


「調子が悪いなら、尚更放っておけないよ。もうすぐ夏休み前の大事な時期なんだから」


 璃音は少し強引に、僕の手元にある答案用紙を覗き込んだ。赤いバツ印だらけの紙面を見て、彼女はふう、と小さく息を吐き、それから真剣な眼差しで僕を見つめた。


「できれば、同じ大学に行きたいのだけれど、蒼くんが頑張ってくれないと無理だよ」


 心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走った。

 同じ大学。

 それは、彼女が描いている未来予想図の中に、僕が当然のように組み込まれているという宣言だった。優等生としての激励のようにも聞こえるが、その奥には逃れられない鎖のような重圧が潜んでいる。

 彼女は、僕を離すつもりがない。昼の世界でも、夜の世界でも。


「……決めた。今週末、勉強会しよう」


「は? 勉強会?」


「そう。私の家だとお母さんがいて気が散るから、蒼くんの部屋で。土曜日の午後、いいよね?」


 拒否権などない口調だった。

 僕の部屋で。

 その言葉の響きに、心臓が早鐘を打つ。

 そこは、夜な夜な彼女が侵入し、僕を犯す「犯行現場」だ。昼間の光の下で、その場所で二人きりになる。それは、昼と夜の境界線を曖昧にし、日常を侵食しようとする彼女の新たな戦略なのだろうか。

 それとも、単なる幼馴染としての親切心なのか。

 彼女の瞳を探るが、そこには一点の曇りもない善意しか映っていない。その完璧な演技(あるいは天然)に、僕は眩暈を覚えた。


「……分かったよ。頼む」


 僕は降伏するように頷いた。

 璃音はパッと花が咲いたように笑い、「じゃあ、土曜日ね」と軽やかに手を振って去っていった。

 残された僕は、彼女の背中を見送ることしかできなかった。スカートが揺れるたびに、昨夜のハーフパンツを下ろされた感触が蘇る。

 土曜日まで、あと三日。

 それまでの夜を、僕はどう過ごせばいいというのか。


     *


 その夜も、僕はアイマスクを着けてベッドに横たわっていた。

 もはや、ためらいはなかった。

 昼間の約束──「勉強会」という健全な響きが、逆説的に夜の渇望を煽っていた。昼に会う約束をしたのだから、夜は来ないかもしれない。そんな理性的な予測は、アイマスクの闇の中で容易く打ち砕かれる。

 来るはずだ。

 彼女は、僕を飢えさせたままにはしておかない。昨夜のあの中途半端な終わらせ方は、今夜のための前戯だったのだから。


 午前二時過ぎ。

 期待通り、窓が開く音がした。

 カタリ。

 その音を聞いた瞬間、僕の身体はパブロフの犬のように反応し、血液が下半身へと集中し始めた。

 彼女が来る。僕を支配しにくる。


 気配は音もなく近づき、ベッドが沈んだ。

 今夜の彼女は、焦らさなかった。

 布団が剥がされ、Tシャツが乱暴に捲り上げられる。冷たい夜気が肌を刺した直後、熱い塊が僕の胸に押し当てられた。

 手ではない。

 顔だ。彼女が顔を埋めているのだ。

 濡れた感触が、左の乳首を捉えた。


「……っ!?」


 声にならない悲鳴が喉で詰まる。

 唇の柔らかさと、熱い舌の感触。

 彼女は僕の胸の突起を口に含み、赤ん坊が乳を吸うように、しかしもっと貪欲で淫らな吸引力で吸い上げた。

 チュッ、ジュルッ、という水音が、静寂な部屋に響き渡る。

 昨夜の手による愛撫とは比較にならない、ダイレクトな刺激。

 舌先が硬くなった突起を転がし、歯を立てて甘噛みし、そして強く吸い付く。そのたびに、脳天を突き抜けるような痺れが走り、背中が弓なりに反った。


 嘘だろ。口で、してるのか?

 あの綺麗な唇で。昼間、英語の発音を練習していたあの口で。

 想像しただけで、理性が消し飛ぶほどの興奮が押し寄せる。

 唾液の冷たさと、口腔内の粘膜の熱さ。相反する温度が交互に襲いかかり、僕を混乱の渦へと叩き込む。

 彼女の髪が、僕の腹や脇腹をくすぐる。そのサラサラとした感触さえもが、今は凶器のように鋭く感覚を刺激する。


「……ん、んんっ……!」


 吸われるたびに、下半身が疼く。

 乳首から神経が直結しているかのように、陰茎がビクビクと脈打ち、硬度を増していく。

 彼女は片方の胸を十分に味わうと、濡れた唇を滑らせて、もう片方の胸へと移動した。

 その途中、溝のあたりを舌先で一舐めする。

 ザリッとした舌の感触。

 彼女は僕を味わっている。まるで美味しい獲物を前にした獣のように。

 そこにあるのは、幼馴染への親愛などではない。雄としての僕を屈服させ、搾取しようとする、圧倒的な捕食者の本能だ。


 右の胸も同じように蹂躙される。

 執拗に、時間をかけて。

 僕はシーツを握りしめ、喘ぎ声を殺すのに必死だった。

 気持ちいい。悔しいけれど、頭がおかしくなるほど気持ちいい。

 アイマスクの下で、涙が滲むのが分かった。

 これは堕落だ。取り返しのつかない一線を越えてしまった。口で愛撫されるということは、手で触れられるのとは意味が違う。それは、彼女が僕の身体を受け入れ、自身の体内へと招き入れようとする行為の前段階だからだ。


 ひとしきり胸を愛撫し終えると、彼女はふっと顔を上げた。

 冷たい空気に触れた胸元が、唾液で濡れてひやりとする。

 終わったのか?

 いや、違う。彼女の気配は、まだ僕の顔のすぐ近くにある。

 吐息がかかる距離。


「……土曜日、楽しみだね」


 囁かれた言葉に、僕は凍りついた。

 勉強会。

 やはり、彼女は分かっていてやっているのだ。昼間の約束と、夜のこの行為が繋がっていることを。

 土曜日に僕の部屋に来る「昼の璃音」と、今ここで僕を貪っている「夜の璃音」は、紛れもなく同一人物であり、僕を逃がさないための蜘蛛の巣を張り巡らせているのだと。


 彼女は最後に、僕の耳元にチュッと音を立てて口づけを落とした。

 それは、所有の印のようなキスだった。

 ベッドから離れる気配。

 窓が閉まり、静寂が戻ってくる。


 僕は残された唾液の不快感と、それを上回る倒錯的な多幸感の中で、激しく息を荒らげていた。

 土曜日。

 その日が来るのが怖い。けれど、待ち遠しくてたまらない。

 昼の光の下で、僕たちは一体どんな顔をして向かい合えばいいのだろう。

 僕の身体には、彼女の唾液という消えないマーキングが刻まれてしまったのに。

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