其の十五

 澪月の、今はただ潤むだけの瞳をじっと見つめたまま、揚知客は身じろぎもしない。今にも首筋を引き裂かれそうな距離にいながら、ただじっと澪月を見つめ返す。


 澪月の全てを、自分は知らない。澪月が「殺せる」と言うのなら、それも本当かもしれない。そう思いながら。


 けれど「殺せる」と言いながら哀しげに瞳を潤ませる澪月に、恐れよりも何よりも、哀れさが先にたつ。


「なんで、なんもせんのや?」


 澪月の、言葉尻が震える。


「なんで、逃げんのや?」


 抵抗してくれと、懇願するように。


「あんたは、殺されたいんか!」


 叫ぶように言いながら、その声音には、涙が滲んでいた。


 怒りではない、もっと激しい何かを爆発させて澪月は震えていた。言いたくない、認めたくない何かを吐露しながら、自分自身に怯えるように。哀しみばかりが濃くなっていく澪月の瞳の色に、揚知客の中で何かが噛み合わさる。


 ―― 唯人にはあらず。されど、物の怪にもあらず。


 技芸天の、歌うような言の葉が、揚知客の思いに重なる。


 澪月は自分をわかっていない。きっと、なにひとつ。自分の姿を嘲りながら、自分が何ものであるかは、少しもわかっていない。


 もちろん、揚知客自身、澪月が何ものであるのかは知らない。けれど澪月が言い捨てる、言葉の端々についてまわる違和感は消えない。


 すぐにも壊れてしまいそうな繊細さを持って、折れそうに華奢な肢体で「殺せる」と言い張る。それがどんなに痛々しく他人の瞳に映るのか、それすら気づけずにいる澪月は、投遣りなほど残酷に自分に言い聞かせている。


 自分は「悪しき者」なんだと。


 ―― 唯人にはあらず。されど、物の怪にもあらず。


 薄闇に浮かぶ澪月の、透き通るように白い面差おもざし。伸ばされた指先も、寒々しいまでに白く儚い。赤い妖光が消えた瞳は、灯火を映して蜜色に染まっている。


「……死にたいのは……」


 その瞳を見つめながら、揚知客が、静かに、静かに、言葉を紡ぐ。


「澪月? おまえ自身じゃないのか?」


 瞬時に表情を強張らせる澪月に、揚知客はさらに言葉を繋ぐ。


「澪月には、殺せない」


 その言葉に、確信はなくても、


「澪月は、誰も殺せない」


 今、目の前にいる童子どうじが、自分を殺せるとは、とても思えない。


 揚知客の言葉を肯定するように、向かいに座った長倉も、ぴくりとも動かない。もしもこの場に殺気があったなら、すぐにも澪月を押さえつけるだろう長倉が、ただじっとふたりのやりとりを見つめている。


「もしもその手が、誰かを殺したと言うなら、今、この場で、私を引き裂いて見せればいい」


 告げる言葉の意味とは裏腹に、揚知客の声音は、穏やかに闇に溶けていく。


 揚知客の逸らされない瞳に怖じけるように、澪月の瞳が揺れる。引き裂けと言われながら澪月は、どうすればいいのかわからない。


 伸ばされた指先が、ちりちりと震える。ひっそりと動きを止めていた揚知客の眼差しの色が深まり、白い指先がたゆたうように揺れる。その揚知客の、水が流れるようになめらかな動きに、澪月はきょをつかれたように見入っていた。


 敵と対峙するにはあまりにも無防備に、澪月は揚知客の指先を見つめていた。


 そっと上げられた指先が自分の指先に触れた段になってはじめて、澪月の身体が驚いたようにびくりと跳ね、揚知客の指先を払う。その弾みで、澪月の身体が揚知客から離れる。


 けれどもう澪月には、揚知客に詰め寄るだけの意気地はなかった。胸元で指先を握りこみ、震える身体を宥めるだけで精一杯だった。


「澪月は、誰も、殺していない」


 澱みない揚知客の声音に、澪月の瞳が瞠られる。


 じっと見つめる揚知客の視線に縛られたように、澪月は動けなかった。「何も知らないくせに」と否定したい言葉が、喉元に詰まって、出て行かない。静まり返った空間に、露を含んだ風が、音もなく忍び込んでくる。


(この人は、何を言ってるんだろう……?)


 澪月が当惑したように、ゆうるりと小首を傾げる。癖のない亜麻色の髪が、さらりと風に揺れる。


(この人は、……何も知らない。でも……、)


 幾つもの幻夢がまた、澪月の意識を過る。


 そのほとんどは、意味の成さない光りと色彩の奔流だった。ぐつぐつと煮えたぎるような熱を持った荒波に、ともすれば息苦しさで拡散しそうになる意識を、澪月は必死に集中させる。留まりようもなく走り出す記憶。封印を解いて逆行する光景は、澪月の脳裏を鮮やかに駆け抜けていく。


(俺が、……殺ったんか?)


 誰にともなく、問いかけていた。


(俺やない!)


 心が、叫んでいた。


(俺やないんよ!)


 必死になって否定する自分が、からからと空回りしていた。


 真実は闇の中。残されたのは、血潮に濡れた、じっとりと重い身体だけ。

 だから、自らが手を下したのだと、そう思わざるをえなかった。自分はもともと、普通ではなかったから。


 でも、思い出せるのは、殺戮さつりくの後だけ。


 その瞬間の記憶は、今もない。けれどあの時、あの瞬間、誰が、自分以外の誰が、あの惨事を引き起こせるだろう。その瞬間を、自分は欠片も思い出せない。その、思い出せない全てが、澪月は無性に怖い。自分自身の覚束おぼつかなさに、何もかもが壊れていく。


「やけど……、やけど、俺、……まともやない」


 ゆるゆると首を振りながら、澪月が呟くように言う。苦しげに、切れ切れに、胸の中で膨れ上がるばかりの感情を、押し出すように。強く否定するはずだった言葉が、酷く情けない、震える声に取って代わる。


「でも、澪月は「物の怪」じゃない」


 はっきりと言い切る揚知客の言葉に、澪月がぴくんと息をつめる。


「もしも「あやかし」なら、あの数珠は握れない。経は痛みにしかならない」


 あの、桜の根元。焦げつきそうな熱に取り込まれて、息さえ止まりそうだった、あの時。灼熱に焼かれる皮膚とは裏腹に、身体の芯はぞくぞくとした悪寒に浸されていた。身体は湿ったようにじっとりと重く、指先ひとつ満足に動かせなかった。


 そのなにもかもが、揚知客が唱える経にゆるやかに凪いでいった。

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