其の六
群青の闇に、笛の音が高く鳴り響く。
〽あら名残おしの
笛の音に、透き通る声が乗る。
〽えがたきは時 会いがたきは友なるべし
幼さを残す声が、白銀が散る
〽花に
薄紅の雫が、風に舞う。優雅に優美に、夜を舞う。
〽待て
細い腰にたなびくのは、薄紅の紗。
ひらひらと揺れるのは、若葉の袖。
藍の空に
消え入りそうな輪郭は、細く鋭利に夜空を切り取る。
差す手に
月の雫に浸された
きらきらとあやかな光が、藍の空に軌跡を残し、観月台に降り落ちる。
群青の夜の
笛の音は、やんでいた。やがてこときれるように、
「……澪月……様……」
長倉の声が、ためらいがちに躓く。呼んで、傍近くに行こうと腰を浮かせかけた長倉を止めたのは、扇が脇息をたたくパシリと小気味の良い音だった。
「
舞の終わりを見切った大内氏が、あからかに告げる。大内氏の声に、ぴくりと肩を揺らし、澪月がその場に平伏す。
「艶やかでありながら品もある。
「……身に、余る……お言葉……」
発した声は、震えながら途切れる。深く叩頭したまま、澪月の肩が小刻みに震える。
「舞は、よくやっていたのか?」
大内氏の問いかける言葉にも、澪月の面は上げられない。
「どうした?」
優しげな問いに返されたのは、澪月の掠れる声音。
「申し訳ございません。今、
「疲れたのか?」
「はい……、少々」
「下がってよいぞ」
「ありがとうございます」
搾り出すようにそう告げて、澪月は俯いたままその場を後にする。気遣わしげに見つめていた長倉が、その後を追う。
―― ほんに澪月は、
―― まこと、羽のようじゃ。
いつも、いつも、澪月の舞は宴の席で
江口、羽衣、
頬を濡らす雫が、止まらない。長倉の笛の音が、今も胸を叩いて涙が止まらない。
泣いても何もかわらない。だったら、泣くなんて
涙の理由は、わからない。泣くほどの寂しさも哀しみも、今は何処にもないのに、どうして涙が出るのかわからなかった。
足早に進めた歩の先には、この館で目覚めた朝、自分を映した
行く手を
水に映る、今にも手が届きそうな天空の月。その鮮やかな幻を、見つめる。
幸せばかりではなかった。哀しいこともあった。そうわかっているのに、もう二度と戻ることはないという喪失感が、思い出を美しさばかりで塗り固めていく。
その幻を恋しがる自分に、苦い笑みが込み上げてくる。
「泣いたって、しゃあないやんなぁ……」
ひとりごちて、おもむろに顔を洗う。
ばしゃばしゃと、静かな庭に大きな水音。何度も何度も掌で水を掬い上げ、濡れた頬に打ち付ける。思いっきり首を巡らし水滴を払い、冷たくなった指先で残る雫を拭ったとき、さやかな風がついと頬に触れた。大きく息を吐いて、空を見上げる。
まだ瞼に残る涙が、今にも滲み出ようとするのを、奥歯を噛み締めて飲み込んだ。
「……澪月、様」
庭の敷石の上にしゃがみこんでいる澪月に、密やかな声がかかる。
振り返らなくてもその声が、長倉のものだとすぐにわかる。いたわるように優しい声音に、長倉の心配そうな顔が思い浮かぶ。涙を搾り切った、乾いていくばかりだった胸に、長倉の優しい声が沁みていく。
「なんや?」
背中を丸めたまま、澪月はぶっきらぼうに返事を返す。
その投げやりとも言える声音に、長倉はほっと安堵の息を吐く。それは、澪月の気丈さを装う声と知っていた。けれど、気丈さを装えるくらいなら大丈夫だということも知っていた。
近づいて小さな顔を覗き込むと、澪月はプイといった感じで他所を向く。勢い良く回された首の反動で、濡れたままの前髪から水滴が散る。
「また水干、濡らしちゃいましたね?」
「えっ?」
長倉の言葉に、澪月が慌てたように自分を見下ろす。今は水干ばかりではなく、小袖も、袴も、しっとりと水に濡れていた。
「その格好じゃ、もう、大内様の前には戻れませんね」
揚知客が自分のために新調してくれた
「でも、もう遅いですから、大内様には私から
言いながらすっと立ち上がって、澪月の腕を掴んで立たせる。不安そうに自分を見上げてくる澪月を、
「なっ、なにすんねん!」
突然のことに、ビックリして暴れ出す澪月に、笑いながら言う。
「そんな格好でいつまでもしゃがみこんでたら、風邪をひいてしまいます」
「平気や! 下ろせや!」
「駄目です。しっかりつかまっててください。暴れたら落としますよ」
落とすと言う言葉にぴくんと息を呑んで、澪月が諦めたような表情をする。
暴れたところで、一度抱き上げられた身体が下ろされることがないことは、経験上よく知っている。それでも、こんなふうに子供扱いされることを納得出来ずにいる澪月が、しぶしぶといった感じで長倉の肩に掴まる。
澪月の少し怒って膨らんでしまった頬を見下ろしながら、長倉はふと思う。
自分には、ずいぶん素直な表情を見せるようになったはずなのに、それでもまだ、澪月は泣き顔だけは見せようとしない。
初めて逢ったあの日、澪月は小さく小さく縮みこんで、袂で顔を覆ったまま泣いていた。どんなに泣いても許される場面でさえ、澪月は自分の声を噛み殺し、ただ小さく震えるだけだった。
だとしたら、意地っ張りなこの人は、いったい何処で思いっきり泣くんだろう。そう想うと切なくて、抱えた腕に力が入る。言葉に出来ない問いかけは、長倉の胸の中に小さな波紋を落としていた。
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