第6話 肉の階級

 ――目覚めた。


 口の中には、昨夜の肉の脂がまだ残っている。


 どうやら、自分の味覚に絶望し、意識を失ったらしい。


 四畳半の殺風景な物置。


 窓からは、隣のビルの壁しか見えない。


 公園のベンチよりはマシだ。風雨をしのげる。


 私はここがどこか分からずに、引き戸を開けた。


 神山がイビキをかきながら、ソファに寝転がっていた。


 雑然とした部屋だ。ソファにローテーブル。不自然なほど大きい壁掛けのテレビ。


 山盛りのタバコの吸い殻が、なぜか珈琲カップに突っ込まれている。正しい用途を知らないのだろうか。


 キッチンには食べかけで腐った弁当と、洗われていない皿の数々。


 実に低能だ。


 ローテーブルから、リモコンを取った。


 テレビを点ける。花束のようなマイクの群れを眼前に、男が何かを話している。


「――だから、増税ではない。そうだな、例えばそう。チャージだと考えたらどうだ? 我が国という高級クラブに居続けたいのなら、相応の対価を支払う。むしろ、当然のマナーだと思うがね」


 どうやら、この国のトップらしい。


 白髪のオールバック。一点の曇りもない仕立ての良いスーツ。その佇まいは、鋼鉄の彫像よりも堂々としている。


 その眼光は、カメラのレンズを通り越し、国民という家畜たちを睥睨へいげいしている。


 私は財布から免許証を取り出した。


 自分がまとっている『皮』――星野聖ほしのさとしという個体のスペックと、画面の男を見比べる。


「総理! 自国を高級クラブに例えるとは、何たる下劣な……国民の嘆きが聞こえませんか!」


 画面外から、下等生物が叫んだ。下等がゆえの感情論。


 総理と呼ばれた男は、眉一つ動かさない。


 マイクの束を握り、薄い唇を三日月のように歪めた。


「羊飼いが、羊の鳴き声で進路を変えると思うか?」


 国会がどよめく。


 総理と呼ばれる男に止まる気配はない。


「国民に必要なのは配慮ではない。徹底的な管理だ。弱者は黙って、私の背中についてくればいい。それが、最も生存率の高い戦略なのだから」


 男が会見を打ち切り、きびすを返した。


 ――圧倒的だ。


 倫理も、共感も、民主主義すらも踏みにじる、絶対的な自信。


 男は知っているのだ。自分がこの群れの『頂点』であり、他はすべて『養分』であることを。


 私は、テレビ画面に手を伸ばした。指先が、画面越しに総理の背に触れる。バチッ、と静電気が弾け、まるで拒絶されたようだった。


 ――欲しい。


 星野のような、薄汚れた作業着の皮じゃない。神山のような、吠えるだけしか能がない奴の皮でもない。


 この国の一億人を『家畜』として従える、この最高級の皮が欲しい。


「おい、星野。お前、テレビにそんなに近づいて、何やってんだ?」


 背後から神山の声が聞こえた。


 私は振り返り、唇を舌先で舐めた。


「どうやったら、私はこの男になれる?」


 神山が目を見開き、やがて大笑いを始めた。何がそんなにおかしいのか、理解すらできない。


「お前、マジかよ」


「本気かどうかを問うているのならば、戦略的に、この男の皮を剥がしたいと考えている。総理になる方法を、教えてくれるのか?」


 神山がソファの上でのたうち回り、涙を流しながら笑った。


 私は無表情のまま、神山が鎮静化するのを待った。


「……いいか、星野。教えてやる」


 神山は乱れた呼吸を整え、煙草を一本、取り出した。


 その目は、憐れむように私を見ていた。哀れなのは貴様だ。


「なれねぇよ。逆立ちしたって、たとえ全裸で地球を一周したって無理だ」


「なぜだ。顔なら変えればいい」


「整形か? ダメだ。顔じゃねぇんだよ……必要なのは、血だ」


 神山がテレビの画面を指差す。


「こいつらはな、生まれた時から上級国民っつう別の生き物なんだよ。親も政治家、爺さんも政治家。東大を出て、財務省に入って、地盤を継ぐ。そういう血統書付きのサラブレッドなんだ」


