第14話 波乱の幕開け
【カイ・視点】
嵐が過ぎ去った翌朝。
日差しは遅れてきた謝罪のように、カーテンの隙間から少し眩しく差し込んでいた。
俺は寝ぼけ眼をこすりながら、習慣的にベッドの反対側へと視線を向けた。
そこには小さな膨らみがある。だが奇妙なことに、その膨らみはいつものように丸まっておらず、まるで「大」の字のように、極めて不自然な体勢でベッドに張り付いていた。
「……うぅ……腰……いたい……」
布団の中から、くぐもった呻き声が聞こえる。
「リア? どうした? まだ痛むのか?」
俺は一瞬で眠気が飛び、慌てて布団をめくった。
目に飛び込んできた光景に、俺の呼吸は一瞬止まった。
リアはシーツの上にうつ伏せになり、銀色の長髪を滝のように散らしている。だが何より目を引いたのは、その腰に生えた、新生の漆黒の小さな翼だった。
昨日は「殻を破った」ばかりで皺くちゃだった皮膜が、一晩かけて伸び、今は完全に開いている。サイズこそ掌(てのひら)ほどだが、その黒曜石のような色艶と、蝙蝠(こうもり)に似た骨格構造は、陽光の下で妖艶な美しさを放っていた。
問題は――それらが今、リアのパジャマのズボンに無残にも食い込んでいることだ。
隠そうとしたのだろう。リアは昨夜、無理やりズボンを腰の上まで引き上げたらしい。その結果、この哀れな小さな翼はゴム紐に死に物狂いで締め上げられ、血流不全で赤くなっていた。
「馬鹿、隠すなって言っただろ!」
俺は呆れるやら可笑しいやらで、手を伸ばしてズボンを下げてやろうとした。
「痛い痛い痛い! カ、カイ様! 引っかかって……食い込んでますぅ!」
リアが枕に顔を埋めて悲鳴を上げる。どうやら翼の先端が布地の繊維に絡まり、進退窮まっているらしい。
「動くな。……緊急措置をとるしかないな」
俺はため息をつき、引き出しから裁縫用のハサミを取り出した。
「我慢しろよ、暴れるな。せっかく生えたこの『天使の翼』を傷つけたら大変だ」
【リア・視点】
冷たい金属の感触が、背中の下の方にピタリと当たった。
私は思わず身を震わせ、足の指でシーツをギュッと掴んだ。
ハサミだ。
背中を見ることはできないけれど、その鋭利な刃先が、私の最も敏感で、最も醜い新生部位に沿って滑っているのが分かる。
『暴れるな』
カイ様の声は低く、磁力を帯びている。それはまるで、手入れが必要な所有物を扱う主人の声のように響いた。
(ああ……処理、されてる……)
電流のような羞恥が背骨を駆け抜ける。
男性の前で、お尻を突き出して這いつくばり、ハサミで下着ごと服を切られるなんて。以前なら、それは最底辺の調教室でしかあり得ない屈辱的な光景だったはずだ。
けれど今の感覚は、それとは全く違っていた。
恥ずかしさと同時に、胸の奥底から込み上げてくるのは、言葉にできないほどの……安心感。
それは「受け入れられている」という強烈な実感だった。
彼はこの悪魔のような翼を嫌悪しなかった。それどころか、翼が窮屈だろうと気遣って、自らの手で服を壊してくれている。
「よし、切れたぞ」
ジョキリ、という布が裂ける軽い音と共に、腰の圧迫感が不意に消えた。
ずっと抑えつけられていた一対の翼が、ようやく自由を得る。翼は本能的にパタパタと羽ばたいた。それは魅魔(サキュバス)としての肉体が感じる歓喜の反応だったけれど、カイ様の目には単なる生理反射にしか映っていないだろう。
「これでだいぶ楽になっただろ?」
カイ様の大きな掌が覆いかぶさり、薄い皮膜を優しく撫でた。指の腹のザラリとした感触に腰が砕けそうになり、喉から変な声が漏れそうになるのを必死に堪える。
「これからの服は全部改造が必要だな。翼のために、特別に穴を開けてやらないと」
彼は耳元で楽しそうに笑った。
私は顔だけ振り返り、真っ赤になって彼を見つめた。
「カイ様……私、変じゃないですか?」
「変だよ」彼は容赦なく頷き、私が泣きそうになる直前にこう続けた。「変で、死ぬほど可愛い。まるで背中に小さな黒猫を二匹飼ってるみたいだ」
……黒猫?
堕落と淫乱の象徴である魅魔の翼が、この人の目には、愛玩動物のように映っているなんて。
これが……愛されるということ?
