第2話:なぜか一人暮らしの彼女の家に行くことに
その太田さんが突然、「会社を辞めた」と。自分が知る限り、何の前触れもなかったはず。
それを知った僕の感想は、「えっ、ちょっと待って、それはさすがにダメじゃん!」というもの。だって、彼女とはLINEのIDを交換しておらず、私用のケータイの番号こそ知ってるけれど、それはあくまで緊急連絡先として。
だから、ここで同僚という身分を手放したら、彼女とのつながりは切れてしまう。仕事がなければ、その姿を眺めることすらできなくなってしまう。
それを認識した途端、急激に何かしないとマズイという気持ちが吹き出してきた。明らかに、いつもの自分とは違う行動だけど、そういう時ほど自覚できないものだ。
慌ててPCを落として、オフィスを飛び出した。歩きながらスマホを取り出し、かろうじて知っていた私用の番号をアドレス帳から呼び出す。一瞬、躊躇ったけれど、これも緊急事態だと思い直した。
コールボタンをタップし、しばらくすると、「もしもし」と声がする。聞くだけでいつも気分が上がる声。僕は前置きもなしに話しだした。
「メール見たよ。今日で退職なんて急すぎ。びっくりしたんだけど」
「驚かせてすみません。でも、今日が最終出社だから、こういうタイミングになっちゃったの」
先輩の俺に対して、彼女はだいぶ砕けた話し方をする。1年程度の年次の違いなんてないに等しいし、その方が僕も嬉しいから。
「残業してたんだけど、驚きすぎて会社を飛び出してきちゃったよ」
「えー、そこまで驚くことですか(笑)。仕事はちゃんと終わったんですか?」
僕の無様さに小さく笑う太田さんの声は、思っていた以上に明るかった。
「それは大丈夫。ちょうど終わらせたタイミングだったから」
「例のムチャ振りするクライアントですか? いっつも定時間際に連絡してくるっていう」
微妙に話を退職のことから逸らす彼女に乗っかって、僕もクライアントへのグチを一席。でも、そんな話がしたいわけじゃない。これまでの恨み辛みの数々を面白おかしく語り終えると、改めて本題に切り戻した。
「それでさ……。メールの件だけど、本当に会社辞めたの? 急すぎない?」
「はい。実は前々から転職を考えてはいたんです。事情もあって人事部には退職を伏せてもらってたんで、急に見えちゃいますけど」
「えー、全然そんなそぶりもなかったじゃん」
「まあ、熱心に転職活動をしていたわけじゃないので。たまたま知り合いに声を掛けられて、それでいい機会だなと思って」
「じゃあ、次の会社も決まってるんだ」
「はい、来月の一日からそっちで働きます」
「あー、そうなんだ……。もう決めちゃってたんだ」
彼女がすでに、諸々の決心と手続きを終えていて、次の一歩を踏み出そうとしていることがわかると、僕はそれ以上言葉を継げなかった。
数秒間、お互いに無言が続いた。彼女の心に届く言葉が何かないかと、かろうじて声を絞り出す。
「少なくとも僕と一緒にやっていた仕事は、楽しそうだったのに。あのパイロットプロジェクト、すごく良い形でゴールできてたし」
「あれについては、いろいろお願いしちゃって、ホントに助かりました」
「上の方も、当然あれをもっと大きくすることを期待してるから、次はもっとやりやすくなるはずだよ。いろいろできることも増えるんじゃないの」
「そうですよねー。うちみたいな会社でも、もっとできることがあると思うんですよね」
先日まで、彼女は新たなマーケティング施策を提案し、そのパイロットプロジェクトを担当していた。責任者こそ、マーケチームの上司の名前になっていたが、実質的に彼女がリーダー。そのプロジェクトには、彼女から施策の具体化にあたって相談を受けていたこともあって、僕もサポートをしていた。
そこでは、企画の練り込み、施策の精緻化のため、太田さんと膝をつき合わせて議論をした。これまでやったことがない取り組みを、小規模ながら成功させたことで、彼女の評価は上がったし、僕も彼女と戦友と言えるくらいに貢献できた。
打ち合わせを兼ねて社員食堂でランチしながら話したし、作業が難航して残業になった時はデリバリーのピザをかじりながら議論したこともあった。一緒に行った外注先との打合せが長引き直帰になったときは、二人だけで晩飯を食ったこともある。
彼女が仕事に求めていること、何を成し遂げたいのかを、社内では僕が一番に理解している自信がある。
だから、彼女との距離感のことも忘れて、遠慮せずにストレートな気持ちが出てきてしまった。
「何か嫌なことでもあった?」
「うーん……」
「ホントは引き留めるつもりで電話したんだ。でも、次の会社も決まってるなら、それはさすがに無理そうだってのはわかった。だけど、会社で何かあったんだったら、それは聞いておきたい」
「まあ、あったことはあったんですけど……」
「あれだけのことをやった人が、辞めるような原因が社内にあるなら、それは知っておきたいんだ。そうじゃないと悔しいし、同じ轍は踏みたくないし」
まくし立てるように言うと、彼女が少し姿勢を正したような気配がした。
「それじゃあ、明日時間あります? 話すなら、直接会って話したいんですけど」
想定外の言葉に、一瞬思考が止まる。えっ、週末に会社の外で、太田さんと会っていいのか? でも、会わないと話ができないという。
「……わかった。場所はどうする?」
「あの……、私の家でもいいですか」
「太田さんの家?」
「そうです。明日の午後ならいつでも大丈夫なので」
「いいの? 休日に会社の人間が家に行っても」
「もう、辞めてますから(笑)」
「そういうことじゃなくって(笑)」
なんだか向こう側に、一方的な余裕を感じる。
「あんまり外では話したくないんですよ」
「わかった。あとで住所メールしといて」
歩きながら電話していたはずが、気がつけば地下鉄の入口近くのオフィスビルのエントランスの脇に立ったまま、1時間近くも話していた。とりあえず彼女とのつながりが切れなかったことに安堵しつつ、この日はまっすぐに帰宅した。
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