第4章 現実の欠片



 一日目──夕刻


 響きの森の境界は、突然で残酷な変化で告げられた。


 一歩前まで、海斗の足元は確かな土で、浮遊する根とクリスタルの葉の優しい音に包まれていた。

 次の瞬間、踏み出した足が触れたのは……「間違った」感触だった。


 脆いわけでも泥濘んでいるわけでもない。

 ただ「違う」。

 固体であり続けるか、それとも液体に変わるか、まだ決めかねているような。


「崩壊平原」

 ミラが境界線ぎりぎりで立ち止まり、告げた。

「ここからは本気で気を張って」


 海斗は眼前の光景を見渡し、背筋に冷たいものが走った。


 果てしなく続く平坦な大地のはずが、数百メートルごとに「亀裂」が走っている。

 地面ではなく、空気そのものに。

 ジグザグに光る線は、まだ落ちていない割れたガラスのようで、

 目が痛くなるような、人間の脳が処理できない色で脈打っている。

 虹ではない。もっと異質な、存在を拒絶する色彩。


 亀裂の周囲では重力が無視されている。

 石が浮き、草が横に生え、枯れた木が逆さまに宙吊りになっている。


「あれは?」

 答えを聞きたくない気持ちが半分あった。


「崩壊の欠片」

 バッグの中のコンペンディウムが、珍しく真剣な声で答えた。

「現実が崩れ始めた地点だ。三百年前、構築戦争で両陣営の建築士が歯止めなく力を使った。

 時間を曲げる要塞、空間を操る兵器、世界の基本法則を破る構造……その結果、世界がひび割れた」


「三百年経っても残ってる?」


「むしろ広がっている。

 毎年数キロずつ崩壊平原は拡大する。

 五十年後には、あの響きの森もここになる。

 二百年後には……アルケアンは残らない。ただの虚無だけ」


 ミラが深く息を吐いた。


「だから慎重に。

 亀裂には触るな。

 近づきすぎるな。

 そして――自分の影が自分と違う動きをしていたら、即座に逃げろ」


「また具体的で恐ろしい……」


「崩壊平原は具体的で恐ろしいことだらけだ」


 二人は氷の上を歩くように慎重に踏み出した。

 海斗は足裏に伝わる不規則な振動を無視しようとした。

 まるで巨大な心臓が地下で脈打っているようだ。


 一番近い亀裂は右に百メートルほど。

 縦三メートルの白青い光の線が脈動し、

 周囲の草は不可能な螺旋を描いて生えている。

 光の中に何か蠢いている。


 海斗は目を逸らした。


「普通なら何日かかる?」

 沈黙を埋めるためだけの質問だった。


「運が良ければ三日」

 ミラ。

「エッセンス嵐が出れば五日。

 新しい亀裂ができて道を塞げば一週間」


「運が悪ければ?」


「着かない」


「素晴らしい楽観主義だ」


「現実主義」


 ミラが決めた隊列で進む。

 先頭ミラ、剣を構えて。

 中央海斗、スケッチブックを開いたまま。

 後方コンペンディウム、空気中のエッセンスパターンを読み取って道案内。


 灰色の空の光――太陽かどうかも不明――が弱まっていく。

 明確な太陽がないため「夕暮れ」という概念が曖昧だ。


「ここで野営」

 ミラが比較的安全そうな場所を指す。

 一番近い亀裂まで二百メートル。

「夜の平原は危険すぎる」


 海斗は二つ返事で賛成した。

 もう一時間前から足が悲鳴を上げていた。


 ✦ ✦ ✦


 野営は想像以上に難しかった。


 ミラはテントを持っていない。

「一人旅の騎士には重すぎる」

 だから即席で。

 ミラが浮いている石(当然浮いている)を集めて風除けを作る。


 海斗は「キャンプ」と呼ぶにはあまりに簡素なそれを疑わしげに見た。


「野宿?」


「冒険者の世界へようこそ」

 ミラが妙に楽しそうに。


「もしくは」

 コンペンディウムが誘うように。

「我らが建築士が仮設シェルターを作ってみるのもいい練習になる」


 海斗はスケッチブックとミラの「キャンプ」を交互に見て、ため息。


「……やってみる」

「失敗してエッセンス枯渇したら二人とも恨むからな」


「承知した」

 二人同時に答えた。


 海斗はあぐらをかき、目を閉じ、イメージを固める。

 大層なものではない。

 直径四メートルの小さなドーム。

 座れる高さで立てない。

 半透明の壁で外が見え、換気も十分。


 指が紙から数ミリ浮いて動く。

 金の線が現れ、驚くほど詳細なブループリントが完成していく。

 寸法、素材(エッセンス構築)、構造強度、荷重分布……


「いいぞ」

 コンペンディウムが静かに。

「君の世界の設計とこの世界の違いを理解し始めている。

 ここでは物理的強度だけでなく、霊的安定も必要だ」


 目を開ける。

 完成した感覚があった。パズルがぴったりはまったときのような。


 掌を地面に押し当て、意志で押す。