私は再び枕に顔を埋め、誰にも見えないように、幸福に浸って笑った。
この人のためなら、一生こうしてうつ伏せで寝ることになっても構わない。
【カイ・視点】
リアの衣服問題を解決するため、俺たちはコンビニのバイトに休みをもらい、買い物に出かけることにした。
本来なら俺一人で行くつもりだったのだが、リアが俺のシャツの裾を死守し、そのオッドアイに「捨てないで」という懇願を浮かべるものだから、折れざるを得なかった。
トラブルの元になりそうな翼を隠すため、大きめのフード付きマントを彼女に着せ、俺たちは街へと繰り出した。
「どうした? そんなにくっつかなくても、誰も取って食いやしないぞ」
リアは俺の左腕に全体重をかけるようにしてぶら下がっている。まるで、目を離した隙に俺が煙のように消えてしまうとでも思っているかのようだ。
「……人、多いです」
彼女はフードの陰に顔を隠し、蚊の鳴くような声で言った。
確かに、今日の商店街は妙に活気づいている。だが俺が気になったのは人の多さではなく、ある微妙な変化だった。
空気が、“綺麗”になっているのだ。
以前なら駅前をたむろしていた目つきの悪いチンピラや、路地裏で違法薬物を売りさばいていた売人たちが、今日は示し合わせたかのように姿を消している。
その代わりに目につくのは、紺色の制服に身を包んだ治安官たちだ。彼らは三人一組で巡回し、警棒を腰に下げ、鋭い視線で行き交う人々をスキャンしている。
かつて悪名高かった闇市の入り口――つまり俺がリアを拾ったあの路地さえも、黄色い規制線が張られ、完全武装した警備兵が門番のように立っていた。
「へぇ、こいつは珍しい」
俺は思わず口笛を吹いた。
「市長もようやく、来年の選挙に向けて点数稼ぎをする気になったのかな。これほどの規模の『浄化作戦』なんて、ここ数年見たことがない」
市民にとっては良いことだ。治安が良くなれば、リアを連れて歩く不安も減る。
「ほら見ろリア。悪い奴らはみんな追い払われたみたいだぞ。今日の街は安全だ」
俺はリアの手の甲をポンポンと叩き、安心させようとした。
だが、彼女の反応は真逆だった。
あの二人の警備兵が視界に入った瞬間、リアの体が石のように硬直した。まるで天敵に出くわした小動物のように顔面蒼白になり、指先が俺の肉に食い込むほど強く握りしめられる。
「いや……だめ……」
彼女は必死に俺の背後に隠れようとし、俺の体を盾にして治安官の視線を遮ろうとした。
「リア?」
「行って……カイ様、早く行って……見ないで……」
その声には、隠しきれない恐怖が滲んでいた。
俺は溜息をつき、かつて彼女を傷つけた奴隷商人たちへの怒りを覚えた。この子は怯えているのだ。制服を着た人間を見るだけで、過去のトラウマが蘇り、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を起こしているに違いない。
「分かった、分かったよ。あっちの通りに行こう。見なくていいからな」
俺は優しく彼女の肩を抱き寄せ、服屋が並ぶ別の通りへと誘導した。
【リア・視点】
映画館の中は薄暗く、ひんやりとしていた。
スクリーンでは、勇者が悪竜を倒し、囚われの姫を救い出すというありふれた物語が流れている。激しい音楽と、派手な魔法のエフェクトが闇の中で明滅する。
けれど私は、一度もスクリーンを見なかった。
私は首を横に向け、暗闇に紛れて、隣に座る男の人の横顔を貪るように見つめていた。
スクリーンの微光が、カイ様の高い鼻梁と、映画に集中している真剣な瞳を照らし出している。彼は無造作にポップコーンを口に放り込み、時折、コミカルなシーンで小さく笑い声を漏らす。
綺麗。
なんて温かくて、綺麗な人なんだろう。
さっき街で感じた、「狩られる」という恐怖。あの制服を着た猟犬たちの視線も、この空間にいれば遠い世界の出来事のように思える。
私の手は闇の中を密かに泳ぎ、肘掛けに置かれた彼の左手に触れた。
カイ様は拒まなかった。それどころか、私の手を掌で優しく包み込んでくれた。
その瞬間、心臓が蜂蜜で満たされたように甘く痺れた。
マントの下、腰の後ろにある翼が小さく震える。敏感な翼の先端が、布越しに、こっそりと彼に擦り寄る。
これは二人だけの秘密の接触。魅魔(サキュバス)である私が、誰にも気づかれないように行う、密やかな求愛。
(隠し通せば……)
スクリーンの中で、勇者の聖剣に心臓を貫かれる悪竜を見ながら、私は暗い誓いを立てる。
(牙を剥かなければ、カイ様の可愛い妹を演じ続ければ、私が人を喰らう怪物だなんて気づかれなければ……)
(勇者の剣が、私に向けられることはない)
私は全ての黒い泥を飲み込んでやる。
いつまでも、こうして彼の手を握っていられるなら、どんな嘘だってつき通してみせる。
【カイ・視点】
映画館を出る頃には、空は鮮やかな茜色に染まっていた。
リアは機嫌が直ったようで、食べきれなかったポップコーンのバケツを大事そうに抱え、足取りも軽い。ようやく年相応の少女らしい姿を見られて、午後の時間を潰した甲斐があったというものだ。
その時、ポケットの振動が穏やかな時間を遮った。
スマホを取り出し、画面に表示された名前を見て、俺は片眉を上げた。
『暴力パンダ』。
……リンリンだ。
いつも台風のように騒がしい幼馴染。実家の道場を継ぐとかでお見合いをしに帰省したはずだが、なぜ今頃?
