第7話 生命の排泄
依頼主の部屋で、神山が作業を終え、下着を物色している。
レースのついた布切れを顔に押し当て、深呼吸をした。
「お前も、欲しいか?」
意味が分からない。
生殖器を隠すための布切れを手に入れて、何の得があるのか私には理解できなかった。
中身が入っていない包装紙に、何の価値もあるはずがない。
「不要だ。そんな布切れではなく、欲しいなら女の子宮を摘出したらどうだ?」
「お前……何言ってんだよ。シャワーでも浴びてこい。風呂も入ってないから、相当に匂うぞ。ついでに、歯も磨け。女は旅行で帰ってきやしないからな」
神山に言われて、自分の腕の匂いを嗅いでみた。
皮膚の常在菌が、汗と皮脂を分解した際の酸化臭がする。
人間は、この生きている証とも言える化学反応の臭いを、不快に思うらしい。
シャワー。生命維持とは何ら関係のない無駄な行為。
だが、この職場を去る前の最後のメンテナンスだと思えば悪くないか。
私は作業着を脱ぎ捨て、全裸になった。
内ポケットから札束の入った封筒を抜き取り、浴室に持ち込んだ。
神山という盗人と同室にいる以上、肌身離さず持っておくのが最適解だ。
窓際に金を置き、頭の先から湯を浴びた。
皮膚の上を湯が撫でる。
排水溝に、黒い汚水が渦を巻いて吸い込まれていった。
虚無感に襲われる。
発汗し、自らを汚しておいて、洗い流す。私は今、何をしているのだろうか。
この星の生物は、永遠にこの不毛なサイクルを繰り返している。
◇
身体を拭く。
脱ぎ捨てた作業着は汗と汚れで悪臭を放っている。再度、皮膚に纏うのは非衛生的だ。
私は棚の一番上にあったサイズの合いそうなジャージを手に取り、身につけた。
リビングの方から、荒い息遣いが聞こえる。
「……あぁ、うぅっ……!」
神山が苦しんでいるのだろうか。
私はリビングを覗き込んだ。
そこには、奇妙な光景があった。
神山が、依頼主のベッドに横たわり、下半身を露出させている。
生殖器には、女のレースの下着が巻き付けられていた。神山がそれを握りしめ、必死の形相で小刻みに上下運動を繰り返している。
――単独での摩擦運動。
理解の範疇を超えている。
神山の眼前にあるのは、女の布切れのみ。
遺伝子を残す可能性がゼロであるにも関わらず、
「……あ、出るッ!」
神山の背中が海老反りになり、白濁した液体がベッドシーツに飛び散った。
虚しい生命の放出だ。紡ぐべき命が、ただの排泄物として処理された。
急激なホルモン低下が神山を襲っている。脱力し、天井を見上げていた。
その顔は、先ほどまでの興奮が嘘のように死んでいる。
リビングに踏み込んだ。
「自殺とは、気でも狂ったか?」
私の問いかけに、神山が両眼を見開いた。
「……てめぇ、見たのかよ。自殺? 意味わかんねぇこと言ってんじゃねぇ。でもって、そのピンクのジャージ。てめぇも、結局は同じ性癖してんじゃねぇか」
やはり、こいつとは理解し合えそうにない。
「ここで、業務終了だ。この瞬間をもって、辞める」
「……あぁ?」
神山が気だるげに顔を向けた。まだ片手に汚れた下着を握っている。
「何をだ」
「この仕事だ。これ以上、あんたのような非効率な個体と行動を共にするメリットがない」
神山の表情が強張った。
慌ててズボンを上げ、立ち上がる。
「はぁ? ふざけんな! まだ2日だろうが。それに、辞めるなら筋を通せ。一ヶ月前に申告して、退職届を書くのがルールだ」
「紙切れに何の意味がある。私が自分の意思を持って辞めると告げたんだ。繊維の束にインクを乗せなくても、言語くらい通じるだろう。放出による知能の低下か?」
「てめぇ……! 俺をコケにしてんのか!」
神山が激昂した。
射精直後の虚無感から、攻撃性への急激なシフト。
情緒が不安定すぎる。
神山がキッチンに走り、シンクに置いてあった文化包丁を掴んだ。
切っ先を私に向ける。
その手が震えているのは、怒りか、それとも恐怖か。
「ナメてんじゃねえぞ、星野! 柳田を一緒に埋めたんだ。タダで抜けられると思ってんのか! ぶっ殺すぞ!」
――殺す。
生命活動を停止させるという脅し。
私が人間なら、ここで生存本能が働き、恐怖する場面なのかもしれない。
私は大きく息を吐いた。
「殺して、どうする? 首を落とし、また山に行って、穴を掘るのか。昨夜、あんなに吐いて、嫌がっていたが」
私はその場で横になった。
「首を切断するなら、文化包丁では時間がかかる。まずは首の腱を一気に分断しろ」
「てめぇ……正気か?」
「私は常に正常だ。刃を首に入れたら、そこから全体重を掛けて、垂直に落とせ。それなりの血液が放出されるはずだ。その手に持っているレースの布で切断面を覆うには、やや面積に不足を感じる」
「……狂ってる。狂ってやがる」
神山が後ずさった。
私は立ち上がった。
「さては、包丁の使い方を知らないのか?料理もしたことがないのか?」
神山に近づく。
「来るな……おい、殺すぞ!」
私は、刃を素手で握った。
指先から血が滴る。
「早く、首に当てろ」
「……無理だ」
神山が腰を抜かした。
私は包丁を握ったまま、血が滴る手のひらを眺めた。
包丁を握り直し、振り上げる。
「頼む! 殺さないでくれ!」
神山が失禁した。
尿をトイレで流さない。こいつの知能は乳児と変わらないらしい。
私は包丁をベッドに突き刺した。刃の先に、神山の白濁したタンパク質が広がっていた。
生命を紡げなかった命に対する、私なりのせめてもの弔いだった。
神山を無視して、玄関に向かう。
――背後で神山が倒れる音がした。
♢
ジャージ姿のまま、アパートを後にした。
神山の営業車を盗むわけにはいかないから、徒歩で街を徘徊する。
ブルーの看板に『区役所』の方向を指し示す矢印。
そうか。国家の犬である役所なら、私にふさわしい戸籍を与えてくれるかもしれない。
道ゆく人々の好奇の視線を受けながら、私はただ真っ直ぐに歩みを進めた。
コンクリート剥き出しの役所に到着する。正面玄関の自動ドアを抜けた。
ここでようやく高級な皮が手に入る。
私は両手を大きく広げた。清々しい。星野の皮を捨て、総理の男に取って代わる。
時間の問題だ。
受付カウンターの女に声をかけた。
「戸籍が欲しい」
「戸籍謄本の発行でございますか? それなら市民課でご申請いただけると――」
「そうではない。私に見合う戸籍を作りたい」
女が
「受付です。ご対応をお願いしたいお客様が」
誰かを呼ぶらしい。
所詮、受付では戸籍を用意できないことなど分かっていた。
私はカウンターに腰掛け、何者かを静かに待った。
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