第2節 教室という小さな国家
翌朝、慧は早く学校へ向かった。
前世では、夜明け前から執務を始めていた。習慣とは恐ろしいもので、転生してもその体内時計だけは抜けない。
まだ校門が開いたばかりの時間、誰もいない廊下を歩く。蛍光灯の明滅、掲示板に並ぶ「進学実績」、制服の匂い。
すべてが、息苦しいほどに整然としていた。
――見事だな。
この国の支配構造は、教育という名で完成されている。
彼は立ち止まり、壁に貼られた「クラス別成績表」を眺めた。
AクラスからEクラスまで。自分の所属する3年E組は、最下位。
平均点は他より二〇点低い。名前の隣には赤い印。まるで罪人の烙印だ。
「優秀な者は上に、劣る者は下に。……なるほど、分かりやすい。」
前世の帝国と何も変わらなかった。
上級階層は成果を独占し、下級は搾取され、嘲笑される。
それを“正義”と呼ぶ者たちの顔を、彼は知っている。
――まさか、この世界でも再び同じものを見るとは。
そのとき、後ろから足音。
「おはよー、鷹栖くん。」
明るい声とともに、女子生徒が笑顔で立っていた。南雲結衣。
茶色の髪をポニーテールにまとめ、目元に小さなほくろがある。どこか見覚えのある表情だった。
「朝から勉強? 珍しいね。」
「習慣だ。」
慧はノートを開いたふりをして、彼女の仕草を観察する。
――手の位置、目線の動き。隙がない。
この女、表面の明るさの裏で常に他人を測っている。
笑顔を装いながら、周囲の力関係を計算しているタイプだ。
「南雲さんは、この学校が好きか?」
「え? うーん……まあ、普通かな。進学実績いいし、先生も厳しいけど、それだけ評価されるし。」
「ふむ。“評価される”ことが好きなのだな。」
「え?」
「いや、何でもない。」
慧は微笑んだ。彼女が微かに眉をひそめるのを見て、確信する。
――彼女は、前世で俺を裏切った将軍。あの目を、俺は忘れない。
再会の因果を悟っても、感情は動かなかった。
憎しみではなく、観察対象としての興味。
彼女がこの世界でどう生きるのか、それを見る価値がある。
「……君、ちょっと変わったね?」
「そうかもしれない。昨日、少し長い夢を見た。」
慧が席につくと、ぞろぞろと他の生徒が入ってくる。
教室の空気が、音を立てて層を成す。
A層:中心グループ。笑い声が大きい。
B層:取り巻き。愛想笑いを欠かさない。
C層:沈黙の観客。
D層:標的、あるいは無関心。
小さな社会。だが、その縮図こそ、国家の原型だった。
「鷹栖ー、昨日の課題やった?」
後ろの席から相川翔の声。クラスの“王”だ。
スポーツ推薦で入った人気者。教師の信頼も厚く、成績はそこそこ。
彼の笑いが、教室の秩序を支配していた。
慧は答えず、ノートを閉じる。
相川はわざとらしくため息をつき、周囲を見渡す。
「なーんか、最近冷たいんだよな、鷹栖。調子乗ってね?」
笑いが走る。教師がいない隙を見計らって、机を小突かれる。
慧は静かに立ち上がった。
「相川君。君はこのクラスの統治者だな。」
「は? 何言ってんの?」
「君の言葉ひとつで、空気が変わる。発言力のある者を、政治では“支配層”と呼ぶ。」
「……マジで何キャラ?」
「ただの観察者だ。」
慧は再び席につく。
しかし、その声には妙な重みがあった。笑っていた者たちが、一瞬だけ黙る。
相川は苦笑いを浮かべて肩をすくめた。
「ま、いいや。お前、面白れーわ。」
彼らが去ったあと、南雲が小声で言う。
「……あんた、やっぱ変わったね。」
「変わったのではない。気づいたのだ。ここが“国”だと。」
「国?」
「そう。教師が法。生徒会が官僚。成績が税収。
そして君たちのような人気者が、貴族だ。」
南雲は苦笑した。
「そんな大げさな……高校だよ?」
「君はまだ知らない。制度はどこにでもある。
自由を与えられた人間ほど、体制の中で自らを縛る。」
チャイムが鳴り、授業が始まる。
数学の教師、三田。四十代。白髪混じりの短髪で、威圧的な目つき。
「おい、E組。昨日の小テスト、平均がひどいぞ。恥を知れ。」
板書をしながら、彼は淡々と言った。
「君たちは“底辺クラス”と呼ばれている。理由がわかるか? 努力しないからだ。
私はね、バカを見ると腹が立つんだ。」
教室が凍る。
慧はその口調を聞きながら、心の中で数字を並べていた。
――教師の権威、クラスの序列、学力という指標。
この男は、成績を“秩序の道具”として使っている。
怒りの矛先を生徒に向けることで、自身の無力を覆い隠す。
「人間は、自分より弱い者を叩くことで安心する。」
小さく呟くと、隣の南雲がちらりとこちらを見る。
慧はノートに文字を走らせた。
〈観察対象:三田教諭。権威依存型。心理的支配傾向あり〉
その筆跡は冷ややかだった。
* * *
放課後。
教室には、窓から赤い夕陽が射し込んでいた。
生徒たちは帰り支度をし、廊下では笑い声が響く。
慧は一人、教卓の前に立っていた。
黒板には「努力・誠実・向上心」と大きく書かれている。
――美徳の仮面。だが、その裏にあるのは競争と恐怖。
彼はゆっくりとチョークを取り、黒板の下に一行書き加えた。
〈支配は、信仰から始まる〉
その言葉を見つめて、慧は小さく笑った。
「前世では力による支配だった。だが、この世界では“評価”が支配の道具か。」
ポケットの中のスマートフォンが震える。
画面を開くと、匿名掲示板アプリ。クラスの非公式チャット。
“E組晒しスレ”と書かれていた。
中には、いじめの対象となった生徒の名前や写真、嘲笑のスタンプが並んでいる。
そして、その中に――“鷹栖”の名もあった。
慧は、口元に指を当てる。
「……便利な道具だな。
群衆が匿名で暴力を共有する装置とは。」
彼は画面をスクロールしながら、参加者のアカウント名をメモしていった。
コメントの癖、投稿時間、句読点の使い方――。
それらを見ただけで、彼には誰が誰かがほぼ分かった。
「相川、川端、そして……南雲の書き込みもあるな。面白い。」
ペンを走らせながら、慧は静かに結論を出す。
「権力の掌握には、まず情報だ。情報を握る者が、秩序を動かす。」
窓の外で、夕焼けが赤く燃えていた。
それは、遠い昔、帝都が崩れ落ちたあの日の色に似ていた。
慧はスマートフォンを閉じ、机の上に置いた。
「さあ、始めよう。新しい政(まつりごと)を。」
机に反射する夕陽が、彼の瞳の奥で炎のように揺れていた。
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