第03話 天使の添い寝

【カイ・視点】

 あの雨の夜、残飯のようにうずくまっていた少女――リアを拾ってから、三日が過ぎた。

 家の中に他人がいるという違和感はまだ消えないが、その「異物感」は、少しずつ「生活感」へと形を変え始めていた。

 俺は今日、朝から一階の廊下の突き当たりにある納戸の整理に取り掛かっていた。

 広さは四畳半ほど。以前は父が買い集めた使わないゴルフバッグや、埃を被った掛け軸なんかが無造作に放り込まれていた場所だ。

 窓を開け放ち、掃除機をかけ、重曹で床を磨き上げる。

 仕上げに、厚手のベージュのカーペットを敷き詰め、天井の照明を冷たい蛍光灯から暖色系のLED電球に取り替えた。

 最後に、俺が昼寝用に使っていた折りたたみベッドを搬入する。

 殺風景ではあるが、雨風を凌ぐには十分すぎるし、体格の小さな彼女にとっては、むしろこれくらいの閉塞感がある方が落ち着くかもしれない。

 額の汗を拭いながら、俺は改めて今後の方針を脳内で反芻する。

 目標は三段階。

 治療、教育、そして放免だ。

 これは俺の中では決定事項であり、人として当然の筋道だった。

 一生、誰かの奴隷として生きることを望む人間などいない。

 彼女の体から傷が消え、肉がつき、文字の読み書きや計算ができるようになり、社会の仕組みを理解したその時――俺は彼女の鎖を解くつもりだ。

 あの忌まわしい隷属の紋章を解除し、当面の生活費を持たせて、広い世界へと送り出す。

 それが、拾った者の責任というやつだろう。

 もっとも、この計画を今すぐ彼女に伝える必要はない。

 今の彼女は、捨てられた子犬が震えているような精神状態だ。ここで下手に「いずれ出て行ってもらう」なんて口にすれば、「邪魔だから捨てられる」とネガティブに変換されかねない。

 だから、サプライズは最後にとっておくことにした。

 彼女が立派に自立したその日に、「おめでとう、今日から自由だ」と背中を押してやる。それが一番スマートな別れ方だ。

 「リア、ちょっと来い」

 リビングに向かって声をかけると、ソファの陰からおずおずと小さな顔が覗いた。

 彼女はまだ、俺が与えた古着のシャツを着ている。

 身長差がありすぎて、袖は三回まくってもまだ余り、裾は太腿の半分まで隠している。まるで彼氏のシャツを借りた彼女のような愛らしい見た目だが、その実態はもっと切実で痛々しい。

 彼女は家の中だというのに、常に爪先立ちで歩いていた。足音を立てることで、俺の機嫌を損ねるのを極端に恐れているのだ。

 「……はい」

 消え入りそうな声と共に、彼女が俺の前に立つ。

 「これ、やるよ」

 俺は背中に隠していた大きな紙袋を、彼女の細い腕に押し付けた。

 リアは突然のことに目を白黒させ、抱え込んだ紙袋と俺の顔を交互に見ている。

 異色の瞳が、不安げに揺れていた。

 「中、見てみろ」

 促されて、彼女は恐る恐る袋の中を覗き込む。

 最初に取り出したのは、純白のざっくりとしたニットのセーターだ。肌触りの良い、少し高価なものを選んだ。

 次に出てきたのは、苺のワンポイントが入ったふかふかのバスタオル、新品の歯ブラシ、そして数着の可愛らしい下着。

 そして袋の底には、鮮やかな赤色のランドセルと、数冊のひらがなドリルが入っている。

 「え……あ……」

 彼女の唇がわなないた。

 「これ……わたし、に……?」

 その声はあまりに細く、少しでも風が吹けば消えてしまいそうだった。

 「ああ。さっき片付けたあの部屋、今日からお前の城だ。プライバシーくらいないと息が詰まるだろ」

 俺は納戸の方を親指で指した。「それと、その本な。俺が拾ったからには、中途半端なまま放り出したりしない。傷を治して、字を覚えて、計算もできるようにして……お前を、一人前の人間に育て上げてやるからな」

