第02話 その温もりは、劇薬でした
【カイ・視点】
重厚な防音ドアが背後で「カチャリ」と硬質な音を立てて閉ざされた瞬間、外界を支配していた冷たい雨音が完全に遮断された。
後に残ったのは、耳鳴りがするほどの静寂と、自分の浅はかさに対する胃の痛みだけだった。
玄関のセンサーライトがパッと灯り、俺一人には広すぎる無機質なホールを暖色系の光で満たす。
俺は、足元に落ちる小さな影を見下ろした。
彼女は、玄関マットのさらに端、タイルの冷たさが直接伝わる場所に、爪先立ちで立っていた。濡れそぼった髪からは黒く濁った雫がポタポタと垂れ落ち、高価な大理石の床に小さな水溜まりを作っている。
まるで、自分がここに存在すること自体が罪であるとでも言うように、彼女は全身を強張らせていた。
「……とりあえず、入れよ」
俺は努めて何でもないことのように声をかけた。だが、湿った手汗をズボンで拭いながら紡いだその声は、情けないほど上擦っていた。
彼女は動かない。
いや、動けないのだ。
よく見れば、彼女の両腕は太腿の横にピタリと張り付いている。その先端にある小さな手は、血の気が失せるほど強く握りしめられていた。
白く浮き出た指の関節。爪が掌に食い込むほどの力。
それは、彼女なりの精一杯の防御姿勢だった。
逃げる場所などない。勝てるはずもない。それでも、これから降りかかるであろう暴力に対し、このか弱き生物は、なけなしの生存本能だけで身構えているのだ。
追い詰められた野良猫が、恐怖で震えながらも「シャーッ」と威嚇する姿に似ている。もっとも、彼女の場合は威嚇する声さえ出せず、ただ震えることしか許されていないのだが。
俺は頭を抱えたくなった。
これは、「妹」なんて生易しいものじゃない。俺はとんでもない「爆弾」を拾ってしまったのかもしれない。
「あー……」
俺が髪を掻きむしりながら一歩近づくと、彼女の喉の奥から、錆びついた鉄屑が擦れるような音が漏れた。
「ご……しゅ、じん……」
「ストップ。それ禁止」
俺は条件反射で掌を突き出した。「その呼び方はやめろ。俺の名はカイだ。兄貴でもいいし、呼び捨てでもいい。とにかく『ご主人様』って柄じゃない」
彼女は理解が追いついていないようだった。いや、理解することを拒んでいるのかもしれない。俺が声を大きくした瞬間、彼女はビクリと肩を跳ねさせ、握りしめた拳をさらに強く震わせながら、玄関のフレームの隙間に体を押し込むように縮こまった。
これ以上刺激するのは逆効果か。
それに、この異臭をどうにかするのが先決だ。下水と、腐った野菜と、そして微かな鉄錆のような血の匂い。それが温かい室内の空気と混ざり合い、鼻腔を刺激する。
「風呂だ。まずは洗うぞ」
俺は諦めの溜息をつくと、不器用な手つきで彼女に触れようとした。
その瞬間。
バッ、と彼女が弾かれたように仰け反った。背中が壁にドンとぶつかる。
悲鳴はない。ただ、死人のように固く閉ざされた瞼と、白く噛み締められた唇があった。
(煮るなり焼くなり好きにしろ……ってか?)
その絶望的な諦観に、俺の心臓は嫌な音を立てた。
「……失礼するぞ」
俺はもう、彼女の意思を確認することを放棄した。
米袋でも運ぶような雑な手つきで、彼女の体を抱き上げる。
軽い。
あまりにも軽すぎる。
腕の中に収まったその体は、まるで中身のない張り子のようだった。筋肉の重みも、脂肪の柔らかさも感じられない。ただ、骨の硬さと、微かに伝わる体温だけが、彼女が生物であることを証明していた。
俺の胸板に押し付けられた彼女の小さな拳は、今もまだ固く握りしめられたままだ。時折、俺を押し返そうと微かな力が込められるが、それは衣服のシワを伸ばす程度の抵抗にしかなっていなかった。
浴室のタイルは冷たく、換気扇の音が虚しく響いていた。
俺は人生で初めて向き合う「他人の入浴」という難題に、冷や汗をかいていた。
「クソッ、なんで今の給湯器はこんなに操作が複雑なんだ……」
シャワーのハンドルをひねる。熱湯が出たり、冷水が出たり。
「あちっ!」
手の甲にかかった熱湯に、俺は情けなく声を上げて手を振った。
振り返ると、洗面台の端にちょこんと座らされた彼女が、極限まで見開かれた瞳で俺を凝視していた。その瞳には、「あのお湯で皮膚を焼かれるんだ」という確信めいた恐怖が張り付いている。
「違う、温度調節だ。拷問の準備じゃない」
誰に対する言い訳かわからない独り言を呟きながら、俺はようやく38度の適温を見つけ出した。
さて、次が最難関だ。
彼女が身に纏っている、ボロ雑巾のような布切れ。
「その服……もう捨てよう。脱げるか?」
俺がハサミを探そうと背を向けた、その時だった。
ビリッ、という布の裂ける乾いた音が響いた。
驚いて振り返ると、彼女は既にその身を晒していた。
乱暴に、まるで自らの皮を剥ぐように衣服を引き裂いたのだろう。彼女は両腕で胸を抱きかかえ、膝を抱えるようにして小さく丸まっていた。
恥じらい?
