其の六

 群青の闇に、笛の音が高く鳴り響く。


〽あら名残おしの夜遊やゆうやな


 笛の音に、透き通る声が乗る。


〽えがたきは時 会いがたきは友なるべし 春宵一刻値千金しゅんしょういっこくあたいせんきん


 幼さを残す声が、白銀が散る宵闇よいやみに、玲瓏れいろうと木霊する。


〽花に清香せいこう 月に影 春の夜の 花の影より 明けめて


 薄紅の雫が、風に舞う。優雅に優美に、夜を舞う。


〽待てしばし 待て暫し 夜はまだ深きぞ 白むは花の影なりけり

 

 幽玄夢幻ゆうげんむげんの、観月の間。


 細い腰にたなびくのは、薄紅の紗。

 ひらひらと揺れるのは、若葉の袖。

 

 藍の空に煌々こうこうと輝くのは、獣の爪した下弦の月。

 消え入りそうな輪郭は、細く鋭利に夜空を切り取る。

 差す手にたわむ、銀の雫。かざす手に舞い散る、金の雫。

 月の雫に浸された金襴きんらん舞扇まいおうぎが、金と銀の雫を散らす。


 きらきらとあやかな光が、藍の空に軌跡を残し、観月台に降り落ちる。


 群青の夜のとばりの向こうに、あるはずのない爛漫らんまんの、桜の大樹が見える。暗闇にふうわりと浮かび上がる、仄暗ほのぐらい精気を宿した満開の、桜の大樹が見える。


 とどめ切れない想いを馳せ、澪月の瞳がみるみると潤んでいく。遠くを見つめる瞳が、消えていく何かに追いすがるように揺れる。


 笛の音は、やんでいた。やがてこときれるように、小冠者こかじゃは空を見つめる。濡れて揺れる瞳を隠そうともせず、まるで糸が切れた人形のように、ただ空を見つめている。シンと静まり返る、観月の間。


「……澪月……様……」


 長倉の声が、ためらいがちに躓く。呼んで、傍近くに行こうと腰を浮かせかけた長倉を止めたのは、扇が脇息をたたくパシリと小気味の良い音だった。


堪能たんのうしたぞ」


 舞の終わりを見切った大内氏が、あからかに告げる。大内氏の声に、ぴくりと肩を揺らし、澪月がその場に平伏す。


「艶やかでありながら品もある。其方そなたの歳でこれほど舞えるとは、恐れ入った」 

「……身に、余る……お言葉……」


 発した声は、震えながら途切れる。深く叩頭したまま、澪月の肩が小刻みに震える。


「舞は、よくやっていたのか?」


 大内氏の問いかける言葉にも、澪月の面は上げられない。


「どうした?」


 優しげな問いに返されたのは、澪月の掠れる声音。


「申し訳ございません。今、一時いっとき、下がらせていただきとうございます」

「疲れたのか?」


「はい……、少々」

「下がってよいぞ」


「ありがとうございます」


 搾り出すようにそう告げて、澪月は俯いたままその場を後にする。気遣わしげに見つめていた長倉が、その後を追う。



 ―― ほんに澪月は、歌舞かぶが上手い。

 ―― まこと、羽のようじゃ。


 いつも、いつも、澪月の舞は宴の席で珍重ちんちょうされた。


 江口、羽衣、花月かげつに西行桜。数え上げればキリが無い舞の数々を、澪月は知っていた。さやかな風を受け舞う自身に、思い出は哀しく絡み付いてきた。


 頬を濡らす雫が、止まらない。長倉の笛の音が、今も胸を叩いて涙が止まらない。


 泣いても何もかわらない。だったら、泣くなんて無様ぶざま真似まねはしたくない。ずっと、そう思っていた。今だって、そう思っている。なのにどうしても、涙を止められない。


