第3章 浮遊都市への道


 海斗はこれほどジムのトレッドミルが恋しくなるとは思わなかった。


 ――腕時計は奇跡的にまだ動いている――

 すでに42分。灰色の草原を全力疾走し続けている。

 肺が燃える。足は鉛だ。

 なのに、瀕死のはずのミラは、海斗を恥じ入らせるほどの速度で走り続けている。


「どうしてまだ走れるんだ?」

 息も絶え絶えに聞く。


「七歳から騎士の訓練」

 ミラは息一つ乱さない。

「それに今は三体の殺人機械に追われているアドレナリンもある」


 振り返る。――大失敗。

 センチネル三体はまだ追ってくる。距離はもう200メートルもない。

 速くはないが、疲れない、止まらない、休まない。


「執念深いターミネーターだ」

 海斗が呟く。


「ターミネーターは知らないが、声のトーンで同意だ」

 バッグの中からコンペンディウム。

「面白い事実:シュタインレイヒ製センチネルは標的を100km追尾、または標的死亡まで停止しない」


「面白くない!」


「だから『面白い事実』であって『楽しい事実』じゃない」


 ミラが急に海斗の腕を掴み、左へ引っ張る。

「森だ! ここなら足跡を消せる!」


 前方に木々が現れる。

 遠目には暗く不気味な森。

 だが今は、ゴーレムに引き裂かれるよりはマシだ。


 二人は息を切らして森に飛び込んだ。


 ✦ ✦ ✦


 アルケアン森林は、海斗がゲームや映画で見たどんな森とも違っていた。


 樹高は高いのに幹が細すぎる。

 構造的にありえない。風や自重で倒れて当然なのに、傲然と立っている。

 葉は銀青色、無風なのに震え、クリスタルの鈴のような微かな音を立てる。


 さらに異常なのは根。

 地面に刺さっていない。数センチ浮き、ゆっくりと触手のように蠢いている。


「響きの森」

 ミラが囁く。

「木々は空気中のエッセンスを吸っている。霊的エネルギーに極めて敏感。騒がなければセンチネルは追跡しにくい」


「なんで早く言わない!」


「この森は知らなければ人間にも危険だから」

 ミラが真剣に海斗を見る。

「ルール一:根に触るな。二:大規模な魔法を使うな。三:葉が赤く光ったら全力で逃げろ」


「具体的すぎて怖い」


「経験則だ」


 ミラが先導し、慎重に歩き始める。

 浮いた根の間を縫うように。

 海斗も必死に真似る。


 背後でセンチネルの重い足音。

 石が地面を叩く音。

 踏みつけた根が耳を抉るような悲鳴を上げる。


 木々が即座に反応した。


 銀の葉が光り始める。

 まだ淡い青だが、急速に強まる。

 根がより活発に蠢き、苛立っている。


「木を怒らせてる」

 ミラが囁く。

「これは有利」


 確かに。

 一体のセンチネルが浮いた根を踏み抜く。

 瞬間、根が石の足に巻きつき、

 次々と新たな根が湧き、体を縛り、地面へ引きずり込む。

 センチネルは根を叩き折るが、折れた根の代わりに二本が生える。


「響きの木は自分のシステムを極端に守る」

 コンペンディウムが解説。

「人工構築物を脅威と認識する。皮肉なことに、この森は四世紀前に運命建築士たちが植えたものだ」


 残り二体が仲間を助けようとする。

 致命的なミス。

 さらに根が立ち上がり、生きた網となって三体を完全に絡め取る。


 ミラが海斗を引っ張って奥へ。

「今がチャンス」


 慎重に、しかし速く。

 根を避け、息をしているような地面の割れ目を飛び越える。

 センチネルの抵抗音が次第に遠ざかる。


 二十分(まるで一時間にも感じる)後、

 ミラは木々に囲まれた小さな空き地で止まった。

 中央に平らな大石。休憩に最適だ。


「今日はもう安全」

