第9話 影に宿る名前


翌日。

学校に向かう途中も、胸の痛みは消えなかった。


(昨日の“あの子”……

あれは、いったい……)


頭では「知らない人」と思おうとしているのに、

心の奥がずっと彼女を呼んでいた。


ザワ……ザワ……


胸の奥で、時々、波紋がひとりでに揺れる。


電車の窓に映る自分の目を見つめると、

自分じゃない誰かの涙が流れた気がした。


(……何これ……

私の涙じゃない……)


思わず目をこすったとき。


「おい、大丈夫か?」


隣に立っていたのは暁(あきら)だった。


「顔色悪いぞ。

ほら」


小さなペットボトルの水を押し付けてくる。


「飲めよ。熱もあるんじゃねぇの?」


「……ありがと」


水の冷たさが喉を通ると、胸の痛みが少しだけ薄れた。


あきらは腕を組んで、じっと私を見ていた。


「ほんとに……無理すんなよ」


言いながら視線をそらす。

その言葉は、昨日よりもずっと優しかった。


(あきらって……

なんでこんなに優しいんだろ……)


そんなことを思った瞬間——


——すうっ。


耳の奥で、あの声がした。


『……みず……は……』


(また……!)


視界の端が揺れ、世界が水に沈むように歪む——


「瑞葉!」


あきらが腕を掴んで引き戻す。


胸の奥がじん、と熱くなる。


(……たすけてくれた……?)


しかしその瞬間——


電車の窓に、影が映った。


それは昨日の少女の影だった。

輪郭は薄く、風に揺れる髪だけがはっきりしている。


『……み……ず……は……』


小さな声が震えていた。


私は反射的に窓へ手を伸ばす。


「……あなた……名前……あるの……?」


影は驚いたように揺れた。


『……なま……え……?』


しばらく沈黙。


そして震える唇の形で——

ゆっくり音が生まれた。


『わた……し……

“み……**”……』


途切れた。


でも確かに、何かを言いかけた。


(“み”から始まる……?

私と……同じ……?)


胸が強く跳ねた。


その瞬間、風が車内を駆け抜ける。


——バサッ。


目の前に金色の光がふわっと舞う。


「っ……セラフィア……?」


その場には誰もいない。

でも確かに、女神の“気配”がある。


『……瑞葉……

まだ……聞いてはだめ……』


風に紛れて、かすかな声だけが落ちてきた。


(なんで……?

名前くらい……いいじゃない……)


そう思った瞬間。


ズキィッ!!


胸の奥が悲鳴を上げた。


「っ……!」


膝が折れそうになるところを、

あきらが支えてくれた。


「だから言ったろ……!

本当に、具合悪いんじゃねぇのか……!」


「……あきら……

私……何か……聞いちゃ……」


言いかけたその瞬間。


——ふわっ。


あきらの胸の奥が、また淡く光った。


心臓の奥で小さく震えるような光。


あきらは気づいていない。


でもその光は——

影の少女が言いかけた“名前”に、

反応しているように見えた。


(……あきらの魂……

なんで……震えてるの……?)


胸の痛みの奥で、

何かがゆっくり目を覚まそうとしていた。


『……みずは……

いっしょ……に……』


頭の奥で、影の声が泣く。


その涙に触れた気がして、胸がぎゅっと縮んだ。


瑞葉はそっと胸に手を当てる。


「……あなた……

どうして……そんなに……」


涙がこぼれそうになる。


その横で、あきらが不器用に言った。


「泣くなよ……

なんで泣くんだよ……」


瑞葉は泣きそうな笑顔で言った。


「わかんない……

わかんないけど……

胸が……痛いの……」


風が揺れ。

光が震え。

影が窓の外に滲むように消えていく。


影の最後の口の形は、

まるで——


“み う”


と呼んでいるように見えた。

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