いや、そんな人間らしい感情ではない。それは、商品としての検品を待つ「物品」の姿であり、同時に、これ以上の暴力を避けるための処世術だった。
だが。
俺の思考は、そこで完全に停止した。
気まずさも、異性に対する意識も、すべてが消し飛んだ。
脳裏を白く塗りつぶしたのは、煮えたぎるような怒りと、吐き気を催すほどの憐憫だった。
酷すぎる。
肋骨が浮き出た胸郭。栄養失調で逆に膨らんだ腹部。棒のように細い手足。
そして、その薄い皮膚というキャンバスを埋め尽くす、無数の暴力の痕跡。
蚯蚓腫れになった鞭の跡、赤黒く変色した火傷、足首に刻まれた鎖の擦過傷。新旧入り混じったそれらは、彼女が生きてきた地獄の年表そのものだった。
「……誰が、こんなことを」
絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、震えていた。
彼女は俺の怒気を敏感に察知したのか、さらに体を小さくし、膝に顔を埋めた。頭蓋骨の横で、あの小さな拳がガチガチと震えながら握りしめられている。
俺は深呼吸をし、肺の奥の怒りを無理やり押し込めた。
今は、違う。
俺は無言で彼女を抱き上げ、浴槽へと運んだ。
【リア・視点】
くる。
ついに、罰がくる。
ご主人様が怒っている。低い声で唸っている。
リアの体が汚いから? 傷だらけで気持ち悪いから?
『不良品』
昔の主人の言葉が蘇る。リアは生きているだけで不快なゴミなのだ。
体が宙に浮いた。
次の瞬間には、熱湯の中に叩き込まれるか、氷水に沈められて息ができなくなるか。
リアは呼吸を止めた。痛みから逃げるように、魂を体の奥底に引っ込める。
チャプン。
音がして、肌に液体が触れた。
「……?」
熱く、ない?
冷たくも、ない。
それは、不思議な感覚だった。
温かい膜のようなものが、全身を優しく包み込んでいく。傷口に少し染みるけれど、それは嫌な痛みではなく、凍りついた血管を溶かしていくような、むず痒い刺激だった。
リアはおそるおそる目を開けた。
ゆらゆらと揺れる透明なお湯。湯気がふわりと頬を撫でる。
まるで、遠い昔に見た夢の続きみたい。
「……あ、あ……」
口から泡のような吐息が漏れた。
目の前には、あの男の人――カイ――がいる。
彼は恐ろしい顔をしているのに、その手つきは驚くほど慎重だった。
スポンジにたくさんの白い泡を含ませて、リアの肩を撫でる。
ゴシゴシと擦られることも、乱暴に掴まれることもない。
泡が、泥を吸い取っていく。
彼は時々、眉間に深い皺を寄せながら、リアの体にある大きな傷跡を避けるように指を動かした。
「……痛むか?」
不器用で、ぶっきらぼうな声。
でも、そこには刃物のような鋭さはなかった。
リアは答えることができなかった。ただ、お湯の中で膝を抱え、じっと彼の手元を見つめることしかできない。
水の中にあるリアの手は、まだ拳を握ったままだ。
いつ殴られてもいいように。いつ裏切られてもいいように。
けれど、握りしめた指の力は、この温かいお湯の中で、少しずつ、本当に少しずつだけれど、ほどけそうになっていた。
この温度は、あぶない。
心まで溶かされてしまいそうで、怖い。
【カイ・視点】
たかが風呂に入れるだけで、フルマラソンを走ったかのような疲労感だった。
骨と皮だけの体を洗うのは、恐怖との戦いだった。少し力を入れただけで壊れてしまいそうな硝子細工を扱っている気分だった。
バスタオルにくるんでソファーに座らせると、彼女は白い「てるてる坊主」のようになって、ちょこんと座った。
さあ、次は治療だ。
救急箱をひっくり返し、軟膏のチューブを手に取る。
「手を出して」
俺が言うと、彼女は数秒の躊躇の後、爆弾処理班のような慎重さで左手を差し出してきた。
無数に切り傷が走るその腕に、消毒液を含ませた綿棒を当てる。
「っ!」
彼女の体がビクリと跳ねた。喉の奥で空気を飲む音がして、反射的に手を引っ込めようとする。
「動くな。すぐ終わる」
俺は慌てて彼女の手首を掴んだ。細い。枯れ枝のようだ。
痛みに涙目で俺を睨む彼女を見て、俺は無意識のうちに、幼い頃に母にされたことを思い出していた。
「……ふー、ふー」
