第16話 天使の祈り
事の発端は、昨夜のコンビニのバックヤードに遡る。
「おい、カイ。なんだその死んだ魚のような目は。ホルマリン漬けにされた干物の方がまだ活きがいいぞ」
万年人手不足とケチで有名な中年店長が、レジの売上金を数えながら、珍しく眉をひそめて俺を見ていた。
俺は無意識に自分の頬を触った。
「そんなに酷いですか? まあ、ちょっと寝不足気味で……」
無理もない。ここ数日、リアに「翼が生える」という生物学的異常事態が発生し、夜な夜な彼女の服を改造したり、精神的なケアをしたりで、俺の神経は張り詰めたピアノ線のようになっていたのだから。
「フン、寝不足だけじゃあるまい」
店長は鼻を鳴らし、忌々しげに言った。
「あのお喋りな猫女……ミャのやつから聞いたぞ。お前から最近『血の臭い』と『妙に甘ったるい匂い』がするってな。それに、家にいる『親戚の子供』が奇病にかかって大変なんだろう?」
(ミャのやつ……あることないこと吹聴しやがって)
俺が言い訳を考えあぐねていると、店長は溜息をつき、シフト表に赤ペンで乱暴にバツ印を書き殴った。
「言い訳はいい。三日間、休みをやる」
「えっ? でも店長、夜勤のシフトが……」
「うるさい。店で過労死されたら、香典代の方が高くつくんだよ。それに――」
店長は声を潜め、真剣な眼差しになった。
「最近、この辺りも物騒だ。『子供連れの世帯』を狙ったタチの悪い事件も増えているらしい。病人がいるなら、とっとと帰って側についててやれ。厄介事を片付けてから出直してこい」
憎まれ口を叩きながらも、渡されたシフト表の俺の名前の横には、しっかりと『有給』の二文字が書かれていた。
普段はガミガミうるさい親父だが、こういう不器用な優しさが憎めない。
かくして俺は、平日の朝から堂々と三連休を手に入れたのだった。
【カイ・視点:朝の噛み跡】
目覚まし時計をかけずに迎える朝は、何よりも贅沢だ。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、金色の粒子となって部屋に舞っている。
俺は忍び足でリアの部屋のドアを開けた。
部屋の中は、ミルクのような甘い匂いと、朝特有のひんやりとした空気が混じり合い、不思議な安らぎに満ちていた。ベッドの上では、白い布団が発酵中のパン生地のようにモコモコと盛り上がり、規則正しい寝息を立てている。
「リア、朝だぞ。お日様が笑ってる」
俺はベッドの縁に腰掛け、その温かい塊を優しく揺すった。
布団がモゾモゾと動き、中から爆発したような銀髪の頭がひょっこりと顔を出す。普段は世界に怯えるように周囲を窺うオッドアイも、今は睡魔に勝てず、とろんと霧がかかったように焦点が合っていない。
「……んぅ……カイ……さま……?」
呂律の回らない甘えた声。頬にはシーツの跡がくっきりとついている。
視線を少しずらすと、俺は苦笑を禁じ得なかった。
彼女が抱きしめていた枕カバーの一角が、ぐっしょりと濡れているのだ。それだけではない。よだれのシミの横には、浅いけれど確かな「歯型」がついている。
それは猛獣が獲物を食い千切った跡というよりは、子犬が大事なオモチャを誰にも渡すまいと、必死に咥え込んだような跡だった。
「……へへ……逃げないで……それはリアの……あげない……」
リアがむにゃむにゃと寝言を漏らす。
食いしん坊な夢でも見ているのだろうか。彼女は目を閉じたまま、本能だけで俺の手を探り当てると、その頬を俺の手の甲に擦り寄せてきた。まるで自分の匂いをマーキングして安心するかのように。
「まったく、甘えん坊なやつだな」
無防備すぎるその寝顔に、胸の奥がキュンと音を立てる。
「ほら、起きて顔を洗ってこい。店長の慈悲で休みが貰えたんだ。今日は留守番じゃないぞ」
俺は彼女の柔らかい頬を軽くつねった。
「今日は特別な日だ。神社に行くぞ」
リアの「成長痛」も治まり、あの少し厄介な黒い腰翼も、俺が特製した服のおかげで問題なく収納できている。
だが、彼女の身に起きた異変や、これまでの不遇な境遇を考えると、一度神様に挨拶をしておくのも悪くないと思ったのだ。
目的地は、都心から少し離れた西の地区にある古びた神社。
長い石段と深い森に囲まれたそこは、都会の喧騒を遮断した静寂の地だ。人混みが苦手なリアでも、あそこの静けさなら落ち着けるだろう。