 筋力ではなく、意志で。


 胸からエネルギーが流れ、腕を通り、地面へ――


 構造が生まれた。


 突然ではなく、優雅な成長のように。

 金の光が掌から立ち上がり、骨組みを描き、

 壁が泡のように半透明に膨らみ、

 頂点に小さな換気孔。


 二分で完成。


 海斗は両手をついて崩れ、荒い息。


 頭は痛いが、ミラを治したときほどではない。


「悪くない」

 ミラが壁を叩く。

「何時間持つ?」


「朝まで」

 コンペンディウム。

「一時的エッセンス構築は八~十二時間で消える。一晩は十分」


 ミラが這うように入り、床を確かめる。


「快適だ。感心した」


「大袈裟だよ。ただの進化したテントだ」

 でも海斗の口元は少し緩んでいた。

 この世界に来て初めて、

 パニックでも緊急でもなく、

 計画して実行したものを建てた。

 それが心地よかった。


 中は予想以上に快適だった。

 半透明壁は外の亀裂の光を柔らかく通し、

 室内は数度暖かい。


 ミラが残りのエッセンス果実を分け合う。


「豪華な夕食だ」


 八角形の果実を齧る。

 噛むと硬さから柔らかさに変わり、

 苺と煙のような不思議な味。

 体にエネルギーが満ち、肉体疲労が消える。


「これ中毒になりそう」


「やめとけ」

 ミラが顔をしかめる。

「響きの森以外じゃ、一個で騎士の月給だ」


「つまり今俺たちは宝物を食ってる」


「死ぬよりマシ」


 心地よい沈黙。

 壁の柔らかな光と、外の禍々しい輝きに包まれて。


「カイト」

 ミラが静かに。

「さっき言ってたよな。

 自分の世界じゃ、住人に嫌われるアパートを設計して、五十年で壊されるだけだって。

 嫌いならなぜ建築士を続けた?」


 とても個人的な質問だった。


 海斗は果実を転がしながら、長い沈黙。


「……最初は大好きだった。

 大学時代は夢中で描いてた。

 機能だけじゃなく、美しい建物。

 そこにいたいと思わせる建物にしたかった」


 苦い笑み。


「でも業界はビジョンなんて興味ない。

 利益率、工期、失敗しない退屈な設計。

 毎回『想像力が過ぎる』『現実的じゃない』『クライアントが嫌がる』って却下されて……

 いつの間にか、最初に建築を好きになった理由を忘れてた」


 視線を上げ、自分の作ったドームを見る。

 滑らかな光の曲線。

 数学的にも美的にも完璧なアーチ。


「でもこれ……」

 呟く。

「三年ぶりに、心から誇れるものを建てた。

 たとえ一夜限りのテントでも」


 ミラが小さく、温かく微笑んだ。


「だからこの世界が君を呼んだのかもな。

 ここなら、かつて縛られてた制限なしに建てられる」


「もしくは誰かが兵器にしたくて呼んだだけで、俺が勝手に正当化してるだけかも」


「それもあり」


 黙っていたコンペンディウムが口を開く。


「記録として――

 すべての真の建築士は同じところから始まる。

 限界への苛立ちと、単なる機能以上のものを創りたいという渇望だ。

 リサンダー・カインも、かつてこう書いている。

『最良の建築とは祈りの形をした構造――

 我々が望む世界を形にする希望の表現だ』」


「リサンダー・カイン……前に出てきた敵役?」


「昔は敵じゃなかった。

 最も尊敬された大建築士――

 輪廻の橋の設計者、ヴェロリア防衛システムの考案者、

 一世代の建築士に『野心と責任のバランス』を教えた師だった」

 少し間を置いて。

「だが構築戦争は全てを変えた。彼も含めて」


 さらに聞こうとしたとき、ミラが急に身を固くした。

 剣の柄に手。


「外に何か」


 半透明壁越しに見える動き。


 センチネルではない。

 もっと流動的で、もっと「間違っている」。


「コンペンディウム?」


「崩壊異常」

 切迫した声。

「現実の亀裂から生まれる存在。

 生物学的には生きていない。歪んだ現実の構築物だ。

 通常は攻撃的じゃないが――」


 異常がシェルターのすぐ前で止まった。


 はっきり見えた。

 人型だが、毎秒プロポーションが変わる。

 腕が異常に伸びたり、足が短すぎたり、頭が不可能な角度で回る。

 体は目が痛くなる色彩の熱波のような歪みでできている。


 目はないのに、こちらを見ている。


「動くな」

 ミラが囁く。

「強いエッセンス反応に引き寄せられる。

 じっとしてれば去るかも」


 息を止める。

 一秒が一時間。


 異常が首を傾げる――速すぎ、鋭すぎ。

 形が変わり続ける手が壁に触れた。


 触れた瞬間、壁がグリッチした。

 壊れたディスプレイのピクセル化のような、

 だが本物の恐怖。

 海斗の光の壁が歪み、存在しない色に染まる。


「くそ」

 コンペンディウム。

