霧隠しの探偵局
メクスィィィー
蔓延る鼠
第1話 夫を殺してしまいたいのです
◆ 霧の一角、とある男の視点。
……あ?
なんなんだあの女……。行きつけのバーを出てからというもの、俺をつけてきやがる。
「おい、そこの男」
いきなり声をかけてくる……鬱陶しい。
「なんだ?先程から追いかけてきて……」
勢いよく振り返る。霧が張り詰めていた。ロンドンの路地で、右にあるガス灯だけが、薄気味悪く灯っていた。
一層深い霧の向こう、真正面に見える人影。
「大体お前は──」
「君は、宿で気に入った女を殺したそうだな」
その言葉に、背筋が凍った。
……おかしい、比喩のつもりだ。感情表現のつもりなのだ。この……この背を伝う狂気の感覚を伝えたいだけだ……。
──本当に、背筋が凍っていた。
冷たい。寒い。指1本、動けずにいた。
「……なんだよこれ、なんだよ……」
動けない……。やめろ!来るな!!!
「俺はやってない!!あの女が悪いんだ!あの貧相な体つきをした女が全て悪い!!
あの阿呆な豚──」
──唇を、氷の針が貫いた。
贅沢に、上と下。どちらも串刺していた。
◆ 女。
「くだらん、喚くな」
美しい。
こいつの、見開き、血走った目は未だ、私のことを睨みつけている。不愉快だ。
「お前が言っていることは、すべて聞き飽きているのだ。阿呆な豚などと、二度と聞きたくもない言葉を。……くだらんな、芯が腐る。お前の口を縫い付けてやった針が可哀想だ」
この男は、娼婦を殺した。生きるのに必死であったろう、か弱い少女を、押さえつけ、縛り、ナイフで一突き、また一突きと。無惨に刺し殺した。
その刺傷は、13箇所に渡る。娼婦の母親から、復讐の依頼を受けてからというもの。この時を待ち侘びていた。
右手を霧に
高貴なるロンドンに、愚かな民は不必要だ。
愚民を刈り取る
開かぬ口の分際で、まだ喉から絞りあげようとしているのか。
そうだな、喉だ。
「殺す前に、ここは一つ、探偵らしく名乗りをあげておこうか。
氷塊のミョルダート。異能者だ」
喉元、血が走る。
傷口から、ゆっくりと。開花するように男の体は凍りついた。
──────────────────────
19世紀末、ロンドン。産業革命と霧の時代。
“異能者”の存在は、ロンドンに、静かに知れ渡りつつあった。
「霧隠しの探偵局」は、主に、復讐を“代行”する探偵──異能者こと、私の経営する探偵局だ。
街が蒸気を噴き出せば、私は血飛沫を上げよう。
時計じかけの高貴なる街にて。
今日も、復讐を始めようか。
すべては──
私を辱めた
──────────────────────
探偵局を創設して、早1ヶ月。三件目ほどか。
手紙より、依頼が舞い込んできた。
「──拝啓、氷塊のミョルダート様。
私には、どうしても殺意を持って殺してしまいたいお相手がいるのです。しかし、その方は殺意を持つべき人物ではなく、日々腹の綿が煮えたぎって、それはそれは大変厄介でして。
後日、詳しく話させていただきたく、そちらに参ります。
どうにか、殺して頂けないでしょうか。」
やや、乱暴な筆跡で書かれた手紙を天井にかざしていた。
椅子の背にもたれながら、手を真っ直ぐ伸ばして
全く、こんな悠長に体たらくをしている者が、殺し屋であるとは誰も思うまい。
──ああ、失敬。名乗っているのは探偵であったか。
差出人も不明のその手紙を、机に置いた。
机には、ある本が置かれていた。
この本に、私の価値観は大きく変えられた。
本を手に取り、表紙を眺める。
──紅茶でも淹れようか。
そう頭によぎり、席を立った。
ミルクとのブレンドが、やはり王たる道か。
アッサムのミルクティーを。
相談室──探偵局に入ったとき、1番に目にする部屋を出て、調理場へと向かう。
扉を開けた。相変わらず狭いな。
言うなれば、狭いからこそ、後に紅茶を優雅に楽しめるものだ。
戸棚から、茶葉の詰まった瓶を手にして、ティーポットに散らす。
蓋がカチャリと音を立てて、香りを閉じ込めた。
その時だった
「……すみません」
相談室の、入口あたりからか。微か、震えた声がした。
後方の扉を開く。
「ようこそ、いらっしゃいました」
相手が遠方ながら、深々と礼をする。
その
「あ、ありがとうございます。お手紙、読んでいただいたみたいで。御返事まで丁寧に……」