【カイ・視点】
朱色の鳥居をくぐった瞬間、空気がピリリと引き締まった気がした。
リアはさっきから、俺のシャツの裾を命綱のように握りしめている。
身元を隠すための大きなフードを目深に被り、その歩みは遅い。まるで神域という見えない結界に拒まれているかのように、一歩一歩が重そうだ。
「大丈夫か? 少し休むか?」
「だ、大丈夫……です。ただ、ちょっと……入りたくなくて……」
リアがか細い声で答えた、その時だった。
「あら? カイじゃない?」
掃き清められた参道の向こうから、凛とした、しかしどこかトゲのある声が飛んできた。
顔を上げると、竹箒を持った紅白の巫女装束の女性が立っていた。
「……佐藤か?」
俺は記憶の引き出しを開けた。彼女は高校時代の同級生、佐藤だ。卒業後は実家であるこの神社の手伝いをしていると聞いていたが、まさか遭遇するとは。
「珍しいわね。いつも眠そうなアンタが参拝なんて」
佐藤は親しげに近づいてきたが、俺の背後に隠れるように震えている小さな影に気づくと、その表情が一変した。
親愛の色が消え、露骨な嫌悪と警戒が浮かぶ。
「……何それ? アンタ、『亜人』なんて連れ込んだの?」
彼女は竹箒の先で、リアの足元の砂利をサッサッと払う仕草をした。まるで汚いものを追い払うように。
「ここが神聖な場所だって分かってるでしょ? 最近は共存だなんだって煩いけど、ケモノ臭いのは勘弁してよね。この前もウェアドッグが境内で粗相をして、お父様が激怒してたんだから」
リアの身体が、石のように硬直した。
震えすら止まり、呼吸を忘れたように固まっている。俺の服を掴む指の力が強くなり、布が悲鳴を上げそうだ。
俺は胸の奥で黒い感情が渦巻くのを感じた。無言で半歩踏み出し、リアと佐藤の間に割って入る。
「彼女は俺の妹だ、リアという」
努めて冷静に、だが拒絶の意思を込めて俺は言った。
「それに、不潔な獣なんかじゃない。この子は……『天使』の血を引いているんだ」
「はあ? 天使?」
佐藤は目を丸くし、疑わしげにリアを覗き込んだ。
やはりこの国では、「天使」という響きは特別な免罪符になるらしい。佐藤の目からゴミを見るような色は消え、代わりに少しばかりの好奇心が宿った。
「ふーん……確かに、言われてみれば雰囲気は綺麗ね。まあ、天使みたいな混血ならマシか」
彼女は興味を失ったように手を振った。
「分かったわよ。アンタの連れなら大目に見てあげる。でも、備品には触らせないでよ。穢れるから」
「……ああ、どうも」
俺はそれ以上会話を続ける気になれず、リアの冷たい手を引いて本殿へと急いだ。
俺は気づかなかった。
深いフードの奥で、リアが一瞬たりとも足元を見ず、去りゆく佐藤の背中を凝視していたことに。
その瞳には怯えなど微塵もなく、ただ、自分の巣穴を荒らそうとする外敵を排除しようとする、冷酷で静かな殺意だけが宿っていたことを。
【祈りの時間】
本殿の前で、太い注連縄(しめなわ)が風に揺れている。
俺はリアに五円玉を握らせ、賽銭箱に入れる作法を教えた。
カラン、カラン。
鈴緒を振ると、乾いた鈴の音が静寂に染み渡っていく。
「いいかリア、俺の真似をして。二回お辞儀をして、二回手を叩く。それから願い事をするんだ」
リアはコクンと頷いた。
パン、パン。
乾いた柏手(かしわで)の音が響く。
俺たちは並んで手を合わせ、目を閉じた。
【カイの内心】
(神様。どうか、リアがこれからも健康でいられますように。あの壮絶な過去を乗り越えて、普通の女の子としての幸せを掴めますように)
(それから……あの腰に生えた、ちょっとエッチで特殊な『羞恥隠しの翼』が、これ以上痛むことなく無事に育ちますように。あの子が自分の身体を嫌いにならないよう、俺が守り抜けますように)
【リアの内心】
(……うるさい。鈴の音、頭に響く。空気もチクチクして気持ち悪い)
(おい、そこの神様。初めまして)
(別にあなたを敬うつもりはないけど、一応宣言しといてあげる。隣にいるこの男――カイ様は、私のモノよ)
(あなたたちの聖なる加護なんて要らない。私が守るから。)
(さっきの失礼な巫女も、これから現れるかもしれない泥棒猫も、全部私が追い払ってあげる。カイ様の周りには、私以外の女なんて一ミリも近寄らせない)
