第2話 モリアーティの所業
貴婦人は、紅茶を一呑みし、後にそう言った。
「滅多刺しに……してやりたいです」
声色が変わることはなかった。淑やかな声だった。
きっとこの方は、相当の殺意を持ってして、
私情は抜きだ。期待に応えるのみ。
「いいですね、滅多刺し。私が、モリアーティ先生の作品のように、美しく殺して差し上げましょう」
「──その先生と呼ぶのをやめてもらえますでしょうか。無償に腹が立って、しようがないのです」
貴婦人は突然、口を割った。
いきなりのことで、少し驚いた。
……先生を貶すか。このロンドンにおいて、そのような不敬な人物を見かねたことは一度もないものだ。
「了解しました。恐るべきモリアーティ──は私が殺して差し上げましょう」
「先生」とつけず、呼び捨てをするのは気が引ける。
しかし、モリアーティは相当の屑と踏んだ。貴婦人の殺意を2番目に理解すべきは、私である。
既に決めたのだ。私情は抜きだ。
「貴方様はなぜ、モリアーティに殺気を持っているのでしょう?」
貴婦人の肩が動く。大きく息を吸い込んだ。
人が内に秘める感情を言語化する際、野蛮な本心を抑え込んでいた理性というものは、大概意味を成さない。経験上、そうだ。
私を辱めた者も、今までの依頼者もそうだった。
そうして、人が失った理性というものは中々に戻らないものである。
さぁ、来い。
「私の夫は、大変それそれは畜生めでして。
まず、私のことは道具のように扱き使う始末。もちろん私に怒鳴り散らかし、もちろん私に手を上げ、酷い時は20回ほど連続で殴られました。
そして、ミョルダート様。貴方様は、先程からモリアーティを『先生』と慕っておりましたね。大変、それは結構です。結構です。はい、結構なのです。なにせ、有名なのは彼自身なのですから。
私の書いた小説は、すべて彼が掌握し、奪い、それを出版社まで、“モリアーティ”名義で持っていくのです。私の作品は、モリアーティ『先生』の物として扱われ、モリアーティには、側溝に吹き溜まり、身を寄せる
……あああああ嗚呼、吐き気!彼こそ、悪に違いありません。そう、モリアーティこそがこの世で一番の屑めに違いありません。私がどれほど、自身の作品を書き綴り、どれほど考え、どれほど没頭し、どれほど愛したか!彼には知る由もありませんね!!
そうでしょうとも!彼の目には、自身の妻の書いた、紙切れに綴られた『怪文書』を出版社へ持っていくだけで、
偉大なる『先生』の感性とは、素晴らしいものです!!貴方様の尊敬する、偉大な、かの有名な、素晴らしい、歴史に名を刻むモリアーティ『先生』は!!このラニエットの作品を自身の物として出版社に送るだけでなく、
私──ラニエットを
ははは……はは……」
貴婦人は、立ち、座り、のたうち回って、叫び、血管が浮き出た手で、顔を覆い隠しては、髪を引きちぎるほどの勢いで、頭を掻きむしった。
私はその様子を眼に、しかと写していた。
ちょうど、貴婦人──ラニエットと言ったか、ソファの上でのたうち回り、叫び、立ち上がった頃だった。
机に足がぶつかり、紅茶が零れてしまったのだ。貴婦人たるもの、紅茶の1つも粗末にしてしまうようで、なれば、根から理性を失ってしまったのか。
やや、落ち着き、肩を揺らしたままのラニエットに声をかける。
「零れてしまいましたね。ラニエット様、この殺意、承りました」
貴婦人にそう、優しく微笑む。
そうすれば、彼女は、顔を覆っていた手を剥がした。こちらに涙ながらに目を向けて、ニヤリと笑った。
その表情はまるで、野蛮な本心そのものだった。
「……ありがとうございます」
震えた、そして満たされたかのような声で呟いた。
零れた紅茶を、ハンカチで拭く。
ここまで、剥き出しな者は珍しい。異様なまでに、モリアーティに殺意を抱いているのかが、伝わってくる。胸の内が裂けて、臓器を吐いてしまいそうな感覚だ。
さあ、次だ。
吐きそうな臓器を呑み込みながら、口を開く。
「では、ラニエット様。私がモリアーティと接触するために、モリアーティが、いつ、どこで、何をするのかお聞きしてもよろしいでしょうか?」
ラニエットの喉が蠢く。彼女も臓器を呑み込んだか。そうして、少々息を切らしながら、彼女は呟いた。
「
「
モリアーティがそのように会を開くなど、あまり耳にしないものだ。以下に、モリアーティが屑であろうが、尊敬する作家の、その名を刻んだ紙切れは欲しいものだ。
「モリアーティの
「……いいえ、彼がそのような会を開くなど、耳にしたことがありませんが」
「新聞を取っているのです。彼の主催する会などは、それで確認できるのですが、ミョルダート様はご存知でなくて?」
