第15話 夜雨

【カイ・視点】

 窓の外では、天を切り裂くような雷鳴が轟き、雨粒が無数の小石となって防音ガラスを激しく叩きつけていた。

 普段なら、その低く響く轟音に気が滅入っていたかもしれない。

 けれど、完璧な防音設備と床暖房を備えたこのリビングは、春のように暖かい。空気には湿った土の匂いなど微塵もなく、ただ焼きたてのバタークッキーの、心を安らげる甘い香りだけが漂っている。

 ここには陰謀もなければ、奴隷商人もいない。

 あるのは俺と、目の前のふかふかなカーペットの上で、恥ずかしさのあまりクッションに顔を埋めている「天使」だけだ。

「あの……カイ、様……ま、まだですか?」

 クッション越しに聞こえるリアの声はくぐもっていて、銀色の髪の間から覗く耳は、熟れたサクランボのように真っ赤に染まっている。

 彼女はいま、少し微妙な体勢――上半身を伏せ、腰を少し高く突き出したポーズで固まっていた。

「動かないでくれ。もうすぐ終わるから。これは繊細な作業なんだ」

 俺は数本のまち針を口にくわえ、手には裁ちばさみと針糸を持ち、リアが履いているクマさん柄のコットンパジャマ……の、ちょうどお尻のあたりと対峙していた。

 昨夜の緊急処置(ハサミでジョッキリカ)はあくまで一時的なものだ。年頃の女の子が穴の空いたズボンで歩き回るわけにはいかないし、冷えてお腹を壊しても大変だ。

 あの厄介で、少し気まずい黒い翼が腰に生えてしまった以上、保護者である俺には、彼女のために「天使専用の戦闘服(バトルスーツ)」をオーダーメイドする責任がある。

「よし、縁を縫うから、もう少しだけ腰を上げて」

「うぅ……」

 リアは小動物のような悲鳴を漏らし、体をビクリと震わせたが、それでも素直に従ってくれた。

 彼女の動きに合わせて、漆黒の、まるでコウモリのような一対の皮膜がパッと広がり、俺の手の甲をペチペチと叩く。

 正直なところ、あの大量に買い込んだ神学書には載っていなかったが、この翼は実に興味深い。

 そう、この翼には「感情」があるのだ。

 リアが緊張している時は、強張って皮膚に張り付く。機嫌が良い時は、犬の尻尾のようにピコピコと揺れる。

 そして今は、持ち主の羞恥心を反映してか、落ち着きなく開いたり閉じたりを繰り返し、あろうことか俺の指に絡みつこうとしてくる。

 翼の皮膜の感触は不思議なものだった。鳥の羽毛のようにフワフワしているわけでも、昆虫のように硬質でもない。それは上質なシルクのような、人肌の温もりを持った滑らかな触り心地だった。

「本当に、敏感なんだな。ここは」

 思わずそんな感想が口をついて出た。

 切り出した当て布を縫い付けるためには、どうしても左の翼の付け根を指で押さえる必要がある。

 指先が、その柔らかな付け根の肉に触れた――瞬間だった。

「ひゃうっ!」

 まるで電流でも走ったかのように、リアがくたりとクッションに崩れ落ちた。

「……は、はうっ……カイ様、だめぇ……そこは……」

 彼女が振り返る。そのオッドアイは潤み、目尻は赤く染まり、まるで何か甘美な虐めを受けているかのような表情だ。

 俺は手を止め、呆れたように彼女を見下ろした。

「翼の付け根に触れただけだぞ? そんなにこそばゆいのか? その反応じゃ、俺が何か酷い拷問でもしてるみたいじゃないか」

「リアにとっては……拷問です……」

 彼女は再び顔を埋め、下のカーペットをギュッと握りしめながら、消え入りそうな声で呟いた。

「……頭が、おかしくなっちゃうような拷問……」

 この子は、過去の傷のせいで神経過敏になっているのだろうか。それとも、生えたばかりの部位だから刺激に弱いだけなのか。

「我慢してくれ。あと二針だ。縁を縫っておかないと、布地で翼が擦れてしまう」

 俺は手早く針を進めた。

 男の一人暮らしとはいえ、節約のために衣服を直していた経験が、こんなところで役に立つとは。

 パチン、と糸を切る音が響く。

「よし! 完成だ!」

 俺は自分の傑作を満足げに眺めた。

 ごく普通のパジャマの腰部分に、二つの楕円形の開口部が出来上がっていた。縁には柔らかいフリース素材を当ててあるので、見た目も可愛らしく、繊細な翼を傷つけることもない。