(美味しいご飯を作って、暖かい服を着せて、毎晩抱きしめて……カイ様が私なしじゃ生きられないようにしてあげる。骨の髄まで、私の匂いで染め上げてやる)
(だから神様、余計な手出しをして彼を「天国」とかいう遠い場所に連れて行こうとしたら……許さないから。この神社ごと燃やしてあげるわ)
風が止んだ。
俺が目を開けると、隣のリアもゆっくりと瞼を持ち上げ、こちらを見上げた。
逆光の中で、彼女は花が綻ぶような、この上なく愛らしい笑顔を浮かべていた。頬を林檎のように染め、濡れた瞳で俺を見つめるその姿は、まさに地上に降りた天使そのものだった。
「カイ様、お願い事、終わりました」
「そうか、俺もだ」
俺は愛おしさに耐えきれず、彼女のフードの上から頭を撫でた。
なんて清らかな笑顔だろう。きっと、世界平和や美味しいお菓子のことでも祈ったに違いない。
まさかその笑顔の裏で、神さえも恫喝するような、重く甘い独占の誓いが立てられていようとは、俺は夢にも思わなかった。
【カイ・視点】
参拝を終え、俺は逃げるようにその場を離れようとした。
背中に突き刺さる視線が痛いからだ。
俺はフードを目深に被り直した。
「……カイ様? どうしたんですか?」
リアが不思議そうに首を傾げる。
「いや、なんでもない。急ごう」
気まずいのだ。
実は高校時代、あのご神木の下で、佐藤に告白されたことがある。
俺は断った。理由は「由緒ある神社の婿養子になって、毎日早起きして祝詞をあげるなんて、俺みたいな怠け者には無理だ」というものだった。
それは事実だ。だが、本当の理由は別にある。
当時、俺の心は既に、別の少女で埋め尽くされていたからだ。
佐藤のような「家」に縛られた良家の子女ではない。もっと自由で、嵐のように俺の人生を吹き抜けていった少女。
ただ、読み終えたページをめくるように、俺の人生という舞台から軽やかに「退場」していっただけだ。
今でもふとした瞬間に思い出す、苦くも鮮烈な青春の幻影。
「……カイ」
背後から、佐藤の低い声が聞こえた気がした。振り返る勇気はなかった。
俺はリアの手を強く握り、早足で鳥居をくぐり抜けた。
【リア・視点】
神社の外に出ても、カイ様の心臓の鼓動はまだ少し早い。
握った手から伝わる汗ばんだ温度。
魅魔(サキュバス)としての本能が、警鐘を鳴らしている。
あの巫女。ただの同級生じゃない。
あの目は、手に入らなかった玩具をいつまでも執念深く見つめる子供の目だ。
「カイ様」
私は足を止め、繋いだ手をクイクイと引っ張った。
「ん? どうした?」
カイ様が振り返る。その笑顔はいつも通り優しいけれど、瞳の奥にほんの少しだけ、センチメンタルな色が混じっている。
「さっきの巫女のお姉さん……カイ様のこと、好きだったんですか?」
私は無邪気な子供の仮面を被り、核心を突いた。
カイ様は一瞬言葉に詰まり、視線を泳がせた。
「えっ……いや、子供がマセたことを言うな。昔の……そう、ただの勘違いみたいなもんだよ」
嘘つき。
でも、分かってしまった。
カイ様が今、心を乱している原因は、あの巫女じゃない。
あの巫女を通して思い出している、「別の誰か」だ。
(……いる。)
(私の知らない過去に、カイ様が本気で好きだった女がいる。)
ズキリ、と胸の奥で嫉妬の炎が黒く燃え上がる。
でも、私はそれを笑顔の下に押し殺した。
過去は変えられない。でも、今は私のものだ。
その「誰か」が今どこにいるのか知らないけれど、二度と現れないことを祈るわ。もし現れたら……。
私は服の下で、腰の黒い翼をそっと動かした。
過去の亡霊には、退散してもらうしかない。
カイ様の手を、両手でぎゅっと包み込む。絶対に離さないという意思を込めて。
「カイ様、もう帰りましょう? あ、その前に……」
カイ様の視線が、ふと授与所(お守り売り場)の方へ向いた。
「そうだな。せっかく来たんだ。お前にお守りでも買ってやろう」
彼は私の機嫌を取るように、優しく微笑んだ。
お守り。
神様の力なんて信じていないけれど、カイ様が私にくれるものなら、それはきっと最強の「首輪」になるはずだ。
私は甘く微笑み返した。
「はい! カイ様とお揃いがいいです!」
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