彼女は、そこまで言った時、目を見開いた。
──気づいたか。
深々と下げていた頭を勢いよく上げて、口を開く。
「な、なぜ貴方様──ミョルダート様は、私が名乗りを上げていない粗末な手紙に、御返事を書けたのでしょうか?」
それまでに、貴婦人の元に歩み寄っていた私は、先程の机に置かれた手紙に目を向ける。
「よくお気づきになりましたね」
机まで移動した私は、貴婦人からの手紙を手に取り、口を開いた。
「
「はい……?」
目を丸くする貴婦人。
切手の制度を知らなかったのか。さすが、身なりからしての富裕層だ。彼女の驚愕を眼に、続けざまに口を開いた。
「
逆説的に、利用しなかった場合は高額料金を支払っているということ」
やはり、私の推察した通り。彼女は見るからに貴婦人で、富裕層であった。
「つまり、
紐解いた謎を、愉悦に浸りながら語るこの感覚は、いつになっても気持ちが良い。
「もうひとつ。この文体、どこか見覚えがあるのです。
文章からして、貴方様が女性であるとは推測していましたが、まさかお目にかかれるとは思いませんでしたね
──私の尊敬する作家、モリアーティ先生の奥様だとは」
笑みを浮かべる私とは対照的に、貴婦人はただただ口元を覆って目を丸くしていた。
「……さすが、腕利きの探偵様。と言ったところですね」
「いえいえ、このような推理、序の口です」
そうしていると、甲高い鳴き声のようなものが聞こえてきた──やかんに火をかけていたか。
「紅茶を淹れますので、そちらのソファにお掛けください」
少し投げやりになってしまったか。話途中で振り向いて、駆けるように調理場へ入った。
◆
ティーポットと紅茶を二杯、相対するソファの間に位置する机に置いた。
「ありがとうございます」
ソファに腰をかける貴婦人は、そう言って軽く礼をした。貴婦人は、不安な目でこちらを見つめていた。
「今日は、どういったご要件で?」
貴婦人から目線を外さず、ソファにゆっくり腰掛けた。
貴婦人は、膝の上で手を組んで、指先を絡めては、解いている。
「……」
「
ここはひとつ、冗談でも言って、空気を和ませようとした。
貴婦人は黙ったままだった。先程から見受けられた暗い顔が、一層極まっていた。
私の冗談が、どうやら逆効果であったそうだ。
「……あまり話しづらい内容であるのでしたら、こちらを」
私はそう言って、ソファの後ろにある机──先程、手紙を置いていた所から砂時計を取った。
「砂時計……?」
貴婦人が、絞り出すように呟いた。暗い顔が、少しだけ明るくなったように見えた。
「はい、砂時計は良いものですよ。じっと、砂の流れに目を向けると、心が安らぐのです」
私は貴婦人を
はらはらと、縫い針の隙間ほどの穴を落ちる砂は、見蕩れるほどに綺麗だ。
「……」
貴婦人は、涙ながらに砂時計を暫く見つめた後、口をゆっくりと開いた。
「夫を殺してしまいたいのです」
夫……?モリアーティ先生を殺したいと?
そのように、恨まれる人物であったとは。
少し、複雑な心境だ。尊敬している人物を、私の手に、かけることになるとは。
そうして私は、たしかに彼女の震える指を見た。
そこまで、彼女が
「どのように殺して差し上げましょうか?」
──砂時計が静止した。
張り詰めた空気が、
今、砂時計を氷の針が貫いている。
少なくとも、私の眼にはそう写っている。
わかるだろう、比喩ではない。
「氷の針」を砂時計に刺したことにより、時は止まる。
私は、静止した時の中、貴婦人に告げられた殺意と、ゆっくり向き合っていた。
『1匹目の溝鼠』──私は、モリアーティ先生のこの作品に、復讐の美を学んだ。
依頼主の瞳は、揺らがず、ただ光を吸い込んでいた。紅茶の表面は、波を立てて静止していた。
時が凍りついている。美しい。高貴だ。
静かに腕を組み、彼女の結ばれた口が開くのを待つ。
……そろそろ溶ける頃合か。
砂時計を貫く氷の針が、ゆっくりと溶けだす。淡い、透明な雫が一滴、また一滴と。机の上を濡らした。
──やがて、砂時計は動き出した。
そうした頃には、依頼主の指の震えは治まっていた。
「滅多刺しに……してやりたいです」
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