第3話 執名会にて

 時刻は午後19時半前。

 私は、西果てウエスト・エンドより、サドラーズヴァキアズ劇場の前に来ている。

 列を成しているのは、身に黒く纏った男達と、紅いドレスで羽ばたけそうな女ばかり。


 しかし、劇場で執名サイン会など、大それたものだ。


 純白に身を包み、亜銀を美しく飾った私は、ハイヒールを鳴らしながら、列の最後尾へと続いた。

 開催前というのに、随分な行列だ。オペラでも上映するのか、という程か。それほど、モリアーティは名を刻んでいるということだ。

 本人の力では無いがな。


 もし私が、自身の何かを奪われ、他人の物としてされたのならばどうなってしまうだろう?


 きっと、その時は泣き叫んでしまうかもしれないな。

 ラニエットからすると、自分の作品は恋人に近しい存在であろう。そんなものが、他の人間に取られてたまろうか。


 首にかけた懐中時計の長針が、「VI」に触れた。

 劇場入口、ベルの音が響く。

 劇場へ、曽露曽露ぞろぞろと、大勢の人間が入り込む。


 腰に下げたポーチから、ラニエットより渡された招待券を取り出す。


 そろそろ、私の番だ。


「おい、そこの君」


 入口手前、私より一歩前の男が、呼び止められた。

 少しドキリとしたが、大丈夫そうだ。


「劇場内には傘など持ち込めんぞ」


 一歩前の男は、雨でもないのに傘を携えていた。

 そう、先程から閉じた傘の先端を私の方に向けていたので、少々嫌悪感を抱いていたところだ。


「そうか、分かった」


 案外、すぐ了承したその男は、紳士帽シルクハットのつばに指を沿え、深く被った。


 横から列を抜け、すれ違いざまに横顔が──……?いや、まさかな。


「おお、ラニエット御婦人から、招待よりお聞きしております」


 私の番になると、係の男が声を上げた。

 ラニエットは、私のことを先立って紹介していたそうだな。ありがたい。招待券を手渡す。


「ぜひ、お入りください」


 そういい、優しく手を向ける係の男。

 それに微笑みながら、中へと入る。


 城の大広間のようなロビーには、大勢、人と、白いカバーの丸机が集まっていた。


 恐らく、劇場内の2階部分に繋がっているであろう、二つの巨大な階段で登れるようになっているロビー内のステージのような所がある。


──モリアーティは恐らく、あそこに出現する。


「エリザ様、こちらを」


 エリザ──その名を招待券に書いていた。

 先程の係の男は、私にワイングラスを渡してきた。丸いプレートを片手に、残り3本程残っている。


「ありがとうございます」


「後に、乾杯となりますので。モリアーティ先生がいらっしゃるまで、呑んでしまわないようにお願いします」


 係の男は、そう言って立ち去った。

 ワイングラスを回して、中に入っている葡萄ぶどう色であり、深紅のその液体を眺める。

 たちまち、鼻を侵すような芳醇な香りが際立った。


 そうして少しすれば、壁の照明が音を立てて消えた。騒声は止む。グラスの「リン」と当たる音が、どこかから響いたのが最後だった。


「お集まりの皆様!」


 上から、声が響いた。男の声だ。

 天井中心、シャンデリアだけが怪しく灯る。


「今回は、僕の執名サイン会にご参加いただき、誠にありがとうございます。ご足労をおかけしております」


 その声は、聞いた事のない声だった。

が、誰かは容易に想像がつく。今回の標的犯人──


「初の会となります、至らない所もあると思います。

 ですが!心配ございません。このモリアーティ、」


──モリアーティだ。


「大変楽しいものとさせていただきましょう!!」


 上層部、腕を大きく広げて、天井にぶら下がるシャンデリアを仰ぎ見るようにしている男──モリアーティ。

 今回の標的犯人だ。


 周りから、拍手が飛び交う。

 その音に呑まれながらも、私は考えていた。


──まだ、鼻先の蟻は歩いている。

 何か、違和感を感じる。


「ひとまず、皆様はもう、待ちきれないことでしょう。乾杯とさせていただきます」


 係が、モリアーティに近づいた。

 右手にワイングラスを持ち、左手で襟に手を沿えた。


「それでは、乾杯とさせていただきます」


 左手を襟から離さず、右手のワイングラスを高く持ち上げるモリアーティ。


──なぜ襟から手を離さない?