 長い息を吐いて石に腰を下ろす。

「センチネルは抜け出せない」


 海斗も崩れるように座る。

 全身の筋肉が悲鳴を上げている。


「今日は? 明日には抜け出す?」


「根気次第」


「実に安心できる情報だ」


 数分間、二人はただ葉のクリスタル音と、自分の呼吸だけを聞いた。


 ようやく海斗はミラをまじまじと観察できた。

 銀の鎧の胸には、かつて翼付きの獅子に冠をかぶせた紋章があった。

 しかしそれは乱暴に削り取られ、意図的に破壊されている。

 顔色はまだ悪いが、さっきよりはるかに良い。

 自分が作った治癒構造はまだ機能しているらしい。


「さて」

 海斗が沈黙を破る。

「シュタインレイヒのセンチネルに追われる騎士。相当な裏話がありそうだな?」


 ミラがちらりと見て、表情を読ませない。

「命を救われたからって、過去全部を話す義務はない」


「確かに」

 両手を上げる。

「でもヴェロリアまでは一緒にいるんだ。少し知っておくのも悪くないだろ」


 ミラは長いこと傷だらけの手を見つめ、ため息をついた。


「私はかつてシュタインレイヒ第三軍団の隊長だった。

 北の国境を守る精鋭部隊だ」

 軍事報告のような平板な口調。

「三週間前、小さな村を焼き払えと命じられた。

『反逆建築士を匿っている』という理由で」


 海斗の腹に冷たいものが落ちる。


「村ごと……?」


「ヴァルク将軍直々の命令。『誰も残すな。証人も痕跡も一切』」

 ミラは憎しみを込めて繰り返した。

「私は部隊を率いて村へ行った。

 せめて証拠を――禁忌の武器でも陰謀でも、何か正当化できるものを探した」


 拳が震える。


「いたのはただの農民だった。

 家族。田んぼで遊ぶ子どもたち。

 反逆建築士も陰謀もなかった。

 忘れられた国境で静かに暮らすだけの、普通の人々だった」


 結末は分かる。


「私は命令を拒否した」

 苦い笑み。

「正義と名誉を信じていた馬鹿なミラ・カステランは、将軍の命令を拒否し、上層部に報告までした。調査を期待して」


「調査はなかった」


「当然だ。送られてきたのは暗殺部隊」

 腹の傷を指す。

「この槍は、私が自分で鍛えた、弟のように思っていた部下に突き立てられた」


 重い沈黙。


「ごめん」

 海斗の声は小さかった。


「謝らないで。私が選んだ道だ。

 今は結果を受け入れるだけ」

 鋭く海斗を見る。

「次は君だ。

 訓練なしで古典ブループリントを即改変できる異世界の建築士。

 君の話は?」


 海斗は顔を覆った。


「私の話は退屈だ。

 嫌いな上司と退屈な仕事ばかりの平凡な建築士。

 昨夜――私の世界の昨夜――アパートが突然私を吸い込んでここへ」


「召喚された」

 コンペンディウムが訂正。

「異次元召喚儀式だ。

 誰かがアルケアンに建築士を強く欲した」


「誰だ?」

 ミラ。


「それが一千万エッセンスの質問だ」

 コンペンディウム。

「その儀式には膨大な霊的エネルギーと、構築戦争で失われたはずの次元封印の知識が必要。

 できる者はごく少数――しかもほぼ全員が危険人物だ」


 海斗の頭が再び痛む。


「つまり許可なく私を呼んだ危険人物がいて、

 殺人ロボットに追われていて、

 帰る方法は――」


 言葉を切る。


「帰る方法、あるんだよな?」


 コンペンディウムが、三秒だけ沈黙した。


「……理論上は、ある」


「理論上!?」


「輪廻の橋」

 早口で説明。

「三百年前、大建築士リサンダー・カインが作った伝説の構造物。

 異次元へのポータルを理論上開けることができる。

 問題は二つ。

 現在、誰も場所を知らない。

