第3節 最初の反撃 ― 噂という武器

 人の群れを動かすのに、剣も魔法もいらない。

 必要なのは、ただひとつ――噂だ。


 ヴァルネスが宰相として最初に覚えた政治の基礎は、それだった。

 事実より、印象。真実より、言葉。

 群衆は理性で動かない。空気で動く。

 そしてその空気は、匿名の囁きから生まれる。


 慧は放課後の図書室で、静かにスマートフォンをいじっていた。

 周囲には誰もいない。

 ページをめくる音と、空調の唸りだけが響く。


 彼の画面には、昨日見つけた「E組晒しスレ」。

 そこに一行、新たな投稿が追加された。


 >【速報】相川翔、他校の女子と二股らしいwww


 慧の指先が止まる。

 その投稿主は、“匿名”。

 もちろん――彼自身だった。


 「社会とは面白い。噂は証拠を必要としない。」


 彼は小さく笑い、さらに細工を施す。

 句読点、語尾、時間帯、スラング。

 それらを意図的に変え、複数人が書いているように偽装する。

 まるで何人もの生徒が同時に相川を叩いているような錯覚を生むのだ。


 投稿は、数分で拡散した。

 いいねがつき、笑いのスタンプが押される。

 「マジかよ、相川って彼女いたんじゃね?」

 「しかも他校? 草」

 「アイツ調子乗ってたし、ざまぁ」


 群衆心理の火が、音もなく広がっていく。


 慧はスマホを閉じて、窓の外を見た。

 沈みゆく夕日が、校舎の影を長く伸ばしていた。


 「真実など、誰も求めていない。

  ただ、自分より上の者が堕ちる瞬間を見たいだけだ。」


 その夜、相川翔のSNSには異変が起きた。

 フォロワー数が減り、コメント欄に冷やかしが並ぶ。

 「お前、あの子と浮気してたって本当?」

 「ひどーいw」「最低w」

 女たちのスタンプ攻撃。

 そして、いつも彼に群がっていた男子たちも、沈黙した。


 翌朝、慧が教室に入ると、相川は不機嫌そうに机に突っ伏していた。

 「おい、鷹栖。昨日、ネットで何か見たか?」

 「ネット? ああ、噂話なら少し。」

 「マジ迷惑なんだよ。誰だよ、あんなデマ流したやつ。」

 「デマとは限らんだろう。噂とは、火のないところに立つ煙だ。」


 慧の言葉に、相川は顔をしかめる。

 「は? 何だよそれ。お前、なんか知ってんのか?」

 「さあな。ただ、君が誰を敵に回したのか、考えてみることだ。」


 そのやりとりを、南雲結衣が横目で見ていた。

 放課後、彼女は慧を呼び止めた。


 「……あんた、何したの?」

 「何も。私はただ、観察しているだけだ。」

 「うそ。昨日のスレ、見たよ。相川のやつ。」

 「そうか。それで、どう思った?」

 「怖いと思った。あれ、誰でも簡単に潰せるじゃない。」

 「その通り。だからこそ、誰もが使う。

  “声”という武器を、人は正義の仮面で振るう。」


 慧は窓辺に立ち、外のグラウンドを見つめた。

 相川が友人たちと口論している。笑い声はもうない。

 孤立が始まっていた。


 「君はこの学校が好きだと言ったな、南雲。」

 「うん……まあ。」

「だが、この学校は君たちの想像よりも、ずっと残酷だ。

  成績、人気、家の格。すべてが“序列”を決める。

  その中で、弱者は笑いの供物になる。」


 南雲は言葉を失う。

 慧の声は静かだが、どこか底の見えない冷たさを帯びていた。


 「けど……それを、変えるつもりなの?」

 「変える? いや、私はただ、最適化するだけだ。

  この“国家”を、より合理的な形に整える。」


 「合理的……って、誰にとって?」

 慧は一瞬だけ彼女を見つめた。その瞳の奥に、わずかな揺らぎ。

 「少なくとも、私にとっては、な。」


 * * *


 数日後。

 E組の空気は一変していた。


 相川は沈黙し、彼の取り巻きは距離を置く。

 教師はそれに気づかないふりをし、ただ「静かになった」と喜んでいた。

 人ひとりの評判が変わるだけで、クラスという共同体の力学が変化する。

 慧はその中心で、何もしていないような顔をして座っていた。


 「……本当に、あんたなの?」

 南雲が放課後、小声で訊いた。

 慧は微笑みもせず、ペンを回した。

 「“本当”とは何だ? 南雲。」

 「事実のこと。」

 「事実ほど脆いものはない。

  噂は消えても、人の印象は残る。

  政治とは、その印象を操る技術だ。」


 「……あんた、怖いよ。」

 「安心しろ。私が狙うのは、君ではない。」


 窓の外では、夕焼けが校舎を染めていた。

 相川は誰もいないグラウンドで、一人スマホを見つめている。

 その手が震えているのを、慧は遠くから見ていた。


 彼の胸の奥に、奇妙な感情が生まれた。

 快楽でも、怒りでもない。

 ただ、“支配の感触”――。


 前世で味わった、あの感覚。

 民を導き、敵を落とし、自らの秩序を築く――その中毒性。

 血のように甘く、冷たい感触。


 「……やはり、私は救われていないのか。」


 小さく呟いた。

 神の罰は、生き延びることそのものにあったのかもしれない。

 己の本性を隠しきれないまま、人間社会に戻された。

 その“試練”を、慧はどこかで笑っていた。


 * * *


 一週間後。

 昼休みの教室に、突如として教師の怒声が響いた。


 「相川、ちょっと職員室に来い!」

 「……え、なんすか?」

 「この写真、どういうことだ!」

 教師の手には、プリントアウトされた数枚の写真。

 そこには、相川がコンビニの裏で煙草を吸っている姿が映っていた。


 どこから流出したのか、本人にもわからない。

 だが、それは確かに“事実”だった。


 生徒たちの間にざわめきが広がる。

 慧はその騒ぎの中、静かに弁当を口に運んでいた。

 南雲が顔を強張らせる。

 「……あんた、まさか……」

 慧は箸を止めずに答えた。

 「私は何もしていない。

  ただ、事実は常に、噂の後を追うだけだ。」


 「どういう意味?」

 「噂が先に人を裁き、事実がその判決を確定させる。

  これを“民意の形成”と呼ぶ。」


 南雲は息を呑んだ。

 慧は食べ終わると、ペットボトルの蓋を閉め、静かに立ち上がった。

 「……始まりにすぎない。」


 彼の視線の先では、教師に連れられて職員室に向かう相川の背中。

 かつてクラスを支配した男が、今は沈黙の中を歩いていく。

 誰も助けない。誰も声をかけない。

 群衆は、血の匂いに酔っている。


 慧は窓の外を見上げた。

 校舎の上空を、一羽のカラスが横切った。

 「そうだ。これが人間だ。

  ならば、私はこの人間たちの中で、もう一度――宰相をやろう。」


 その笑みは、誰にも見られなかった。

 ただ、夕陽が机の上で赤く滲み、

 彼の瞳に、かつて燃え落ちた帝都の炎が一瞬だけよみがえった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る