第8話 揺れる魂


家に帰ってきても、胸の痛みは消えなかった。


(……なんで……

どうしてこんなに苦しいの……?)


痛みは、鼓動じゃない。

もっと奥——“心の根っこ”が軋むような痛みだった。


布団にくるまっても、胸の奥がずきずき震える。


そのとき。


——すうっ。


耳の奥に、涙を含んだ声が落ちてきた。


『……みず……は……』


「……っ!」


あの声——森で聞こえた“影”の声だ。

胸の痛みはさらに強まり、視界が一気に暗く沈む。


(やだ……また……来てる……)


足元が消え、世界が水の底に沈むように落ちていく。


気づくと——私は、森に立っていた。


***


木々はざわざわ震えていた。

風は吹いていないのに、枝だけが細かく揺れている。


その中心に、“影”がいた。


昨日よりもずっと、輪郭が人に近い。


小柄な体。

華奢な腕。

長い髪の揺れ。

幼い子のような細い声。


影は震えるように手を伸ばし、泣き声のように呼ぶ。


『……みず……は……

さびしい……』


胸の奥がえぐられるように痛んだ。


(なんで……

こんなに苦しいの……?)


知らないはずなのに、懐かしい。

怖いはずなのに、悲しすぎる。


影は震えていた。


『……ずっと……

さがしてた……』


涙に似た光がぽとり、と地面に落ちる。


私は思わず手を伸ばした。


「……あなた……誰……?

どうして……泣いてるの……?」


影は小さく揺れ、手を伸ばしたまま震えていた。


触れれば、きっと——理由が分かる。


触れてはいけない。

でも触れたい。


胸の奥がせり上がるように揺れる。


影が一歩、近づいた。


その瞬間。


「瑞葉!!」


風を切り裂く声が響いた。


セラフィアだった。


女神は光の中を駆け寄り、私を抱き寄せて引き戻す。


「行ってはだめ!!

今はまだ……触れてはいけません!!」


声が震えている。

涙が混じっていた。


「セラフィア……でも……

この子……泣いてて……」


「だからなのです!!」


セラフィアは珍しく声を荒げた。


「あなたはまだ記憶を思い出していない。

今、あなたと“あの子”が触れれば——

魂が壊れてしまう!」


影がその言葉に傷ついたように揺れる。


『……わたし……

また……きずつけた……?』


その声は、幼い子どもが泣くような震え。


「違う!!

あなたのせいじゃない!!」


私は手を伸ばしたくなる衝動を必死に抑える。


セラフィアは私を抱きしめ、動けなくする。


「お願いです……瑞葉……

今はまだ……だめ……!」


影はかすかに笑った。

悲しい、消え入りそうな笑み。


『……いかないで……

みずは……』


胸が裂けるように痛い。


「……ごめん……

ごめん……

あなたが悲しそうにするの……見てられない……!」


光が弾け、影が薄れていく。


『……また……くる……

みず……は……』


その声は、泣きながら消えていった。


***


ハッと目を開けると——

歩道橋の下に座り込んでいた。


目の前で、暁(あきら)が息を切らして私を支えていた。


「み、瑞葉……!

大丈夫かよ……!」


汗で濡れた手が震えている。

本気で焦っていたのが伝わる。


「あきら……?」


触れられた肩が、不思議なくらい温かい。


胸を締めつけていた痛みが、ゆっくり和らいでいく。


あきらは私の手を握りしめるように言った。


「だから言っただろ、無理すんなって……

倒れるかと思って……

心臓止まるかと思った……」


その声は震えていた。

でも、理由は彼自身も分かっていないようだった。


「なんでかわかんねぇけど……

お前が苦しむの、マジで嫌なんだよ……」


その瞬間——

あきらの胸の奥が淡く光った。


彼は気づかない。

でも確かに、その光は瑞葉の魂と共鳴していた。


(……この光……

どこかで……見たような……)


胸の痛みが波紋のように広がっていった。

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