第3話:僕と彼女のこれまでと居心地の良い距離感

太田汐里は、新人のときから目立っていた。もちろん、その美貌が大きな要因だけど、すぐに仕事の面でも頭角を現した。


ウチの会社はそこそこ大きく、グループ企業を全部併せれば数万人はいて、本社だけでも新入社員が百人近くになる。そのなかでも、太田さんは一際目立っており、新入社員ということもあって、ウチの事業部に配属されたときから皆にちやほやされていた。


外回りをほとんどしない彼女は、スーツを着ることが少ない。普段の輻輳は、シンプルなブラウスにロングのタイトスカートや、オーバーサイズのジャケットにふんわりとボリュームのあるスカートなど、カジュアルよりだけどラフ過ぎない上品なコーディネートで、いつもオフィスを華やかにしてくれた。


優れていたのは容姿だけじゃない。仕事においても彼女は、与えられたタスクをこなしていき、段々と経験を積み、自分でもいろいろと勉強を続けた。その流れで、学生時代に統計学をかじった僕のところにデータ処理について質問しに来たことがあった。


「スミマセン、立花さん。立花さんって数字に強いって聞いたんですけど」


最初、そんな風に話し掛けられたときは、なんかやっかいな頼まれ事かと警戒した。ちょっと勉強すれば分かるようなアンケートの集計とか、頼み事をしてくるヤツがこれまでにもいたのだ。だけど、彼女の質問は、勉強中の統計学の教科書に出てきた応用問題についてで、僕は思わず椅子に座り直したことを覚えている。


彼女の質問は、それからも度々続いて、どんどんと質問内容は高度になっていった。そのうち、学生時代の教科書を引っ張り出して復習して、彼女の質問に備えるようになっていた。おかげで、彼女の前では、頼れる先輩のままでいることができたと思う。


そんな勉強熱心な太田さんは、20代半ばになるころにはリサーチや企画の手腕だけでなく、ITを使ったトレンドのデジタルマーケティングに長けた、社内でも一目置かれるマーケターになっていた。


その頃から、販促チームの僕と一緒のプロジェクトで組むことも増えてきた。それだけじゃなくて、他の事業部からもいろいろと相談を持ち込まれることもあった。我が社のデジタル戦略を担当しているCTOからも、何かと目を掛けられているらしいと聞いたときは、さすがにビビった。


太田さんがもうちょっと自己顕示欲があって、キャリアアップを考えていたら、きっと金融系とか外資系に勤めて、雑誌で「デキる女」とか「バリキャリ女子」とか言われて、読モをしていたかもしれない。でも、彼女は自分の仕事に集中していた。


彼女に対するやっかみがないわけじゃない。ただ、この事業部は同業他社との競争が激しい。だから、そもそも配属される時点で何かしらの尖ったスキルか、根性か、体力に見込みがある人材が選ばれている。それもあって、内部で足を引っ張り合うようなバカがいないのが、この部署の良いところ。


でも、一度だけ変な噂が流れたことがあったな。太田さんが辞める半年ほど前のことだった。彼女が不倫をしている、相手は社内の上役だ、という噂が出回った。こういった男女のことに関する話は、裏でひっそりと、でも素早く広まるもの。


このときも、目立つ彼女のこととあって、あっという間に広まった。言っとくけど、僕は聞いただけで、他の人間には一切広めちゃいない。ただ、相手の男のことについては、まったく具体名が出てこないという不自然さ。


そもそも、彼女は仕事に勉強に忙しく、普段から残業も多め。それもあって「彼氏作ってる暇がない」と、いつも冗談半分に話していることを、周囲は皆、知っていた。だから、少なくとも事業部にはその噂を信じたヤツはいなかった。


そんなもんだから、噂は程なく「デマ」という共通認識になって、すぐに誰も口にしなくなったという顛末。まあ、当然だね。


その噂が流れた頃は、ちょうどくだんのパイロットプロジェクトも佳境だった。僕と彼女は、ちょくちょく一緒に仕事をしていたけど、お互いにその噂には触れなかった。それは、僕が彼女がそんなことをしないと信じていたからだし、彼女も僕がそんな噂を真に受けるはずがないと信じていたから。


つまりは、僕と太田さんの間には信頼関係があるのさ、と内心で自負していた。


それに、一緒にランチへ行った時に聞いたことがあったんだ。彼女の恋愛観について。その時は、僕と彼女と研修期間中のふたりの新入社員と一緒だった。まだ学生気分が抜けていない新人男子が、ぶしつけに太田さんに言った。


「太田さんって本当に美人ですよね。こんな綺麗な人が普通に会社で働いていたら、モテて困るんじゃないですか?」


「会社は仕事をするところだから、そういうこと基本ないし、私も会社の人はそういう目で見ないわよ」


「でも、学生時代にはたくさん声を掛けられたんですよね?」


「うーん、そうでもないわよ。理由はよく分からないけど、私はあんまり告白とかされなかったかな。それに声を掛けてくる人って、ダメ元でワンチャン狙いみたいな下心が見え見えの人ばかりだったし」


と、バッサリと切って捨てていた。こっちとしては社外の、しかも昼休みというタイミングでホッとした。こんな学生ノリの恋愛話を社内でやらかされたら、たまったもんじゃない。でも、彼女が会社では恋愛をする気がないことを知って、少し安心したのも正直な気持ちだ。

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