 リアは、白いセーターに頬を擦り寄せるようにして抱きしめた。

 その瞳から、大粒の雫がポロポロとこぼれ落ち、セーターの編み目に染み込んでいく。

 「こんなに……たくさん……本当に、いいんですか……?」

 「当たり前だ。この社会で生きていくには、頭の中に武器が必要なんだ。しっかり教え込むから、覚悟しとけよ」

 俺は照れ隠しに、彼女の銀色の頭をガシガシと撫でた。

 俺が言いたかったのは、「社会で独立して生きていけるようにしてやる」という意味だ。

 だが、俺は気づいていなかった。

 言葉足らずな俺のセリフが、愛に飢えた彼女の脳内で、全く別の意味へと翻訳されてしまっていることに。

【リア・視点】

 これは、夢なのだろうか。

 もしこれが夢なら、神様、どうかお願いです。二度と目を覚まさせないでください。

 カイ様が、部屋をくれた。

 カイ様が、真っ白な服をくれた。

 カイ様が、勉強道具をくれた。

 そして何より、あの言葉。

 『一人前の人間に育て上げてやる』

 頭の中が、甘い痺れで満たされていく。

 それはつまり、捨てないということ?

 傷が治っても、役に立たなくても、すぐに追い出されたりしないということ?

 「育て上げる」ということは、これから長い長い時間を、私にかけてくれるということだ。

 (……必要と、されている)

 その事実に、胸の奥が熱くなる。

 まるで温めた蜂蜜を一気飲みしたみたいに、胃の腑から熱が広がって、指先まで震えた。

 カイ様は、私のことを『天使』だと言ってくれた。

 だから、私は天使なのだ。

 以前の飼い主たちは、私のことを「汚らわしい」「淫乱なゴミ」と呼んで唾を吐いたけれど、彼らは間違っていたのだ。

 だって、もし私がそんな汚い生き物なら、こんなに綺麗な白いセーターが似合うはずがないもの。

 カイ様が私にこの色を選んでくれたことこそが、私が「清らかな存在」であることの証明だ。

 (私は、天使。カイ様に拾われた、良い子)

 心の中で、呪文のように繰り返す。

 そう、私は天使。だから、あの『悪い記憶』は嘘なのだ。

 自分が本当は、男の人をたぶらかし、精気を啜る害虫のような「魅魔(サキュバス)」であるなんて、そんなのおかしい。

 そんな汚い怪物が、こんなに優しくされるはずがないから。

 「わたし、がんばりますっ!」

 私は白いセーターを、まるで命綱のように強く抱きしめた。

 顔を上げ、精一杯の笑顔を作る。引きつっていないだろうか。ちゃんと、可愛い天使のように笑えているだろうか。

 「良い子になります! お役に立つ子になります! だから……いろいろ、教えてください!」

 証明しなければならない。

 私がここに居てもいい存在なのだと。

 ただのペットじゃなくて、役に立つ家族なのだと。

 もう二度と、あの冷たい雨の中に戻りたくない。

 この温かい箱の中から、一歩だって出たくない。

 その一心で、私は動き始めた。

 まずは、お茶を淹れることだ。天使たるもの、主人に優雅に奉仕できなくてはならない。

 私はキッチンに向かい、マグカップにお湯を注いだ。

 紅茶のティーバッグを揺らす。いい香り。これでカイ様を癒してあげるのだ。

 「カイ様、お茶を……あっ」

 リビングへ運ぼうとした、その時だった。

 マグカップが、想像以上に重かった。

 それに、床のカーペットの段差に、爪先立ちの足が引っかかった。

 グラリ、と世界が傾く。

 「――あ」

 カチャン、という無情な音が響いた。

 手から滑り落ちたカップがテーブルに当たり、転がる。

 褐色の液体が、雪のように白いテーブルクロスに広がり、そして床のカーペットへと滴り落ちていく。

 時が止まった。

 血の気が引いていく。

 やってしまった。

 汚してしまった。

 (ああ、やっぱり私はダメだ。無能だ。ゴミだ)

 天使なら、こんな失敗はしない。

 これは「不良品」のすることだ。

 殴られる。蹴られる。熱湯をかけられる。

 過去の記憶がフラッシュバックし、身体が勝手に防御姿勢をとる。

 「ご、ごめんなさい! ごめんなさいっ!」

 私は床に膝をつき、慌ててこぼれたお茶を拭こうとした。

 自分の手なんてどうでもいい。着ている服の袖で吸い取ろうとして――

 グイッ、と。

 強い力で手首を掴まれた。

 「ひっ!」

 喉から悲鳴が漏れる。来る。痛いのが来る。

 私はギュッと目を瞑った。

 「……動くな。火傷するぞ」

 しかし、降ってきたのは暴力ではなかった。

 低く、呆れたような、でもどうしようもなく温かい声。

 恐る恐る目を開けると、カイ様が私の手首を掴んだまま、困ったように眉を下げていた。

 彼は私をひょいと持ち上げると、濡れていないソファの端に座らせた。

 「座ってろ。俺がやる」

 そう言って、彼は台拭きを持ってきて、手際よくお茶を拭き取り始めた。

 怒鳴り声の一つもない。舌打ちさえ聞こえない。

 ただ黙々と、私の失敗を彼が尻拭いしている。

 「以後、こういうのは俺がやるからいい。お前はまず、何もないところで転ばないようになれ」

 作業を終えた彼は、苦笑しながら私の額を指先でピン、と弾いた。

 痛くなかった。

 むしろ、くすぐったかった。

 その優しさに触れた瞬間、胸の奥がどうしようもなく苦しくなった。

 申し訳なさ? いや、違う。

 もっと別の、ドロドロとした熱いものが、お腹の底で渦巻いている。

 (こんなにダメな私を、許してくれるの?)

 (こんなに優しい手が、私に触れてくれるの?)

 心臓がうるさいほど高鳴る。

 身体の芯が、疼くように熱い。

 この人を、もっと感じたい。もっと触れてほしい。

 その衝動に名前をつけるのが怖くて、私は自分の膝を強く握りしめた。

 これはきっと、失敗したことへの罪悪感でドキドキしているだけだ。

 そうに決まっている。私は天使なのだから、いやらしいことなんて考えていない。

【カイ・視点】

 午前二時。

 静寂に包まれた寝室で、俺はふと目を覚ました。

 何かの気配を感じたわけではない。ただ、掛け布団の裾から、冷たい空気が入り込んできたような気がしたのだ。

 「……ん?」

 重いまぶたをこじ開ける。

 暗闇の中、窓から差し込む月明かりが、ベッドの端を青白く照らしていた。

 そこに、白いモフモフした塊があった。

 布団がわずかに持ち上がり、その塊が――小さな身体が、モゾモゾと俺の領域へと侵入してくるところだった。

 リアだ。

 昼間渡した、あの白いニットのセーターを着たまま、彼女は四つん這いで布団の中に潜り込もうとしている。

 まるで、冬場の寒さに耐えかねて飼い主のベッドに忍び込む猫のようだ。

 「おい、リア……どうした?」

 声をかけると、彼女の動きがピタリと止まった。

 そして、布団の中で小さく丸まり、ガタガタと震え始めた。

 「……ぅ……ぅぅ……」

 言葉にならない、小さな嗚咽。

 俺はハッとした。

 あの納戸だ。

 俺にとっては「個室」というプレゼントのつもりだったが、彼女にとっては違ったのかもしれない。

 窓のない、狭く閉鎖的な空間。

 そこは、彼女がかつて監禁されていた場所を連想させるには十分すぎる環境だったのだろう。

 深夜、たった一人であの暗闇に放り込まれ、彼女はどれほどの恐怖を感じただろうか。

 (配慮が足りなかったか……)

 俺は自分の浅はかさを呪った。

 彼女はまだ、心に深い傷を負った子供なのだ。

 暗闇が怖い。一人が寂しい。捨てられるのが怖い。

 そんな当たり前の恐怖に耐えきれず、救いを求めてここまで来たのだろう。

 彼女の震えは止まらない。

 俺のパジャマの裾を掴む小さな手は、氷のように冷たかった。

 「……まったく、しょうがないな」

 俺は大きなため息をつくと、彼女を追い出すのを諦めた。

 こんなに怯えている小動物を、冷たい廊下に放り出せるほど俺は鬼じゃない。

 俺は身体を少しずらし、彼女が入れるスペースを作ってやった。

 「今夜だけだぞ」

 ぶっきらぼうに言い捨てて、布団を彼女の肩まで引き上げてやる。

 そして、強張った背中を、セーター越しにポンポンとリズムよく叩いてやった。

 大丈夫だ、ここにいるぞ、と伝えるように。

 しばらくすると、彼女の震えは徐々に収まり、安堵の吐息へと変わっていった。

 彼女の額が、俺の脇腹にぺたりと押し付けられる。

 完全に、親に甘える子供の体勢だ。

 俺は苦笑しながら、再び目を閉じた。

 まあいい。治療の一環だと思えば、これくらいは許容範囲だろう。

【リア・視点】

 あったかい。

 カイ様の匂い。カイ様の体温。

 ここが、世界で一番安全な場所。

 最初は、怖かっただけだった。

 あの部屋の電気を消した瞬間、闇が襲ってきた。

 昔の記憶。鉄格子の冷たさ。鞭の音。

 耳を塞いでも消えない幻聴から逃げるように、私は這い出した。

 ただ、カイ様の寝息を聞きたかった。

 彼がまだそこにいて、私を置いて消えてしまっていないか、確認したかっただけだった。

 でも、ベッドの端に近づいた時、身体が勝手に動いてしまった。

 (寒い……ここなら、寒くない)

 (少しだけ……端っこだけなら……)

 いけないことだと分かっていた。

 夜這いなんて、淫乱な女がすることだ。

 でも、カイ様の布団の中に潜り込んだ瞬間、脳みそがトロトロに溶けてしまいそうになった。

 圧倒的な安心感。

 そして、それ以上の、甘美な充足感。

 カイ様は私を拒まなかった。

 怒る代わりに、背中を優しくトントンしてくれた。

 そのリズムが、私の心臓の鼓動と重なる。

 (許された)

 (受け入れてもらえた)

 脇腹に額を押し付けると、彼の体温が直接伝わってくる。

 その熱が、私の中の空虚な穴を埋めていくようだった。

 もっと、くっつきたい。

 もっと、強く抱きしめてほしい。

 手足を絡めて、一つに溶け合ってしまいたい。

 頭の隅で、チリチリとした警告音が鳴る。

 『それは天使の願いじゃない』

 『それは怪物の欲望だ』

 けれど、私はその声に耳を塞いだ。

 違うもん。

 これは、ただの甘えん坊だもん。

 子供が、お父さんに守ってもらいたいと思うのと一緒だもん。

 私はただ、寒かっただけ。怖かっただけ。

 だから、このお腹の奥がキュンと疼く感じも、身体が火照って仕方がないのも、全部安心したからに決まってる。

 (カイ様……大好き……)

 私は彼のパジャマの匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

 それはまるで、乾いた砂漠が水を吸い込むように。

 私の中の「何か」が、彼の優しさを、彼の存在そのものを、貪欲に啜り飲んでいることに気づかないまま。

 私は巨大な自己欺瞞の繭の中で、幸せな微睡みに落ちていった。


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