其の五

 この時になって長倉は、やっと気づく。


 さっきからずっと感じていた、澪月の覚束無おぼつかなげな様子。何を不安がっているのか、ずっとおどおどと瞳を揺らしていた。この所為せいだったんだとやっと合点がてんがいって、長倉は澪月の俯く瞳を覗き込むようにして明るく笑う。


「そんなに気にしなくて大丈夫ですよ」


 言って、澪月の頭をぽんぽんと撫でる。


「大内様は悪戯好きな方ですからね。澪月様も何かされたんでしょう?」


 悪ふざけが大好きな大内氏は、長倉にもしょっちゅう悪戯を仕掛ける。


 それは他愛ない、子供のような悪戯ばかり。上手く引っ掛かれば、両手を叩いて大喜び。逆に失敗した時には、驚くほどしょげ返ってしまう大内氏だった。


「澪月様の事を仔猫だなんて言うくらいですから、平気ですよ」

「……やけど……」


 言い掛けて、澪月が唇を噛む。自分のために揚知客が骨をおってくれているのに、このままではとても納得できなくて、ついと長倉を見上げる。


「……お前、笛、持っとったよな?」


 その問いかけに長倉は、随分前に澪月が寝付けなかった夜、一度だけ吹いて聴かせたことを思い出す。


「謡曲、吹けん?」


 長倉にとっては手慰てなぐさみでしかない笛。


 有名処ゆうめいどころの曲を知ってはいても、吹けると胸を張って言えるものではなくて、長倉が考え込むような表情をする。


「羽衣の、「天女の舞」の部分だけで、ええんやけど」


 遠慮気味に問いかける澪月に、長倉が問い返す。


「澪月様が、舞われるんですか?」

「うん。前はようやってたんよ。憶えてるかどうかは、怪しいんやけど……」


 自信無さげに俯いていた澪月が、キッと前を見据える。


「やけど、このままには出来ん」


 また少し不安げに小首を傾げて、心許こころもとなく呟く。


「大内様は、舞は好きなんやろか?」


 自分に出来る何かを一生懸命に探っている澪月の問いかけに、長倉は自分の中にあるひるむ気持ちを捨て、澪月の思い立ちを、後押ししようと心に決める。


「大内様は風雅ふうがを好まれる御方おかたですから、舞が嫌いなんてことないです」


 そして、優しく告げる。


「きっと、お気に召していただけますよ」



 宵闇よいやみは、静かにさやけく、時をきざんでいた。


 珊瑚色のすぐり酒に映るのは、銀の穂先のような下弦の月。観月台に並ぶ和灯篭が、ゆらゆらと宴の席を照らしていた。


 久方ひさかたの穏やかな空気に、普段ならそんなに飲まない揚知客も、楽しそうな大内氏に付き合うように杯を重ねていた。


 白瑠璃の器は、揚知客と大内氏の間を行ったり来たり。


 その度に浸される盃洗はいせんの水が、紅花べにのはなを絞ったように色付いていた。ほろ酔い加減の大内氏が、御簾みすの影からふたりの様子を窺っていた長倉を、目聡めざとく見つける。


「おい! そんなところで何をやってるんだ? お前も早くこっちにこい!」


 斜向ななめむかいにある席を指差して、大内氏は子供のように手招く仕草をする。


「ただいま参ります!」


 明るく応える長倉の隣で、桜色の水干を纏った澪月が、意を決して唇を噛み締める。


「大丈夫ですか?」


 長倉の問いかけにコクンと頷いて、澪月は観月台の中央に向かって歩く。


 和灯篭に映し出される薄紅の紗衣しゃぎぬ。若草色のひとえに結ばれたのは、濃緑こみどり胸紐むなひも袖露そでつゆ


 可憐な面差おもざしに艶麗えんれいな笑みを浮かべ、澪月がさらりとその場に平伏ひれふす。


「先ほどは、失礼致しました」


 観月台の中央にうずくまる、その姿はいとけない。


「知らぬこととはいえ、大変なご無礼ぶれいを申しました」


 幼い容姿に不釣合いな事慣ことなれた仕草に、大内氏の視線がわずかにすがめられる。


「お詫びに、お目汚めよごしではございますが、舞を披露したく存じます」


 静かな観月台をコトリと揺らしたのは、大内氏が白瑠璃を膳に乗せる音。自身の表情を隠すように扇を広げ、大内氏は扇の影から問いかける。


「……舞、とな」

「はい、お嫌いでなければ」


 澪月の面が、ふわりと上げられる。


 扇の上から除き見る大内氏の視線は鋭い。けれど澪月の黒目がちな瞳は、大内氏の強い視線に臆する事なく、まっすぐに向けられる。その真摯な、何かを必死に訴えかけるような蜜色の瞳に、大内氏の口元に、ほのかな笑みが浮かぶ。


「舞ってみろ」

「ありがとうございます」


「我は『西行桜さいぎょうざくら』を所望しょもうする」

「えっ?」


「季節はずれでも良かろう。その薄紅の衣に映える、舞が見たい」


 そこで初めて澪月が、少しだけ戸惑った表情を見せる。


 音合わせはしていない。長倉は「西行桜」も吹けるのだろうか。そんな不安を持ちながら、視界の端にいる長倉に視線を移す。すると長倉が、その不安を打ち消すようにゆっくりと頷いた。


 長倉の、任せろと言わんばかりの深い頷きに、澪月がもう一度その場に平伏す。


主君しゅくんのお望みのままに」


 澪月の涼やかな応えに、大内氏がパチリと扇をたたむ。ゆったりと脇息きょうそくにもたれかかり、観月台の中央に視線を据える。

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