 そして構築戦争が勃発する前に未完成のままだった」


「場所不明で未完成の橋を探せって?」

 海斗は半狂乱で笑いそうになった。

「完璧だ。最高の一日だ」


 ミラが肩に手を置く。

 二人とも驚いた。


「理由もなく瀕死の私を救ってくれた。

 命の借りだ。

 君を帰す方法が見つかるまで、私が手を貸す。

 騎士の約束だ」


 海斗は冗談か社交辞令を探した。

 見つかったのは、絶対の真剣さだけだった。


「……ありがとう」

 最後にはそう言った。

「でも私なんかまだ――」


「義務ではなく正しいことをした。

 今のこの世界で、それは極めて稀だ」

 ミラが薄く、でも確かに微笑んだ。

「それに君の能力なら、すぐに全勢力が狙ってくる。

 剣の扱いを知ってる護衛がいる方が得だろ」


「実に現実的な護衛動機だ」


「私は現実的な騎士だ」


 バッグの中からコンペンディウムがくすくす笑う。


「この掛け合い、好きになってきた。

 作者が自分がドラマを書いてることに気づいてない舞台劇みたいだ」


 返事をしようとしたとき、木々の間から草擦りの音。


 即座に臨戦態勢。

 ミラは剣を抜き、海斗は震える手でスケッチブックを開く。


 闇の中から現れたのは――


 センチネルではなかった。


 身長150センチほどのヒューマノイド。

 細身で、淡い青のニスを塗った木のような肌。

 衣服はなく、苔とクリスタルの葉が直接生えている。

 顔は人間に近いが、瞳のない大きな金色の目が柔らかく光る。


 手に持つのは、光る果実でいっぱいの籠だった。


「ドリュアス」

 ミラが剣を少し下げる。

「森の守人。木を傷つけなければ無害」


 ドリュアスが首を傾げ、

 葉擦れのような声で、言葉を一つずつ区切って話す。


「人間……石の悪から……逃げる?」


 ミラが慎重に頷く。


「はい。森を荒らすつもりはありません」


「君たちは……傷つけない。

 石の悪は……傷つけた。

 森……怒る」

 ドリュアスが近づき、ミラをじっと見る。

「人間の血……シュタインレイヒの鉄の匂い。

 でも魂……暗くない」


「え……ありがとう?」

 突然の魂判定にミラが戸惑う。


 次にドリュアスは海斗を見て――凍りついた。

 金色の目が大きく開く。


「君は……」

 今度は流れるような旋律になった。

「原初の香り……純粋な創造の香り。

 君は……真の建築士?」


 海斗が瞬きする。


「たぶん? まだ新人だけど」


 ドリュアスが跪く。

 驚くべき動作だった。


 籠を地面に置く。


「響きの森は……君を知っている。

 木々が囁く……失われた存在の帰還を。

 暗い意志を持たない建築士を」


「待って待って」

 海斗が両手を上げる。

「俺は――確かに建築士だけど、異世界からで、何を期待されてるか――」


「森は期待しない。

 森は歓迎する」

 籠を押し出す。

「食物。旅のために。

 ヴェロリアはまだ遠い。

 崩壊平原を三日」


 ミラが怪訝そうに見る。


「なぜ私たちに?」


「真の建築士が瀕死の者を救ったから。

 木々は見た。木々は覚えている。

 善は善で返さねば」

 ドリュアスが立ち上がる。

「だが警告を。

 崩壊平原は危険。

 大地は不安定。

 現実が裂けている。

 崩壊の欠片が出現する。

 気をつけなさい」


 それ以上聞く間もなく、

 ドリュアスは闇に溶けるように消えた。

 まるで最初からいなかったかのように。


 海斗とミラは顔を見合わせた。


「今のは……本当にあったよな?」


「……多分」


 コンペンディウムが大笑い。


「素晴らしい!

