其の四

 沁みるから嫌だと、子供みたない駄々だだねる大内氏の腕を引っ掴んで、無理やり薬草を塗り込めるのに一時いっとき。少しだけ不機嫌になってしまった大内氏を宥めながら、観月台に誘い込むのに一時半いっときはん


 憮然ぶぜんとした表情の大内氏に白瑠璃碗はくるりわんを握らせ、注いだのは長倉秘蔵ひぞうのすぐり酒。


「おっ?」


 大内氏の表情が、にわかに変わる。


「今日は、これ、飲ませてくれるのか?」


 膝立ちの長倉を見上げ、わくわくといった感じで声を弾ませる。


「今日のために、準備しました」


 長倉が漬ける果実酒は、どれも絶品だった。


 酸味を殺さない程度の甘さと、濁りのない色。中でも酸味が強く、漬けるのが難しいと言われている「すぐり」でさえ、長倉の手にかかれば、透き通るような珊瑚色に染まる。


 けれど果実そのものが小さく少ないこの品種。季節ごとにでは、飲める量が限られてしまう。そんな「すぐり酒」を、思いっきり飲んでみたいと言ってくれた大内氏の為に、長倉は去年から準備していた。


「たくさんありますから、遠慮せずに飲んでくださいね」


 乳白色の瑠璃を薄い紅色に染める珊瑚色の花露かろに、大内氏が満面の笑みを見せる。やっと機嫌を直してくれた大内氏にほっと安堵の息を吐き、長倉はそっと観月台を後にする。


 自分の影が御簾みすに隠された瞬間歩速を早め、門へと向かう。


(今、一時なら、酒盃しゅはいは満たされている。膳のさかなも、今一時なら、問題ない)


 言い聞かせるように呟いて、長倉は夜空を見上げる。もうすっかり陽の落ちた藍の空には、下弦の月が浮かんでいる。


(早く、見つけなくては)


 く気持ちをなんとか落ち着かせ、夜道を照らすための行燈に手をかけようとしたその時、長倉の後ろでキシリと床の軋む音がした。驚いて振り返ると、夕刻からずっと姿の見えなかった澪月が、所在しょざい無さげに立っていた。


「澪月様!」


 慌てて駆け寄る長倉に、澪月の肩がすくむ。


「どこに行ってたんですか! 夕方までには帰るって、約束したじゃないですか!」


 長倉の叱るような声音に、澪月の肩がますます縮こまっていく。


 少し怯えているようにも見える澪月の様子に、長倉は怒鳴りたい気持ちを飲み込んで、澪月の目線まで降りる。見下ろす視線から見上げる視線に変えて、澪月の小さな手を握ると、俯いていた視線がやっと長倉に向けられる。


「こんなに遅くまで、外にいちゃ駄目ですよ」


 小さな子供に言い含めるような言い方に、澪月がきゅっと唇を尖らせる。


「俺、家ん中に、おったもん」

「いつ帰ったんですか?」

「陽ぃ暮れる前や」


 その一言に長倉は、「気のせい」で片付けてしまった一瞬の気配を思い出す。あれが澪月だったんだと思い返す。


「帰ってたなら、一声かけてくださいよ」


 思いっきり脱力して、長倉はしゃがんでいたその場に腰を落としてしまう。


「大内様がいらしてるのに、気が気じゃなかったなかったんですからね」


 膝をついて情けない声を出す長倉に、澪月の小さな小さな声がかけられる。


「……………………ごめん……」


 澪月の弱々しい声音に、長倉が座ったままで澪月を見上げる。


 視線を逸らして俯く澪月はしゅんとしたままで、いつもの元気がない。言いたいことは山ほどあっても、肩を落とした澪月に長倉は何も言えない。所在無さげな風情が、出会ったばかりのころの寂しげな澪月を思い出させて、それ以上は叱れない。


「とにかく、御無事でなによりです。水干乾きましたから、一緒にとりに行きましょう」


 いつものように無邪気な笑顔を見せてもらいたくて、長倉は勢い良く立ち上がると澪月の手を握る。水干をかけてある奥座敷に向かいながら、笑い話のように大内氏の話を振る。


「今日はとても珍しいことがあったんですよ」


 長倉の歩きながらの会話に、澪月の視線が上がる。


「さっきね、大内様の腕に薬草を塗ってさしあげたんですよ」


 小首をかしげる澪月を見下ろして、くすくすと笑いながら続ける。


「小さな噛み傷だったんですけど」


 その一言に、澪月のしんが、ドキンとひとつ高く打つ。


「あれほどの剣の腕をお持ちの方でも、仔猫には敵わないんですね」


(……仔猫?)


 長倉の言葉を胸の内で反芻はんすうした瞬間「仔猫」の正体がわかって、澪月の頬がポンと紅くなる。長倉の腕がくい、と引かれる。歩を止めてしまった澪月がふぅとひとつ、息を吐く。


「……それ……、俺や」

「えっ?」


「やから、御殿様に噛み付いたんは、俺や」

「えぇっ!」


「やって、知らなかったんやもん」


 大きく目を瞠る長倉に、澪月がおそるおそるというように問いかける。


「……怒っとった?」


 握り締めた指先が、小さく震えている。長倉の驚いたような声が、澪月の不安を大きくしていた。問う言葉を投げかけながら、それを確認することに怯えるように、澪月の視線が逸らされる。

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