其の四
沁みるから嫌だと、子供みたない
「おっ?」
大内氏の表情が、
「今日は、これ、飲ませてくれるのか?」
膝立ちの長倉を見上げ、わくわくといった感じで声を弾ませる。
「今日のために、準備しました」
長倉が漬ける果実酒は、どれも絶品だった。
酸味を殺さない程度の甘さと、濁りのない色。中でも酸味が強く、漬けるのが難しいと言われている「すぐり」でさえ、長倉の手にかかれば、透き通るような珊瑚色に染まる。
けれど果実そのものが小さく少ないこの品種。季節ごとにでは、飲める量が限られてしまう。そんな「すぐり酒」を、思いっきり飲んでみたいと言ってくれた大内氏の為に、長倉は去年から準備していた。
「たくさんありますから、遠慮せずに飲んでくださいね」
乳白色の瑠璃を薄い紅色に染める珊瑚色の
自分の影が
(今、一時なら、
言い聞かせるように呟いて、長倉は夜空を見上げる。もうすっかり陽の落ちた藍の空には、下弦の月が浮かんでいる。
(早く、見つけなくては)
「澪月様!」
慌てて駆け寄る長倉に、澪月の肩が
「どこに行ってたんですか! 夕方までには帰るって、約束したじゃないですか!」
長倉の叱るような声音に、澪月の肩がますます縮こまっていく。
少し怯えているようにも見える澪月の様子に、長倉は怒鳴りたい気持ちを飲み込んで、澪月の目線まで降りる。見下ろす視線から見上げる視線に変えて、澪月の小さな手を握ると、俯いていた視線がやっと長倉に向けられる。
「こんなに遅くまで、外にいちゃ駄目ですよ」
小さな子供に言い含めるような言い方に、澪月がきゅっと唇を尖らせる。
「俺、家ん中に、おったもん」
「いつ帰ったんですか?」
「陽ぃ暮れる前や」
その一言に長倉は、「気のせい」で片付けてしまった一瞬の気配を思い出す。あれが澪月だったんだと思い返す。
「帰ってたなら、一声かけてくださいよ」
思いっきり脱力して、長倉はしゃがんでいたその場に腰を落としてしまう。
「大内様がいらしてるのに、気が気じゃなかったなかったんですからね」
膝をついて情けない声を出す長倉に、澪月の小さな小さな声がかけられる。
「……………………ごめん……」
澪月の弱々しい声音に、長倉が座ったままで澪月を見上げる。
視線を逸らして俯く澪月はしゅんとしたままで、いつもの元気がない。言いたいことは山ほどあっても、肩を落とした澪月に長倉は何も言えない。所在無さげな風情が、出会ったばかりのころの寂しげな澪月を思い出させて、それ以上は叱れない。
「とにかく、御無事でなによりです。水干乾きましたから、一緒にとりに行きましょう」
いつものように無邪気な笑顔を見せてもらいたくて、長倉は勢い良く立ち上がると澪月の手を握る。水干をかけてある奥座敷に向かいながら、笑い話のように大内氏の話を振る。
「今日はとても珍しいことがあったんですよ」
長倉の歩きながらの会話に、澪月の視線が上がる。
「さっきね、大内様の腕に薬草を塗ってさしあげたんですよ」
小首をかしげる澪月を見下ろして、くすくすと笑いながら続ける。
「小さな噛み傷だったんですけど」
その一言に、澪月の
「あれほどの剣の腕をお持ちの方でも、仔猫には敵わないんですね」
(……仔猫?)
長倉の言葉を胸の内で
「……それ……、俺や」
「えっ?」
「やから、御殿様に噛み付いたんは、俺や」
「えぇっ!」
「やって、知らなかったんやもん」
大きく目を瞠る長倉に、澪月がおそるおそるというように問いかける。
「……怒っとった?」
握り締めた指先が、小さく震えている。長倉の驚いたような声が、澪月の不安を大きくしていた。問う言葉を投げかけながら、それを確認することに怯えるように、澪月の視線が逸らされる。
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