 響きの森は純粋な意志で構築する『真の建築士』を認識するよう設計されている。

 文字通り君の魂を読み、価値があると判断した。

 こんなことは極めて稀だ」


「つまり魔法の木の試験に合格した?」


「大体そんな感じ」


 ミラが籠を調べる。

 果実は奇妙だ。

 星形のもの、内側から光るもの、籠の上を数ミリ浮くものまで。


「これ食べて大丈夫?」


「エッセンス果実」

 コンペンディウム。

「極めて稀少で栄養価が高い。

 一つで人間は一日満腹、霊的疲労も回復する。

 ヴェロリアの市場なら体重量の金と交換できる」


 海斗は一番普通そうな、青い金属光沢のリンゴのような果実を取って恐る恐るかじる。


 甘さと爽やかさが爆発し、

 蜂蜜のような温かさとミントのような冷たさが同時に広がる。

 同時に、全身にエネルギーが満ち、筋肉の疲労が一瞬で消えた。


「うわ……」

 口いっぱいで呟く。

「すげえ」


 ミラも色が変わる星形の果実を口にし、同じ驚きで目を見開く。


 数分間、二人は久しぶりのまともな食事を黙々と楽しんだ。


「さて」

 ミラが果汁を拭う。

「崩壊平原。三日かかる。準備はいい?」


「この二時間すら準備できてないけど、選択肢はなさそうだ」

 海斗は残りの果実をバッグに詰め込む。

 コンペンディウムが「果物と同居かよ」と文句を言う。


 ミラも立ち上がり、伸びをする。

 動きが明らかに滑らかだ。治癒構造は完璧に機能している。


「一つだけ」

 真剣に。

「ヴェロリアに着いたら、絶対に誰にも『私は建築士だ』と言わない。

 非常時以外は能力も見せるな」


「なぜ?」


「三大勢力が君を殺すか、誘拐するか、

 もっと酷い場合は強制的に味方にするから。

 シュタインレイヒは建築士を憎み、

 ルナレスは偽の預言者にする。

 ヴェロリアは最高額入札者に売る」


「実に歓迎される世界だ」


「選んだわけじゃない。

 でもこれが私たちの世界だ」

 ミラが薄く笑う。

「まあ、今は裏切り者の騎士が護衛だ。

 それなりの価値はあるはず」


「数時間前まで死にかけてた裏切り者騎士」


「細かいことはいい」


 二人は小さな空き地を後にし、

 響きの森をさらに奥へ進む。

 銀の木々が通るたびに優しく震え、

 脅威ではなく、挨拶のように。


 海斗はクリスタルの葉が灰色の光を濾して地面に描く美しい模様を見上げた。


「コンペンディウム」

 囁く。

「この森は四百年前に建築士が作ったって言ってたよな?」


「そうだ。三人の大建築士による共同プロジェクト。

 ヴェロリアへの自然防衛システム。

 史上最高の有機建築の一つだ」


 胸の奥に温かいものが広がる。

 恐怖や混乱ではなく、驚嘆。

 そして――インスピレーション。


 この異世界に来て初めて、

 パニックと帰りたい気持ち以外を味わった。


 可能性を。


「笑ってる」

 ミラが言う。

「会ってから初めて」


「考えてただけ」

 海斗は葉を見上げたまま。

「俺の世界じゃ、住人が嫌がるアパートを設計して、

 五十年で壊されるだけだった。

 ここでは建築士が四世紀生き続ける森を作る。

 ……すごいなって」


「本当に骨の髄まで建築士だな」


「愛する職業に呪われてるんだろうな」


 ミラが今度は本気で笑った。


「じゃあ私たちは同じだ。

 非現実的な騎士の名誉に縛られてる私と、

 建物に取り憑かれた君」


「自殺的な冒険に最適なコンビだ」


「ワインがあれば乾杯したいところだ」


「今はエッセンス果実で我慢しよう」


 心地よい沈黙の中、

 クリスタルのささやきに包まれながら、

 響きの森の果て、そして崩壊平原へと歩いていく。


 二人は知らない。

 頭上で枝がゆっくりと天蓋を作り、

 森の中にいる限り守り続けることを。


 響きの森は自分のものを守る。


 そして木々でさえ完全には理解していない理由で、

 この異邦の建築士は――

 帰ってきたように感じられた。




 NOTE:


 - 隠されたエッセンス:38%(エッセンス果実により回復)

 - 新規ロケーション:響きの森 ― 状態:通行許可承認済み

 - 関係:ミラ・カステラン ― 信頼度:味方(上昇中)

 - 次なる目的地:崩壊平原(到着予定:3日後)

 - 警告:前方に現実の亀裂検出


 COMPENDIUM データベースエントリ #1:

「響きの森は、最良の建築とは住む者と共に生き、

 世界と共に呼吸し、純粋な意志で訪れる者を守るものだという証だ。

 現代のシュタインレイヒ建築士は死んだ石の要塞を築く。

 真の建築士は善を記憶する生態系を築く。」

 ――大建築士ヴァレリウス・カステラン、327 TC(戦争前最終年)

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