 涙の理由は、わからない。泣くほどの寂しさも哀しみも、今は何処にもないのに、どうして涙が出るのかわからなかった。


 足早に進めた歩の先には、この館で目覚めた朝、自分を映した水鏡みずかがみがあった。


 行く手をさえぎる池のはたに、唇を噛んで立ちすくむ。透明な水鏡を飾るのは、未だ中空に灯る下弦の月。微かに揺れる水面の上に、やわらかな光沢を煌めかせている。


 水に映る、今にも手が届きそうな天空の月。その鮮やかな幻を、見つめる。


 幸せばかりではなかった。哀しいこともあった。そうわかっているのに、もう二度と戻ることはないという喪失感が、思い出を美しさばかりで塗り固めていく。


 その幻を恋しがる自分に、苦い笑みが込み上げてくる。


「泣いたって、しゃあないやんなぁ……」


 ひとりごちて、おもむろに顔を洗う。


 ばしゃばしゃと、静かな庭に大きな水音。何度も何度も掌で水を掬い上げ、濡れた頬に打ち付ける。思いっきり首を巡らし水滴を払い、冷たくなった指先で残る雫を拭ったとき、さやかな風がついと頬に触れた。大きく息を吐いて、空を見上げる。


 まだ瞼に残る涙が、今にも滲み出ようとするのを、奥歯を噛み締めて飲み込んだ。


「……澪月、様」


 庭の敷石の上にしゃがみこんでいる澪月に、密やかな声がかかる。


 振り返らなくてもその声が、長倉のものだとすぐにわかる。いたわるように優しい声音に、長倉の心配そうな顔が思い浮かぶ。涙を搾り切った、乾いていくばかりだった胸に、長倉の優しい声が沁みていく。


「なんや?」


 背中を丸めたまま、澪月はぶっきらぼうに返事を返す。


 その投げやりとも言える声音に、長倉はほっと安堵の息を吐く。それは、澪月の気丈さを装う声と知っていた。けれど、気丈さを装えるくらいなら大丈夫だということも知っていた。


 近づいて小さな顔を覗き込むと、澪月はプイといった感じで他所を向く。勢い良く回された首の反動で、濡れたままの前髪から水滴が散る。


「また水干、濡らしちゃいましたね?」

「えっ?」


 長倉の言葉に、澪月が慌てたように自分を見下ろす。今は水干ばかりではなく、小袖も、袴も、しっとりと水に濡れていた。


「その格好じゃ、もう、大内様の前には戻れませんね」


 揚知客が自分のために新調してくれた一揃ひとそろい。それは大内氏の為の準備のはずだったのに、それをふいにしてしまったことに、澪月がしゅんと肩を落とす。


「でも、もう遅いですから、大内様には私から御暇おいとまを申し上げますね」


 言いながらすっと立ち上がって、澪月の腕を掴んで立たせる。不安そうに自分を見上げてくる澪月を、おもむろに抱き上げる。


「なっ、なにすんねん!」


 突然のことに、ビックリして暴れ出す澪月に、笑いながら言う。


「そんな格好でいつまでもしゃがみこんでたら、風邪をひいてしまいます」

「平気や! 下ろせや!」


「駄目です。しっかりつかまっててください。暴れたら落としますよ」


 落とすと言う言葉にぴくんと息を呑んで、澪月が諦めたような表情をする。


 暴れたところで、一度抱き上げられた身体が下ろされることがないことは、経験上よく知っている。それでも、こんなふうに子供扱いされることを納得出来ずにいる澪月が、しぶしぶといった感じで長倉の肩に掴まる。


 澪月の少し怒って膨らんでしまった頬を見下ろしながら、長倉はふと思う。


 自分には、ずいぶん素直な表情を見せるようになったはずなのに、それでもまだ、澪月は泣き顔だけは見せようとしない。


 初めて逢ったあの日、澪月は小さく小さく縮みこんで、袂で顔を覆ったまま泣いていた。どんなに泣いても許される場面でさえ、澪月は自分の声を噛み殺し、ただ小さく震えるだけだった。


 だとしたら、意地っ張りなこの人は、いったい何処で思いっきり泣くんだろう。そう想うと切なくて、抱えた腕に力が入る。言葉に出来ない問いかけは、長倉の胸の中に小さな波紋を落としていた。

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