「リア、ちょっと待っててくれ。電話に出るから」
リアは少し不満げに俺を見上げたが、それでも大人しく頷き、街灯の陰に立った。
俺は少し離れた静かな場所へ移動し、通話ボタンを押した。
「よう、リンリン。珍しいな、お前からかけてくるなん……」
「無駄話はいい」
スピーカーから聞こえてきたのは、軽口ではなく、空港のアナウンスが混じった、異常なほど真剣で大人びた声だった。
「カイ、一つだけ聞くぞ」
その声の圧に、俺は無意識に背筋を伸ばした。
「あんたが言ってた、私と同じくらいの速度で成長する天使の子……リア、だったか。彼女、ここ数日で体に異常が出たんじゃないか?」
「……なんで分かった? お前、千里眼でも使えるのか?」
「茶化すな。答えろ。私の警告通り、絶対に病院には連れて行ってないだろうな?」
彼女の声は、尋問のように切迫していた。
俺は苦笑し、遠くで大人しく待っているリアにチラリと目をやった。
「ああ、安心してくれ。正直、かなりの出血量で俺も肝が冷えたし、救急車を呼ぼうかと迷ったけど……お前が発つ前に、あんなに怖い顔で『何があっても絶対に公立病院には行くな』って念押しするもんだから、踏みとどまったよ」
「俺も、亜人の登録手続きとかで彼女に面倒がかかるのは嫌だったしな。家の救急箱でなんとか凌いだ」
俺の答えを聞いた瞬間、電話の向こうから、長く、深い安堵の吐息が聞こえた。
「……ふぅ。よかった。本当によかった。あんたにしては賢明な判断だ、カイ。もし公立病院に連れて行っていたら、今頃どうなっていたか……」
「おいおい、言い過ぎだろ。亜人の診察が面倒なのは知ってるが、そこまで言うことか?」
俺が首をかしげると、リンリンは数秒沈黙した。
次に聞こえてきた声は、これまで聞いたことがないほど冷たく、低いものだった。
「カイ、よく聞け。あんたのその平和ボケした脳みそを今すぐ叩き直せ」
「しばらくの間、絶対に彼女を外に出すな。特に、制服を着た連中には近づけるな。」
「はぁ? なんでだよ。最近は街中に警官が増えて、治安は良くなってるのに……」
「それがネズミ捕りなんだよ、この大馬鹿者! ……チッ、あんたに言っても無駄か」
リンリンは低く怒鳴り、俺の鈍感さに絶望したように舌打ちした。
「とにかく、私は今日本に向かう飛行機に乗るところだ。そっちも暇すぎて死にそうだしな、ついでに小(チビ)カイがまたどれくらい『背が縮んだ』か、確認しに行ってやる」
リンリンの声色が、不意にいつもの悪戯っぽい姉御口調に戻った。
プツッ、ツーツー。
電話は一方的に切られた。
「……なんだってんだ、全く」
俺は暗くなった画面を見つめ、困り果てて頭を掻いた。
相変わらず強引で、我儘だ。
まあでも、あの「亜人マニア」のリンリンがそこまで真剣に警告するんだ。最近流行りの亜人特有のインフルエンザか、あるいは過激派の活動でもあるのかもしれない。
リアの安全のためだ、彼女の言う通りにしておくか。
【リア・視点】
夕日がカイ様の影を長く伸ばし、私の足元まで届いている。
私は数メートル離れた場所で、ポップコーンのバケツを抱きしめたまま、電話をしている彼の背中をじっと見つめていた。
会話の内容は聞こえない。
けれど、私はカイ様の今の表情が好きではなかった。
困惑の中に混じる、諦めにも似た「服従」の色。
それは電話の相手――あの女に対する、無防備な信頼と甘えだ。
(誰?)
(誰が私のカイ様に命令しているの?)
(カイ様に「私を病院に連れて行くな」と指示したのも、彼女なの?)
結果的にその助言が私を救い、正体がバレるのを防いでくれたことは認める。
でも……私の飼い主様が、どこかの知らない女に遠隔操作されているという事実は、腸が煮えくり返るほど不愉快だ。
「リア、帰ろうか」
カイ様がスマホをしまい、こちらへ振り返って手招きした。顔にかかっていた陰りは一瞬で消え、いつもの温かい笑顔に戻っている。
「……はい、カイ様!」
私は即座に天真爛漫な笑顔を貼り付け、軽い足取りで彼のもとへ駆け寄った。
差し出された大きな手を、両手でぎゅっと握りしめる。
(どこの誰だか知らないけれど……)
(もし、私の居場所を脅かすつもりなら、カイ様を私から奪うつもりなら……)
私は逆光の中で目を細め、誰にも見えない角度で、唇を愉悦に歪ませた。
(あなたも一緒に、食べてあげる)
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