彼女の傷口に向かって、息を吹きかける。
「痛いの痛いの、飛んでけー……」
言った直後、俺の顔から火が出そうになった。
二十歳の男がやる行動じゃない。完全にテンパっている。
だが、効果はてきめんだったらしい。
彼女はポカンと口を開け、信じられないものを見る目で俺の唇と自分の手を見比べている。
その隙に、俺は手早く処置を終えた。
最後は、食事だ。
胃に負担をかけないよう、温めた牛乳に食パンをちぎって浸し、蜂蜜を垂らした特製「パン粥」。
見た目は悪いが、栄養はあるはずだ。
マグカップを差し出すと、彼女の様子が一変した。
鼻をひくつかせ、甘い香りを嗅ぎ取った瞬間、その瞳から理性が消えた。
「……っ!」
彼女は俺の手からカップをひったくるように奪い取った。
そして、そのままソファーの隅へズリズリと後退し、背中を丸めてカップを抱え込んだ。
周囲をギョロギョロと警戒しながら、カップに口をつける。
ガツガツ、という音が聞こえてきそうな勢いだった。
熱いだろうに、彼女は構わずに喉に流し込む。口の周りを白いドロドロで汚しながら、一心不乱に貪るその姿は、人間というよりは飢えた野生動物だ。
「誰も取らないから、ゆっくり食え」
俺は苦笑しながら、手を伸ばした。口元を拭いてやろうと思っただけだった。
だが、俺の影が落ちた瞬間、彼女はピタリと動きを止めた。
体中の筋肉が強張り、カップを持つ手が白くなるほど強く握りしめられる。
『取られる』
そう思っているのだ。
俺は胸の奥がチクリと痛んだ。伸ばしかけた手の軌道を変え、彼女のまだ湿り気のある銀髪の上に、そっと掌を置いた。
髪の手触りはゴワゴワとしていて、栄養状態の悪さを物語っている。
それでも、俺はできるだけ優しく、その頭を撫でた。
「……大丈夫だ。これは全部お前のものだ。明日も、明後日も、食わせてやる」
掌の下で、彼女の小さな頭が震えた。
【リア・視点】
あまい。
とろとろに溶けたパンと、温かいミルク。そして蜂蜜の香り。
舌が痺れるほどの甘さが、空っぽの胃袋に染み渡っていく。
リアは夢中で飲み込んだ。これが幻覚で、目が覚めたら消えてしまう前に、全部お腹の中に隠してしまいたかった。
その時、頭の上に重みを感じた。
ビクリと心臓が跳ねる。殴られる? 取り上げられる?
身構えて、奥歯を噛み締めた。
けれど。
降ってきたのは、痛みではなかった。
大きく、温かく、少し汗ばんだ掌。
それが、不器用に、でも壊れ物を扱うように、リアの頭を撫でていた。
ごつごつとした指の感触が、頭皮を通して直接脳髄に響いてくる。
『明日も、明後日も』
その言葉が、頭の中で反響する。
毎日、この甘いものを食べられる?
毎日、このお湯に入れる?
毎日、この手が……リアを撫でてくれる?
ドクリ、と。
身体の奥底、へその下のあたりで、何かが脈打った。
それは、さっきまでの「恐怖」とは違う熱だった。
もっと粘着質で、もっと暗くて、もっと貪欲な……『飢え』。
お腹はいっぱいになったはずなのに、別のところがどうしようもなく空腹だと訴えている。
この「熱」が欲しい。
この「手」が欲しい。
この「カイ」という人間が持っている、安心と温もりのすべてを、一滴残らず飲み干したい。
それは、サキュバスという種族の血に刻まれた本能の目覚めだったのかもしれない。
愛を知らない怪物が、初めて「餌」の味を覚えてしまった瞬間だった。
リアは、まだ微かに震える身体で、カップの縁を強く握りしめた。
怯えた子猫のような瞳の奥で、紫色の光が妖しく、昏く揺らめく。
逃がさない。
絶対に、逃がさない。
リアは無意識のうちに、頭上の大きな掌に、自分の頬をすり寄せた。
ザラザラとした男の人の手のひらの感触を、頬の皮膚で貪るように確認する。
(……ごしゅじんさま)
声には出さなかった。
けれど、心の中で彼女は、呪詛のように、あるいは祈りのように呟いていた。
(拾ったんだから……責任、とってね。もう、離してあげないんだから)
マグカップに残ったミルクの最後の一滴まで飲み干すように、彼女の『執着』が、静かに産声を上げていた。
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