六年前・四月――【白猫事件】の解明
あるカフェのマスター②
***
その日も、マスターの淹れるコーヒーを求めて、彼女――【探偵】の助手であるルリが店を訪れた。
店の扉が開いた瞬間、外の冷たい空気が少しだけ流れ込み、ルリの漆黒の髪をふわりと揺らした。
その動きだけでも、以前より軽やかさを取り戻しているのが分かった。
しばらくのあいだ、彼女はずいぶんと疲弊しているように見えて、マスターも気にかけていたのだが、今日は違った。むくんでいた頬もすっきりとして、どこか凛とした、いつもの美しさが戻っている。
「おはよう、ルリちゃん。何か、いいことでもあったの?」
マスターの妻・アイルが、柔らかい笑みを向ける。
その笑顔は、眩しいほど自然で、マスターが彼女に惹かれた理由でもあった。
アイルの口元がふわりと上がると、店内の柔らかな照明が、その頬に淡い影を作った。
昔と変わらない、春の日差しのような人だった。
「いえ……そんな大したことでは。少し、旅に出ようかと思いまして」
カップの縁をなぞる指が、わずかに震えていた。
けれどその震えは、迷いではなく、決意の方に近いもので。
「旅? どこまで行くの?」
「これまで【探偵】と巡った場所を、もう一度だけ」
「あら……そう」
アイルは言葉を選ぶように一瞬だけ視線を伏せた。
きっと、ルリが亡き【探偵】の影を追い、未練を振り払えずにいるのだと思ったのだろう。
だがマスターの目には、違うものが映っていた。
彼女の目に宿る光が、ほんの少しだけ――あの【探偵】が推理の核心に触れるときに浮かべた、あの微かな笑みに似ていたからだ。何かをつかんでいる者の顔だ。
「そういえばおばちゃん。【猫】と聞いて思い当たること、ありませんか?」
「猫? 猫がどうかしたの? ……ああ、猫と言えばね」
アイルは厨房の方をちらりと見やり、誰も聞いていないのを確認してから、ルリにそっと身体を寄せた。
コショコショと、耳に顔を近づけて話す。
しかしその声量は、いつもながら筒抜けだった。
「最近、ずっと猫の鳴き声がするのよ。それも、何匹も」
「鳴き声……?」
その鳴き声は、普通の猫というより……どこか訴えるような、低い声で、ミャーオと、鳴いていたらしい。
ルリの眉がわずかに寄る。その反応を、マスターは面白そうに眺めた。
彼は昔から、事件めいた空気を傍観するのが何より好きだった。
「そうなの。しかも、夜中よ? こっちは寝不足で参っちゃうわ」
アイルは苦笑しながら手をひらひらさせる。
マスターもその話は気になっていた。六年ほど前にも似たようなことが――いや、一年前の九月くらいかにも――確か、あった気がするのだが、記憶は霞んでいる。
今思えば、六年前ではなく、もっと昔のような気もする。あるいはそんなこと、無かったのかもしれない。
もう五十を超えた身だ。細かな記憶がこぼれ落ちるのは仕方ない。
「……教えてくださって、ありがとうございます」
ルリは戸惑いと考え込みが混じった顔を、静かに整えて微笑んだ。
やはり彼女は、何かを追っている。
その確信は、ルリと【探偵】を長年見守ってきたマスターの直感だった。
ルリはコーヒーのカップを手に取り、そっと口をつける。
その瞬間、表情がふっと緩み、花がほころぶように明るくなる。
その笑顔に、マスターの胸がわずかに温かく満たされた。
「ご馳走様でした。じゃあ、行ってきますね」
いつものテラス席から立ち上がり、代金を置く。
アイルが見送りに出ようとしたそのとき――
「ルリちゃん。真相がわかったら、私にも教えてくれないか。私は、君たちの隠れファンなんだよ」
マスターがそう声をかけた。
マスターは、いつも二人の後ろ姿を見送ってきた。
真実を追う影と、その隣に寄り添う細い光を。
一瞬、ルリの動きが止まり、驚いたように目を瞬かせる。
そして――
「もちろんです」
静かに振り向き、柔らかい笑みを浮かべた。
その笑みは、別れの挨拶ではなく――再会を約束する【探偵】の微笑みによく似ていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます