助手③

***


 ルリは、重たく沈んでいたまぶたをゆっくりと押し上げ、突っ伏していた机から顔を上げた。


 机に触れた頬には紙のざらつきが残り、夜の冷気が染み込んでいた。部屋の空気は長時間動かなかったせいか少し重く、薄暗い事務所の静寂が、彼女の寝起きの頭にじわりとまとわりついた。


(……いつの間に眠っていたんだろう)


 こすった目の奥にまだ睡気が残っている。ふらつく身体を起こしながら、洗面台へと向かった。


 胸の奥に、妙な懐かしさが残っている。遠い昔に見たような、けれど輪郭だけが失われた夢――そんな感覚が彼女の内側にぼんやりと漂っていた。


 思い出そうとすると、指の隙間から砂が零れるように形が崩れてしまう。それでも胸の奥には、確かに何か大切なものが触れた感覚だけが微かな熱となって残っていた。


 ルリはこの数日、膨大な記録を洗いざらい読み返し、【遺言】に関係し得る“猫”の記述、未解決事件の類を片端から拾い上げていたのだ。


 冷たい水で顔を洗い、鏡の前に立つと、映った自分を見つめながら、自然と考えが巡る。


 鏡に映る目の下には薄い隈ができ、肩の力は抜け切っている。だが、その奥底には諦めずに灯り続ける微弱な光が残っており、それが彼女をぎりぎりのところで支えていた。


 【探偵】は――王に処刑された。


 それなのに【遺言】を残せたということは、【探偵】は自分の最期を知っていた。あの数週間前には、すでに。


 では、なぜ。


 なぜあんな皮肉と暗号めいた言葉ばかりを連ねた【遺言】にしたのか。


 本気になれば、誰にも感づかれずに遺言くらい残せたはずだ。彼の手腕なら造作もない。


 問いを追うたび、思考は行き止まりの多い路地裏に迷い込んでいく。そこかしこに彼が残した影だけが落ちていて、どの道が正解なのか、いっそうわからなくなる。 


(……いや。だからこそ、なのかもしれない)


 頬を伝う水滴を手で拭うと、ルリは小さく息を吐いた。苛立ちと理解の狭間で、思考は熱を帯びていく。


 胸の奥がじんと熱くなり、呼吸がわずかに荒くなる。焦りにも似たその熱は、どこか懐かしい感覚でもあった。【探偵】との事件を追っていた頃、真相に近づくたびに覚えた、あの独特の昂ぶりだ。


 五つの事件以外も細かく目を通した。だが、引っかかる記述も、関係がありそうな事象も見当たらない。


 だからこそ――あの五つだけで解ける。

 【探偵】の【遺言】は、必ずその中に答えがある。


 ルリは、そのことを疑っていなかった。


「……【探偵】。あなた、確か言ってたわよね。情報は安心材料だ、って」


 独り言のように、誰に向けるでもなく呟く。

 だけどその声音は、どこか祈りにも似ていた。


 今は亡き【探偵】へ届くように。

 あるいは、自分自身に言い聞かせるように。


「私は――私のやり方で。あなたを、超えてみせる」


 探偵が遺した最後にして最大の謎。

 それが、今も彼女の目の前に横たわる【遺言】だ。


 ルリはノートを開き、ゆっくりとページに視線を落とす。

 思い浮かべるのは、ひょうひょうとして掴みどころのない背中。

 頼りになるようで、どこか頼りない――あの不可思議な人の姿。


 【探偵】の死の真相を。

 そして彼が遺した、全ての意思を――


 助手である彼女、ルリ・ストルムは必ず超えてみせる。

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