彼女はそう言って、横に置いてある鞄の中から、一枚の紙切れ──新聞紙を切り抜いたものを取り出した。
「……おお、面白いですね。新聞紙が招待券となっていますよ」
「そうなんです。ミョルダート様は、モリアーティの事を相当慕っていると見受けしましたので、てっきり知っているものかと思っておりましたが」
机に置かれた招待券を眺める。しかし、私の取っている新聞にはこのようなものは載っていなかった。
貴婦人の言葉を聞き、首を横に振ると、彼女は先程と打って変わって、優しく微笑んだ。
「今回は、私が一枚上手でしたね」
口元に手の甲を当てて、笑みを浮かべる様は、まさに高貴であった。
このような人物が、紅茶を零してしまうほど取り乱すとは。モリアーティの汚れ、濁りはどれほどのものか、容易に想像は出来ない。
ラニエットという、一人の高貴な貴婦人は、どれほどの苦労を背負っているのだろうか。
容易に、想像は出来ない。
「場所は?」
「
「時刻は?」
「夜、19時半より開始となります。私は、腐っても妻なので1時間ほど先にモリアーティと共に先に向かいます。当日は共に向かうなどは叶わないですが」
なるほど、つまりこの招待券は私が譲り受けるということか。
「……しかし、
「いいえ、執名会が終わった後、夫とともに撤収準備がありますので、それが終わり次第ですね」
なるほど、モリアーティが死ぬ前にサインは貰えるということか。
「それとも、撤収準備に参加しますか?」
「ほう……そちらの方が状況把握しやすいため、叶えばそちらの方が良いですね」
「分かりました。では、私の友人名義で撤収準備に参加していただく方針で」
先程から、頭に疑問が残っていた。
滅多刺しにしてやりたい──ラニエットはそう言った。恐らく、私が滅多刺しにするということだろう。
どこか不自然だ。紅茶を零してしまうほど、狂おしい殺意を持っているのならば、わざわざ私に殺させる必要性はあるのか?まぁ、自身の手を汚したくないというのが一番の理由であろう。
しかし、本人は「滅多刺し」を望んでいる。自身でするのではないが、本当にそれで良いのか?
「一つ、確認ですが」
「はい」
「滅多刺し、と言いましたね?」
ラニエットはゆっくり頷いた。
私は少し前のめりになる。
ラニエットの瞳を真っ直ぐに見つめる。
「今回の依頼は、私が殺害する形で想定されていますよね?」
「はい、そうです」
「できるだけ、迅速に殺害するのが私の流儀です。モリアーティが苦しむ様は見なくてもよろしいのですか?」
ラニエットは目線を逸らす。瞳が揺らいで、なぜだか煌めいているように見えた。
──まるで、何かを果たそうとしているような
「できることであれば、私が殺したいのです。
ですが、私事、手を汚す訳にはいかないのです」
「……ほう、『私事』というのは?」
「その答えは、貴方様には伝えられません。
いずれ、解ることですから」
……いずれ解る、か。ラニエットは恐らく、私の探偵としての技量を問いているのだろう。
「なんせ私は『溝鼠』ですから、私事といえば、
ラニエットは、そうやって不気味に微笑んだ。
──いや、美しい表情だ。微笑んだ顔にできた
私の目には、とても不気味に視えた。
「ミョルダート様にお伝えすべきことは、これで全てでしょうか」
「具体的に、何時に殺したい、などと要望は?」
「いいえ、なんでも良いです。モリアーティが死体に成り果てることが、私の望みですから」
モリアーティさえ死ねば良い。それは、殺意ではなく、願望であった。
先程から、鼻先を蟻が這うような感覚があった。同時に、目頭に蝶が舞っているかのような感覚もある。
違和感、そして既視感。
「では、私はこの後、別件がありますので」
震えは、とうに、収まり、ラニエットがそこで微笑んでいた。
先程までの殺意は、理性で覆われたようだ。──いや、高貴か。
「了解しました、また翌日、お互いの
鞄を手に、席を立ち、入口まで歩くラニエット。
私はそれを追いかける形で、手を組んで見送る。
「……『溝鼠は穢れ』、です」
扉に手をかけたラニエットは、囁くように呟いた。
部屋に、静寂が走る──俯瞰的に見ればだ。
……高貴だ、素晴らしい。脳を快楽が
そうして、扉は開かれた。
手を振ることなく、立ち去るその背中は、高貴であった。
「溝鼠は穢れ」、彼女が残した言葉はそれだった。
それを聞いた頃に、私は、蟻と蝶の正体に気づいた。
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