 ――血統書。

 犬の品種管理に使われる概念か。


「血統さえ、整えれば良いのか?」


「無理だって言ってんだろ。俺やお前みたいな、中卒の野良犬とは種類が違う。どれだけ吠えても、どれだけ噛み付いても、野良犬は永田町の椅子には座れねぇ。精々、保健所で殺処分されるのがオチだ」


 神山は自嘲気味に笑い、コーヒーカップの吸い殻を睨んだ。


「諦めて仕事行くぞ。俺たちは、他人のクソを片付けるのがお似合いなんだよ」


          ◇


 午後の現場は、築五年のワンルームマンションだった。


 ドアを開けた瞬間、異界が広がった。


 天井まで積み上げられたゴミ、ゴミ、ゴミ。


 コンビニ弁当の空き容器、ペットボトル、脱ぎ捨てられた下着、通販の段ボール。


 足の踏み場もない。


 いわゆる『ゴミ屋敷』だ。


 依頼主は、この部屋の住人――二十代の女性だ。


 彼女はブランド物の服に身を包み、香水の臭いをプンプンさせて立っていたが、自分の巣が腐海に沈んでいることには無頓着らしい。


「適当にお願いしまーす。私、彼氏と旅行なんで」


「待て。なぜ、ゴミの中で暮らす?」


「はぁ? 馬鹿にしてんの?」


 女の眉間に皺が寄った。なぜ怒るのか、分からない。


「星野、やめろ。依頼人を怒らせてどうすんだ」


「怒らせるつもりはない。ただ、自ら好んでゴミの中で暮らす人間は、自分自身もゴミだと自覚してる可能性が」


 私は突き飛ばされた。


「これ、鍵! 金払ってるのに、なんなの。本当、ムカつく!」


 彼女は私に鍵を投げ渡すと、憤慨しながら去っていった。


「お前なぁ。依頼人の気持ちが分からないのか?」


「理解できんな。ゴミ屋敷に暮らしているのは、あの女の本能そのものだろう」


「……もういい。さっさと始めるぞ」


 神山が舌打ちをし、ゴミの山に長靴で踏み入る。


 私は、足元に転がるカップ麺の容器を拾い上げた。


 中には、腐って緑色に変色したスープと、何かの幼虫が蠢いている。


 飼育しているのだろうか。


 ふと、自分の置かれた環境も、このカップの中の幼虫に過ぎない気がした。


 猛烈な屈辱が、胃の腑を焼き焦がす。


 テレビの中の総理は、国という牧場を徹底管理し、家畜を導いている。


 なのに、私はどうだ。


 家畜が排出したゴミを、這いつくばって分別している。


 これが、この星の『階級』か。


 同じ人間という種でありながら、ここまで明確な上下関係が存在する。


 私のスペック――知性・身体能力は、あの総理よりも遥かに上だ。


 だが、この社会のシステムにおいて、私は『星野聖』という低スペックなIDに紐付けられている。


 このIDを使っている限り、私は永遠にゴミ処理係だ。


 ――許せない。


 私はカップ麺の容器を握り潰した。


 手のひらの中で幼虫の命が消え、腐った汁が手袋から垂れた。


 神山は『血統』だと言った。


 生まれた瞬間に配られたカードで、一生が決まると。


 非効率極まりないシステムだ。


 優秀な個体が上に行けず、血統だけの無能が上に立つ。そんな群れは、生物学的に見れば絶滅への道を歩んでいるに等しい。


 ――ならば。


 私が修正してやる必要がある。


 私は、ゴミの山を見下ろした。


 この中には、個人情報が記された郵便物や、書類が埋もれているはずだ。


 この女の――いや、もっと多くの人間の情報を『収集』し、利用することはできないか。


 もっと強固な、社会的な信用。


 学歴。職歴。家柄。


 それらを略奪し、継ぎ接ぎして、最強の皮を作り上げる。


 牧羊犬?

 違う。私は狼だ。


 羊の皮を被り、牧羊犬の喉笛を食いちぎる狼こそ、私の目指すべき姿。


「おい星野! 手ぇ動かせ!」


「……あぁ、やるから黙ってろ」


 私はゴミ袋を広げた。


 今に見ていろ。


 私は必ず、このゴミ山から這い上がり、国会議事堂の玉座に座ってみせる。


 この国の全ての人間を統治する。


 その第一歩として、まずは神山を捨てる。

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