手にした価値
九戸政景
手にした価値
「隣、いいですか?」
帰りのバスで声をかけられた。見るとそれは、上品そうな老いた男性だった。安月給の俺と対照的に茶色を基調とした服装にも高級感がある。
「あ、どうぞ」
軽く窓側に寄ると、男性は静かに座った。バスがまた走り出す。
「おや、そちらはお子さんですか?」
男性の視線が携帯の待ち受けに注がれていた。まだ生まれて間もない息子の待ち受けにはいつも元気をもらっている。
「はい。育児は毎日大変ですけど、それすらも楽しいです」
「そうですか。私には子供がいないので羨ましいです」
それに驚く。老いていても男性は整った顔立ちだ。それならば結婚していてもおかしくはないはずだ。
「今は会長なぞしていますが、若い頃は結婚や子供など考えずにひたすらに金持ちになろうと躍起になっていました。家が貧乏だったのもありましてね」
「でも、金があるに越したことはないですよ。今は物価も色々上がって、生活費の工面ですら困る家庭も多いでしょうし」
ウチも正直例外じゃない。だからこそ、俺が頑張らないといけないのだ。
「そうですね。あの頃の私はひたすらに働いて貯蓄をし、遊びや恋愛など考えずにただただ金を求めました。そうして今のように会長の座も手に入れ、貯蓄もたんまりあります。けれど、私からすれば家庭があるあなたの方が羨ましいのです。あなたには帰りを待っている家族がいるのですから」
「あ……」
男性の目の奥にある寂しさに気づいた時、終わりを告げるようにバスが停まった。
「では、私はこれで。お金では手に入れられない幸せをどうか大切にしてくださいね、――君」
「え……」
どうして、と聞く前に男性は降りていってしまった。ふとあることを思い付いて携帯電話を取り出した。そして俺は知った。あの人の正体も、あの目の奥の寂しさの意味も。
「ありがとうございます、会長。この幸せ、ちゃんと大切にします」
バスは進み、俺も進む。大切な家族が待つ家に、そしてもっとも価値のある未来へ。
手にした価値 九戸政景 @2012712
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます