第01話 『天使』という名の嘘と、雨上がりの捨て猫

【カイ・視点】

 この世界は、バイト先のコンビニで絶え間なく唸りを上げている業務用の冷蔵ケースみたいに、精密で、冷淡だ。

 俺の名はカイ。二十歳。しがない一般人だ。

 人間族と亜人種が共存しているとはいえ、厳然たる階級社会が根付くこの日本で、俺はこれといった特徴のない「モブキャラ」として生きている。両親は早いうちに事故で他界し、唯一の妹は親戚に引き取られ、手元に残ったのは広すぎる実家と、それなりの額の遺産だけ。

 その金があれば一生遊んで暮らせるかもしれないが、完全に腐ってしまうのを防ぐため、俺はコンビニで週五のシフトに入っている。同僚たちは俺の顔を見て「その顔で彼女いないとか詐欺だろ」と揶揄うし、たまに来店する女子高生がスマホを向けてきたりもするが、俺には全く実感がない。

 リアルでの面倒な人付き合いよりも、家の自室に引きこもって漫画を読み耽るほうが、よっぽど精神衛生上いい。

 性格は軟弱で、臆病で、事なかれ主義。

 そんな俺が、今日拾った「トラブル」のせいで一生を棒に振ることになるなんて、この時は夢にも思わなかった。

 それは、小雨がぱらつく夕暮れ時のことだった。

 廃棄寸前の弁当をぶら下げ、近道をしようと市場の裏通りへ足を踏み入れたのが運の尽きだったのかもしれない。

 そこは魚の生臭さと香辛料の匂いが混じり合う、都市のグレーゾーン。亜人たちが底辺の労働を強いられる場所だ。

 ふと、視界の隅にそれが映った。

 普段から無駄に周りを観察してしまう癖のせいだろうか。

 粗悪な奴隷を扱う露店の陰に、雨に打たれて震える小さな影を見つけてしまったのだ。

【リア・視点】

 いたい……おなかすいた……

 リアは泥だらけの隅っこで体を丸めていた。足首に食い込む鉄鎖の冷たさが、ここが地獄であることを思い出させる。

 雨水が汚れた髪を伝って目に入り、世界は灰色に滲んでいた。腐った野菜の臭いがする。

 いっそ、死んでしまえればいいのに。

 リアの朦朧とした頭の中で、その言葉が千回繰り返される。

 ――サキュバス(魅魔)。

 この世界において、最も忌み嫌われ、差別される最底辺の種族。淫らで、強欲で、危険な独占欲の塊だと、誰もがそう教え込まれている。

 生まれた瞬間から、リアは世界に拒絶されていた。父の顔は知らず、母はすぐに死んだ。記憶にあるのは、闇市での鞭の痛みと罵声だけ。

 顎のあたりが、ズキズキと痛む。

 あれはずっと昔、変態の主人に犯されそうになって、死に物狂いで抵抗した時に殴られた傷だ。骨は繋がったけれど、顎はずれてしまった。その奇妙な歪みが、リアをさらに醜い「失敗作」に見せているらしい。

 『不良品め』

 『買い手のつかないゴミが』

 そんな声が、悪夢のようにまとわりつく。あちこちをたらい回しにされ、最後に行き着いたのがこの市場だった。

 なにかたべないと……ほんとうに、しんじゃう……

 リアは震える手――骨と皮だけになった小さな手――を伸ばした。爪の間は黒い泥で埋まっている。

 狙いは、目の前の地面。誰かに踏みつけられた、泥まみれのキャベツの外葉が一枚。

 行き交う人々の目には、冷淡な無関心か、汚物を見るような嫌悪感しか浮かんでいない。

 はやく……みつからないように……

 リアはとっさに身を投げ出し、その葉っぱを掴んで口に押し込んだ。

 腐敗臭と、ジャリッという砂の感触。けれど今のリアにとって、それは命の味だった。

「おい! 俺のゴミになにしてやがる、この汚ねえのが!」

 店主の怒声とともに、棒が振り上げられる。

 リアはビクリと身をすくめ、反射的に頭を抱えた。いつもの激痛が降ってくるのを覚悟して。

 けれど、その痛みはやってこなかった。

 代わりに、影が落ちてきた。

 雨を遮り、店主の視線を遮る影。

 そこからは、奴隷商人特有の脂と暴力の臭いではなく……ふわりとした、清潔な洗剤の香りがした。

【カイ・視点】

 痩せすぎだ。

 まるで皮を被った骸骨じゃないか。泥だらけの野菜屑を、その歪んだ口に必死に押し込む姿。それは食事というより、生存のための最後のあがきに見えた。

 ドクリ、と心臓が嫌な音を立てた。

 憐憫か? それとも、誰からも顧みられないその姿に、孤独な自分の影を重ねてしまったのか?

 歪んだ顎も、無数の傷跡も、不気味だとは思わなかった。ただ、胸が締め付けられるように痛かった。

「……コミュ力を鍛える練習だと思えばいい。家だって無駄に広いんだ、一人増えたところで変わらない」

「怪我が治ったら自由にさせてやればいい。そうすれば俺の経歴にも『人助け』の箔がつく」

 俺は心の中で、自分に対する言い訳を並べ立てた。そうでもしないと、この場違いな善意を正当化できなかったからだ。

 俺は一歩踏み出し、強面な奴隷商人の前に立った。

「店主」

 なるべく声が震えないように、俺は足元の小さな影を指差した。

「これ……いくらですか?」

【リア・視点】

 その綺麗な男の人の声は……わたしに、言ってるの?

 リアは信じられない思いで顔を上げた。逆光で顔はよく見えないけれど、すらりとした立ち姿だけが見える。

 人間だ。支配者層の、雲の上にいるような人間様だ。

 どうして? どうしてこんなゴミを買うの?

 サキュバスだってバレてるの? 買って帰って、虐めるつもりなの?

 一瞬の希望を、巨大な恐怖が塗りつぶす。サキュバスだとバレれば、待っているのは終わりのない羞恥と折檻だ。

「おっ? 兄ちゃん、変わった趣味してるねえ」

 商人の声が、ねっとりと媚びたものに変わる。リアは、自分と少年の間を行き来する貪欲な視線を感じた。

 商人がリアの濡れた髪を乱暴に掴み、無理やり顔を上げさせる。痛みに、リアの目尻に涙が滲んだ。

「こいつはガリガリだし、ちょっと不具だけどよ、掘り出し物なんだぜ!」

 商人の目が怪しく光った。それは、在庫の不良品をカモに押し付ける時の、典型的な詐欺師の顔だ。

 商人は声を潜め、もっともらしく言った。

「こいつはな、**『天使の混血(ハーフ)』**なんだよ! まだ翼は生えてねえが、飯食わせて肌艶よくすりゃあ、化けるぜぇ!」

 てん、し……?

 リアの心臓が早鐘を打った。

 嘘だ。天使なんて、純潔と神聖の象徴。汚らわしい欲望の権化であるサキュバスとは、対極にいる存在だ。

「天使……だって?」

 少年は少し驚いたように目を丸くし、リアを覗き込んだ。その目には疑いの色はなく、ただ純粋な好奇心だけがあった。

「本当なのか?」

 その瞬間、世界が止まったようだった。

 リアは少年の目を見つめ返した。そこには、今まで見てきた男たちのような、いやらしい欲望の色は一切なかった。

 生まれて初めて見る、澄み切った、優しい目。

 もし本当のことを言ったら、この人は行っちゃう?

 『サキュバス』なんて聞いたら、唾を吐きかけて、背を向けるんでしょう?

 死にたくない……あの檻には戻りたくない……

 お願い、神様。一度だけでいいから、わたしに居場所をください……

 喉が張り付いて、声が出ない。

 極限の恐怖と、温もりへの渇望が、リアに生涯で最も大胆で、最も卑劣な決断をさせた。

 彼女は震えながら、少年の瞳を真っ直ぐに見つめ――。

 ゆっくりと、全身の力を振り絞るようにして。

 コクン、と頷いた。

 ごめんなさい……ごめんなさい……わたしは嘘つきです……

 わたしは汚い詐欺師です……

 泥だらけの頬を涙が伝う。けれど少年の目には、それが「堕ちた天使」の儚さとして映ったのかもしれない。

【カイ・視点】

 彼女は頷いた。

 涙を溜めたその紫色の瞳は、雨の中で捨てられた子猫のように、助けを求めていた。

 そうか、天使の血を引いているのか。どうりで、こんなに落ちぶれていても目を引くわけだ。

 店主がふっかけてきているのは明白だったが、値切る気にもなれなかった。

「買った」

 俺はカードを取り出し、満面の笑みを浮かべる店主と会計を済ませた。

 足の鎖を外してやると、彼女はビクリと身を縮こまらせたが、逃げようとはしなかった。俺は着ていたアウターを脱ぎ、その骨張った肩にふわりとかけてやった。

「行こう」

 俺は頼れる大人を演じようと、少しぶっきらぼうに言った。

「帰って、飯にするぞ」

 彼女は呆然と俺を見上げていたが、やがて、その傷だらけの小さな手で、恐る恐る俺の服の裾を掴んだ。

 指先が白くなるほど、強く、すがるように。

 その日の夕焼けは妙に赤く、濡れたアスファルトに俺たちの影を長く伸ばしていた。

 あの時の俺は、あまりにも無知だった。

 俺が連れて帰ろうとしているのは、地上に落ちた天使なんかじゃない。

 愛を糧にし、一度食らいついたら骨までしゃぶり尽くす、飢えた幼い「悪魔(サキュバス)」だということを。

 もしあの日、真実を知っていたら。

 サキュバスの貪欲さや危険な噂を知っていたら、俺は彼女を買っただろうか?

 震える彼女の背中を見下ろしながら、俺は思う。

 ――たぶん、答えはイエスだ。

 その「救済」が、後にどれほどの代償を支払うことになるかを知っていたとしても。


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