幕間 雨夜の密謀
窓の外で轟く雷鳴は止む気配を見せない。それどころか、この繁栄した都市の表面にこびりついた汚れをすべて洗い流そうとするかのように、雨脚は激しさを増すばかりだった。
だが、都市の一等地に佇む、警備の厳重な豪邸――その書斎に充満する吐き気を催すような葉巻の紫煙と、肌を刺すような陰湿な低気圧だけは、どんな暴風雨でも洗い流せそうになかった。
マホガニーの重厚な執務机の向こうで、白髪交じりの髪を撫でつけた老人が、部屋に背を向けたまま窓の外の滲んだ夜景を凝視している。
彼は現内閣特権監察官・葛条(カツジョウ)。この国において、彼がひとたび足を踏み鳴らせば、政界そのものが震え上がると言われるほどの大物だ。
「それで? これが、丸一年も私を欺いていた理由か?」
「遊びは構わんと言ったはずだ。だが、あのクラスの『禁制品』を市井に流すような失態を犯せば……この手で始末するともな」
葛条の声に感情の起伏はない。だがその静けさが、部屋の中央で土下座をしている男をさらに戦慄させた。
それは、高価なシルクのシャツを着ていても隠しきれない、どこか締まりのない脂肪を蓄えた中年男だった。生理的な不快感を抱かせる脂ぎった肌。彼が愛想笑いを浮かべようと引きつった口元からは、長年の喫煙と飲酒で黄ばんだ歯が覗いている。
「ち、父さん……すぐに見つかると思ったんです……あれは、私のモノですし……」
黄ばんだ歯の男は、額から噴き出す冷や汗を拭いながら、無意識のうちに右手の親指で、左手の人差し指の付け根を死に物狂いで押さえつけていた。
そこには、醜い欠損の跡がある。
一年前、あの弱々しいチビ――商品であるはずの幼女が逃走する際、狂犬のように食らいつき、彼から肉を食いちぎった痕跡だ。こういう雨の日になると、まるで指がまだそこにあるかのような幻肢痛(げんしつう)が走り、あの夜の屈辱を鮮明に思い出させるのだ。
「すぐに、だと?」
葛条が猛然と振り返り、手にしたファイルを机に叩きつけた。バンッ、という乾いた音が室内に響く。
「私の息のかかった者が裏社会(ブラックマーケット)で噂を耳にしなかったら、貴様はいつまで『魅魔(サキュバス)の逃走』を隠し通すつもりだった? あの個体が成体になり、覚醒するまでか? それとも、政敵が送り込んだどこぞの議員のベッドであのガキが見つかり、我々が地下で何をしているか全て暴露されるまでかッ!?」
男はヒィッと喉を鳴らして首をすくめた。普段、地下室で亜人たちを虐待している時の傲慢さは見る影もない。
「で、ですが、もう一年以上も前の話で……あいつはまだ小さかったし、怪我もしていた。きっと、どこかの下水道で野垂れ死んで……」
「大馬鹿者めが! 私が金貨数枚の損害を惜しんでいるとでも思っているのか?」
葛条は、自身の汚点とでも言うべき愚鈍な息子を、憎々しげに睨みつけた。
「あれは『魅魔(サキュバス)』だ。力仕事しか能のないオークや、愛想を振りまくだけの猫人(ワーキャット)とは訳が違う。あれは悪魔の末裔だ。もし人間社会の中で成長し、完全な力を覚醒させれば……」
老人は震える手で新しい葉巻に火を点け、深く紫煙を吸い込んだ。肺を満たすニコチンで、煮えくり返る怒りを鎮めようとする。彼が危惧しているのは息子の安否などではない。一族の政治生命そのものだ。
「特に最近は、『環境統括保全部』の狂犬どもが嗅ぎ回っている」
その部署名を口にした瞬間、葛条は苦虫を噛み潰したように眉間の皺を深くし、手にした葉巻が折れんばかりに握りしめられた。
政府内部に巣食う、自らを清流と信じて疑わない連中。「社会の純潔保持」と「亜人の人権保護」という矛盾した旗印を掲げ、実態は葛条のような既得権益層を狙い撃ちにする監察機関だ。それはまるで、華やかな晩餐会のテーブルの下に仕掛けられたネズミ捕りのように、彼ら大物の首を虎視眈々と狙っている。
「ただでさえ風当たりが強い時期だ。もし奴らに、我々が未登録の『指定危険種(ハイリスク・デミ)』を私有し、あまつさえ逃がしたなどと知られれば……我々の一族は、あの狂犬どもに骨までしゃぶり尽くされるぞ」
葛条は背を向け、書棚の薄暗い一角へと歩みを進めた。
引き出しを開け、そこからラベルのない、ひどく変色した古い封筒を取り出す。
彼の指先が、封筒の擦り切れた縁を愛おしむように、そして忌々しげに撫でた。その眼には、残虐さと懐古が入り混じった光が宿っている。
「十数年前の『面倒事』は、もう御免だ」
老人は独りごちた。その声は地獄の底から吹き上げる隙間風のように低く、掠れている。
「あの時の環境省の調査員……名前はなんだったか。奴もまた、身の程知らずな『正義の味方』だったな。何度追い払っても湧いてくるハエのような男だった。鼻が利くことにかけては天才的で……こともあろうに、単身で我々の『地下狩猟場』を嗅ぎつけ、段ボール一箱分の証拠を集めていた。翌日には最高検察庁へ持ち込む手はずだったらしい」
黄ばんだ歯の男は震えを止め、呼吸すら忘れたように父親を見つめた。父の全身から放たれる殺気が、あまりに濃密だったからだ。
「奴を永遠に黙らせるために、私がどれほどの対価を払い、どれほどの裏工作を用いて、完璧な『事故』を演出したと思う?」
葛条は冷笑した。その瞳に悔恨の色は微塵もない。あるのは、厄介なゴミを処理した後の、歪んだ達成感と傲慢さだけだ。
彼はまだ火のついた吸い殻を、クリスタルの灰皿に無造作に押し付けた。ジュッ、という音が、まるで断末魔のように響く。
老人の鋭い視線が、再び絨毯の上の息子を射抜いた。
葛条は歩み寄り、葉巻を切るシガーカッターの冷たい金属面で、息子の脂ぎった頬をペチペチと叩いた。
「いいか。どんな手を使っても構わん。ブラックマーケットの底の底までひっくり返してでも、そのサキュバスを見つけ出せ。生きていれば連れ戻し、死んでいればその死体を持ち帰れ」
「もし、環境省の連中に先を越されたら……」
金属の冷たさが、首筋に押し当てられる。
「たとえ我が子であろうと、貴様のその役立たずな左手を切り落とし、奴らへの『手土産(ケジメ)』として差し出すことになる。……分かったな?」
「は、はいッ! ただちに! 必ずや、あの阿婆擦(あばず)れを捕らえてみせますッ!」
黄ばんだ歯の男は、まるで死刑台から生還したかのように安堵し、幻痛の走る指を押さえながら、転がるようにして書斎から逃げ出した。
部屋に、再び死ごとき静寂が戻る。
窓の外、一瞬の閃光が闇を引き裂き、机の上に放置された古びた写真の一角を白く照らし出した。
そこには、一人の若く精悍な男が写っている。
胸元には『環境保全局』のIDカード。
カメラに向けられたその正直で、どこまでも恐れを知らない笑顔。
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