其の十六

 思い当たる何かを見つけて、澪月がゆらりと瞳を泳がせる。薄く開いた唇が、物問いたげに震える。そんな澪月を見つめる揚知客の眼差しに、やわらかな笑みが浮かぶ。


「たとえ澪月が人と違った力を持っていたとしても、それは決して「悪いもの」じゃない」


 どんなに問いかけても、見つからなかった答え。どんなに否定したくても、否定する相手さえ見つけられなかった闇の中。


(俺が、……殺ったんか?)


 あの記憶の場所に、答えはなかった。


(俺やない!)


 どんなに叫んでも、答えは見つからなかった。けれど今、揚知客の言葉が、その答えの代わりのように、澪月の胸に届く。


 澪月の瞳は、今はただまっすぐに、揚知客に向けられていた。揚知客の言葉を求めて、自分を納得させてくれとねだるように。


「一緒にいる理由が欲しいなら、帰る場所がないもの同士で良いだろう?」


 出逢いのその時から、ずっと変わらない、優しい声音。


「私も長倉も、この身以外、何もない」


 この人は、自分を傷つけたりしない。


 どうしてそう思ったのかは、今もわからない。けれど、その胸の内にあるだけの不確かな思いを信じたくて、澪月が縋るような瞳をする。その瞳に、揚知客が笑いかける。それは、冷え切った肌にぬくもりを滲み込ませるような、暖かな笑みだった。


「だから、一緒に暮らそう」


 深い傷を負ったままの心で、ひとりで生きるのは寂しすぎるから。


「何も、話さなくていいから」


 せめて、その心の痛みが、薄らぐまで。


 今にも泣きそうに潤んだ瞳が、ふいと逸らされる。力一杯握り締めた拳が、震えている。


「……なんで……」


 こくりと喉を鳴らして……、


「……なんで……、なんも聞かんのや?」


 澪月が、搾り出すように、問いかける。


「聞く必要はない」


 揚知客の躊躇いのない応えに、澪月は言葉を失う。


「澪月は、きっと、桜に魅入られたんだよ」


 どこかうっとりと、揚知客が言う。


「澪月は桜の木の、根元にいた。まるで今しがた、生まれたみたいにね」


 淡く笑んだまま、続ける。


「その木は、里の人たちに天人桜てんにんざくらと呼ばれている木だった」


 それは桜の里、吉野の中にあって、もっとも長寿の老木と言われている、枝垂れ彼岸桜。


「桜の神木が、澪月に寄り添っていたんだよ」


 ゆっくりと言葉を紡ぐ揚知客を、澪月は瞳を大きく瞠ったまま、見つめていた。


 そして、その瞬きを忘れた瞳から、ぽたり、ぽたりと、透明な雫が溢れ出す。その雫は、すべらかな頬を伝い、細いおとがいを辿り、震える拳に零れ落ちる。


「……俺……」


 ぽたぽたと涙を零しながら、澪月は言葉を飲み込む。唇を噛み締め、両手で顔を覆い、しとねに突っ伏す。白い褥の真中で、一輪の桜が、かたかたと小刻みに震える。薄紅の袂に頬を埋めて、小さく小さく縮こまって震えている。


「もう、大丈夫だから」


 幼い仕草で泣く澪月の頭を、そっと撫でる。


「もう、何処にも行かなくていいから」


 優しい言の葉が、この上もなく甘やかな声音に乗せられる。


「澪月は今、生まれたんだよ」



 遠い記憶。近い記憶。幾多の記憶に紛れ込む、沢山の哀しみ。


 あまりに早すぎた時の流れの中に、澪月の心だけ、おいてきぼりにされていた。心が何かを知る前に物事は流れて、何もかもがただ、通り過ぎていった。


 父母を殺された寂しさを、慰めてくれた乳母めのと夫婦。その乳母めのとを切り裂いた、夜盗たちの群れ。乳母まで失った絶望的な孤独を、思い返す余裕さえなく見せ付けられた惨劇。怖くてたまらなかった、夜盗たちの下卑た笑い。血まみれだった自分の身体。ぬるりとした感触に、身体中が粟立った。


 けれど今、揚知客の言葉が、澪月を泥濘ぬかるみの中から救い上げようとしていた。


 ―― 澪月は、誰も、殺していない。


 その言葉に、確信なんかなくても。


 ―― 澪月は、桜に魅入られたんだよ。


 その言葉を、信じることは難しくても、今は、今だけは、その言葉に縋らせて欲しい。今だけでいいから。



 旅立ってからずっと……、ずっとずっと怖かった。何もかもが哀しかった。でも、そうと認めてしまったら、もう一歩も動けなくなる。だから、絶対に泣くものかと誓っていた。でも、でも、本当は……。



 堪えに堪えていた、熱い塊が、やっと澪月の胸の中から搾り出された。


 ―― 母上


 もう、我慢することはない。


 ―― 父上


 自分はもう、あの国には帰らない。心をだまして、人々をべる必要もない。


 ―― 母上、……父上!


 何もかもが流れていく。小さな身体から、何もかもが、押し流されていく。


 ―― 澪月は、今、生まれたんだよ。

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