「君のエッセンス構築を汚染しようとしている。カイト、――」


 さらに強く押す。

 壁の一部が溶け、光の粒子が乱れる。


 ミラが飛び出し、剣を抜く。


「カイト、後ろ!」


「待て、普通の剣じゃ――」


 ミラが振り下ろす。

 最後の瞬間、刃に銀の光が宿る。

 剣が異常の体に触れた瞬間、

 ありえない悲鳴――ガラスが喘ぐような。


 異常が後退、体がさらにグリッチ。


「付呪剣?」

 コンペンディウム驚愕。


「将軍がくれた贈り物――私を殺そうとする前に」

 ミラの声は苦い。


 異常は去らない。

 体が膨張し、あるいは分裂し――

 海斗にはもう判断がつかない。歪みすぎて目が痛い。


「コンペンディウム、助言は?」


「現実の亀裂生まれだ。

 通常構造は効かない。

 周囲の現実を安定させる『次元錨』が必要」


「どうやって!?」


「知らん! 標準ブループリントじゃない!

 即興で作れ!」


「次元安定を即興で!?」


 異常が襲う――速すぎて目で追えない。

 ミラが辛うじて受け、衝撃で後ろに吹き飛ばされる。


 海斗は白紙を見つめ、脳が全力疾走。


 次元錨。現実を固定。

 どうやって現実を固定する?


 ――地震国の超高層ビルはダンパーで振動を吸収する。

 次元の振動も同じ原理で吸収できないか?


 指がこれまでで最も速く踊る。

 建物ではなく、複雑な回転幾何学パターン。

 ジャイロのように回る安定点。


 自分が何を描いているか完全に理解していない。

 でも「正しい」感覚があった。


「ミラ、退け!」


 ミラが飛び退く。

 海斗は掌を地面に叩きつけ、ブループリントを放つ。


 光が生まれる――

 物理世界ではなく、その上層に。

 目に見えない目で見た:高速回転する光の模様。

 空気が濃くなり、より「現実」になる。


 異常がその場に触れた。

 絶えず変わる体が、一つの形に強制される。

 歪みが「存在」することを強制される。


 それが嫌だったらしい。


 絶叫――今までで最も絶望的な。

 体が抗うが、カイトの錨が押さえつける。

 ゆっくりと薄れ、元の亀裂へ溶けていく。


 三十秒後、完全に消滅。


 海斗は仰向けに倒れ、荒い息。

 頭が割れそう。

 空中でまだ回っていた次元錨が弱まり、消える。


「……今のは?」


 ミラが駆け寄り、状態を確認。


「大丈夫か?」


「わからん……脳がマラソンした気分」


 コンペンディウムが笑う――感嘆と呆れ半分。


「戦闘中に参考資料なしで四級次元安定器を即興作成。

 ありえない。大建築士ですら何年もかかる――」


「コンペンディウム」

 弱々しく遮る。

「講義は後にしてくれ。頭が割れる」


「すまん。ただ……知的トラウマ級に感動してる」


 ミラが最後のエッセンス果実を差し出す。


「食え。回復が必要だ」


 震える手で食べる。

 体は楽になるが、霊的疲労は残る。


 シェルターは半壊――触れられた部分は完全に消え、残りは今にも崩れそう。

 それでも今夜は凌げる。


「交代で見張る」

 ミラが断言。

「私が先。君は寝ろ」


「こんな状況で寝られるか――」


「寝てみろ」


 体は正直だった。

 横になると五分で意識が遠のく。


 最後に聞いたのは、ミラが小さく歌う声――

 知らない言語の、でも優しい旋律。


 そしてこの世界に来て初めて、海斗は「家」の夢を見た。


 東京の狭いワンルームじゃない。


 大学時代にスケッチブックに描いて、

 一度も実現しなかった家。

 大きな窓、星形の天窓、

 壁のない流れる空間。


 温かい家。


 建てられるのを待っている家。




 NOTE:


 - 隠されたエッセンス:8%(危険水準)

 - 新規ブループリント:[Dimensional Stabilizer Mk.I] ― 状態:不安定、改良必要

 - 遭遇:崩壊異常 ― 生還

 - ヴェロリアまでの残り日数:2.5日

 - 警告:エッセンス残量危険域。長時間休息を強く推奨


 COMPENDIUM観察記録:

「対象カイトは未記録レベルのブループリント適応能力を示す。

 しかしエッセンス貯蔵は浅い――おそらく自然エッセンスのない次元出身のため。

 高位構築を休みなく続ければ霊的疲労、

 最悪はエッセンス・フラクチャー――魂そのものがひび割れる状態に至る。厳重監視を要す。


 追加メモ:対象は故郷への思慕を示している。

 次元転移の心理的影響を軽視すべきではない。

 提案:脆弱さを許容する余地を与え。

 建築士といえども人間である。

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