「……乾杯!!」


 ワイングラスをシャンデリアにかざしながら、モリアーティが声を上げると、たちまち各所でグラス同士のぶつかる音が響いた。


……私だけ乾杯の相手がいない。寂しいものだ。しかし、そうなれば調査が進むもの。



 この劇場の構造、劇場内の人数。

 それらを知るため、まずはどこから手をつけようか。辺りを見渡した。


「そこのお嬢様、少しよろしいですか」


 歩き出そうとしていると、少ししゃがれた声が背後から聞こえてきた。

 振り返ると、そこには、ある老夫婦が佇んでいた。


「良ければ、私達と乾杯等、いかがでしょう」


 グラスの中のワインが揺れる。

 乾杯か、私は酒に弱い方なのだが。


「いえいえ、お二方でお楽しみください。私などがいれば、せっかくのデートが台無しになってしまわれます」


 優しく微笑みかけると、婦人の方が前に出てきた。

 なんだ、今から調査というのに。


「そう言われずに!人数は多い方が楽しいものです!せっかく、モリアーティの会に来られたのですからね」


 婦人の額に刻まれたシワが、優しく見えた。

 それに罪悪感を覚えてしまったのが仇だ。


「……ですね、そうさせていただきましょう」


 結局、折れてしまった。調査は一度、踏みとどまるしかないようだ。


「それでは……」


「「「乾杯」」」


 老紳士の合図で、3人口を揃えた。

 グラス同士がぶつかり、「リン」と音が鳴る。


「私、モリアーティ──の根からの愛好家ファンでして」


──ほう、奇遇だな。

 老紳士が、グラスを一口。


「それはこちらも同じです」


 続けて、私もまたグラスに一口。

 ほろ苦さと、微かな甘みが口、鼻を突き抜ける。


「しっかし!随分と、まあ可愛く、華麗な程の身なりですこと!」


 婦人がグラスを片手に、手をくうで仰いだ。


「いえいえ、私など、貴方ほどの高貴な奥様には華麗さでは勝てませんよ。刻まれたシワが、ロンドンの美しいヴィンテージ調のようで、とても御美しい限りです」


 婦人は、「あらまぁ」と口元を手で抑えた。

 その様子に微笑みながら、老紳士が口を開く。


うまく言ったものですな、名は──」


「申し遅れました、名をエリザと申します」


 腰の大きな海月くらげのようなフリルに手を添えて、カーテシー。

 そうして、上品に、優雅に挨拶をする。


「こちらこそ、申し遅れですな。そこまで高貴に挨拶をされてしまえると、気が引けるものですが。

 酒と私は切っても切れない関係でしてね」


 ワインを片手に、回しながら、老紳士は笑う。


「グリンクと申します。こちらの、至らない妻は‪メイダルトです」


「そんなこと言って!私がいつも誰と一緒に寝ていると思っているの?」


「君には負けたよハニー」


 そんなやり取りをして、グリンクとメイダルト老夫婦は、愉快に笑っていた。

 幸せそうだ。歳を迎えれば、いつかこのようになれるのだろうか?ワインを一口。


「ところで、グリンク紳士様。の作品の中で、1番素晴らしいと思う物はなんですか?」


 グリンクは、顔を顰めることなく、その口髭を揺らした。


「やはり、ベストセラーの『瞳を焦がす』などは大作ですね。しかしながら、私は『1匹目の溝鼠』が大変好きなのです。

 最近拝読したばかりなのですが、大変素晴らしい限りでした」


 『1匹目の溝鼠』。モリアーティの処女作だ。彼の作品の中では極めて異質で、染苦染苦ぞくぞくとする描写や、異様なまでの展開が、素晴らしく。

 かの手紙の文体を借るなら、「それはそれは大変」処女作とも、到底思えない才能が染み渡っている。


「『1匹目の溝鼠』、私も愛読していますよ。

最後の展開には、異様に目を見張るものです」


 それは、モリアーティの作品だ。今は、まだ。

 ワイングラス片手に、メイダルトの方に目を配った。


「エリザ様、あたしはあまり、モリアーティの作品には疎くてねぇ。主人が好きというもので、仕方なく、というものですよ!」


 眉間にシワを寄せながら、メイダルトはワインを一口。


「──しかし、があたし宛にも来るとは、意外でしたね!」


「というのは?」


 鼻先の、蟻の触角が、蠢く。


「いえいえ、モリアーティの作品を、読んでいないあたしなどに、届くのは不思議でしたので!あの方は、本当に遂げるつもりなのですね」


 あの方──


 思考を、張り巡らせよう、とした時。


「お楽しみの最中、皆さん!ここで、僕の妻を紹介させて頂きたいと思います!」


 上で、モリアーティが喚く。


 ラニエット──公には、モリアーティの妻として、紹介されていない。

 私は昨日、ラニエットと会うまで、彼女の名を知らなかった。


 そう、この場が初の紹介の場となろうとしているのだ。

 大凡おおよそ、グリンクとメイダルト──増して、この場にいる者は皆、係を除いて、ラニエットの名を知る筈がない。


「僕の愛する妻、ラニエットです!!」


 知る筈は、ないのだ。


「……皆様、お楽しみ頂けていますでしょうか?」


 上の広間、奥から、ラニエットが顔を出す。

 その儚い声に呼応して、グリンクとメイダルトは、「リン」と鳴らす。


「お楽しみの中、非常に申し訳ないのですが、私は、皆様に、お伝えしなければならないことが、あるのです」


 老夫婦は、微笑みを浮かべていた。

 周囲を見渡す。全員、困惑する表情は一切浮かべず、不気味なまでに微笑んでいる。


──『己が身で、チーズを取ろうと、奮闘している鼠を見守るかのようだ。』


「モリアーティは、今ここで、」


 蟻。

 目を見開く、視界が広がる。

 私に向けられた、ラニエットの不敵な笑み。


 跳ねる心臓。逆立つ毛。

 まずい。想定外だ。彼女は何を?

 大衆の目前、仕事をしろと?


 次に、ラニエットが口を開けば──

 策はある。


 ラニエットの笑みが、深く歪んだ。


「死ぬ」

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