「ほら、立って歩いてみて」

 リアはのろのろと起き上がり、少しぎこちなく腰を振ってみせた。

 黒い小翼は何の障害もなく穴を通り抜け、自由気ままに伸びをし、彼女の動きに合わせて揺れている。

 ダボッとした白いシャツと、素足。

 「上半身は純潔な天使、腰には淫らな悪魔の翼」というアンバランスさが、奇妙な化学反応を起こしている。

 それは……理性的な男なら思わず視線を逸らしたくなるほど、罪深い可愛さだった。

「ど、どう……ですか?」

 リアはシャツの裾を不安げに握りしめ、上目遣いで俺を見ていた。その目は、自分が異形であることを嘲笑されるのを恐れているようだった。

「変、じゃないですか? 怪物みたい、ですか?」

「バカ言うな」

 俺は手を伸ばし、彼女を抱き寄せると、その翼の先端を指で摘んだ。

「これは世界に一つだけの、特別デザインだぞ。背中に生えるだけの退屈な翼より、ずっと個性があっていい」

 俺は窓の外、漆黒の雨夜を指差した。

「聞こえるか? 外の雷があんなにうるさいのは、俺にこんな可愛い妹がいるのを、神様が嫉妬してるからさ」

【リア・視点】

 心臓が、破裂しそう。

 窓の外の雷雨なんて、遠い世界の出来事みたい。

 今の私には、背中から伝わる感触と、頭上から降ってくる彼の声しか感じられない。

 彼が、私の翼を撫でている。

 魅魔(サキュバス)にとって最も淫らで、恥知らずな「腰羽」を。

 それは本来、交合の際、雄を包み込んで逃がさないようにするための器官。私たち一族にとって、そこに触れられるのは、胸を触られるよりも一万倍も恥ずかしいことなのに。

 でも……カイ様はそれを醜いと嫌うどころか、手ずから服を縫ってくれた。

 布を通る針の一刺し一刺しが、私の心に縫い付けられていくみたいだった。

『世界に一つだけのデザイン』

 彼は褒めてくれた。この奇形な私を、受け入れてくれた。

 (バカ……カイ様の、大バカ)

 (神様が嫉妬だなんて……あれは、悪魔を匿っているあなたへの警告に決まってるじゃない)

 でも、もうどうでもいい。

 これが堕落だと言うなら、私は地獄の底まで落ちてもいい。この腕の中にいられるなら。

 私は彼の胸に頬を押し付け、力強い鼓動を聞いた。

 背中の黒い翼は、もう私の意思なんて聞いてくれない。それは貪欲に、カイ様の手首にねっとりと絡みつき、彼を私に縛り付けようとしている。

「カイ様……」

 見上げると、体の中から溢れ出しそうな幸福感が込み上げてくる。

 それは背徳感と独占欲が混ざり合った、ドロドロと甘い、黒い蜜のような幸福。

 あなたがこの翼をそんなに気に入ってくれたのなら……もっと強く、あなたを絡め取ってあげる。

 外がどんな嵐でも、どんな怖い鬼が私を探していても関係ない。

 今この瞬間、甘いクッキーの香りが満ちたこのリビングだけが、私の唯一の、絶対に誰にも侵させない「巣(ネスト)」なのだから。

「カイ様、あの……ご褒美、ありますか?」

 私は勇気を出して、翼の先で彼の手のひらをコチョコチョとくすぐった。

「ご褒美? さっきまで痛いって泣いてたくせに」

「だってリア、いい子にしてましたもん。泣きませんでしたもん」

 私はテーブルの上の、焼きたてのクッキーを指差した。さっき雷の音が大きくて私が怖がったから、カイ様が焼いてくれたクマさんの形のクッキー。

「カイ様に……食べさせてほしいな」

「自分の手があるだろ」

 口では文句を言いながらも、カイ様は困ったように笑って、クッキーを一枚手に取ってくれた。

「まったく、甘えん坊なんだから。ほら、口を開けて」

「あーん」

 私は大きく口を開け、クッキーを――彼の指先ごと、口に含んだ。

 舌先で、彼のざらついた指の腹を優しく舐める。

 その瞬間、カイ様の体がビクリと跳ねた。

 私は目を細め、彼が少し慌てた様子で指を引っ込め、耳まで赤くしているのを見つめた。

 (美味しい)

 (クッキーも甘い……でも、カイ様の味は、もっと甘い)

 雨と風が世界を閉ざす夜。

 私は彼の天使であり、同時に、彼の理性の防壁を少しずつ食い破る悪魔なのだ。

【カイ・視点】

 指先に走った生々しい湿った感触に、俺は火傷でもしたかのように慌てて手を引っ込めた。

 無邪気に、そして満足げにクッキーを頬張るリアを見て、俺は顔が熱くなるのを止められなかった。

 この子……最近、距離感がバグっていないか?

 今の一瞬、俺を見る彼女の瞳が、何か小さな捕食者のそれに見えたのは気のせいだろうか。

「まったく、行儀が悪いぞ」

 俺は誤魔化すように紅茶を一口啜り、視線を逸らした。

 だが、その視線の先には、彼女の腰元があった。

 そこでは、自由を得たばかりの黒い小翼が、彼女が咀嚼するリズムに合わせて、ピョコピョコと楽しげに揺れていた。

 なぜだろう。その翼を見ていると、俺まで妙に愉快な気分になってくる。

 窓の外の雨はまだ止まない。雷鳴も続いている。

 これからどんな面倒が降り掛かってくるかは分からない。

 けれど、少なくとも今は――。

 俺が改造した不格好なパジャマを着て、口の周りをクッキーの粉だらけにしているこの少女を見て思う。

 この少し奇妙で、むず痒い日常を守り抜くこと。

 それが今の俺の人生における、最重要任務なのかもしれない。

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