四話目 懐かしい響き
詩織さんという、僕の世界の"翻訳者"と出会ってから、季節は静かに巡り、街路樹の葉がわずかに色づき始めていた。僕の世界は、あの日を境に、静かな絵画から、まるで無数の響きがせめぎ合う交響曲へと変貌を遂げた。もちろん、僕の耳が音を捉えるようになったわけではない。けれど、僕の身体が、そして僕の魂が、世界の脈動を「聴く」ようになったのだ。
執筆中の『月のクジラ』は、あの日詩織さんに読んでもらって以来、自分でも驚くほど滑らかに進んでいた。僕の身体が覚えた街の響き、雨の物語、そしてチェロの咆哮。それら全てが、言葉という乗り物を求めて、僕の中から溢れ出してくるようだった。海の底の静寂は、もはや単なる「無」ではなかった。遠い海溝の軋み、海流の囁き、そして主人公であるクジラ自身の巨大な心臓が刻む荘厳なリズム。僕の物語は、僕自身が体感した「響き」によって、確かな生命感を宿し始めていた。
その日も、僕は夜明け前からパソコンに向かっていた。物語が佳境に差し掛かり、その集中力は極限まで研ぎ澄まされていた。しかし、ふと我に返った時、窓の外はすっかり真昼の光に満ちており、そして僕の胃は、苦言の声を上げていた。冷蔵庫を開けてみても、中にあるのは空になったミネラルウォーターのペットボトルと、いつ買ったか思い出せない調味料だけ。創作に没頭するあまり、僕は生きるという、ごく基本的な営みさえ疎かにしていたらしい。
仕方なく、僕はキーボードから手を離し、立ち上がった。上着を羽織り、数年ぶりに日常使いするようになった補聴器をそっと耳にはめる。気休め程度のものではあるが、これがあるだけで、世界が移り変わる。世界との間に一枚、薄いフィルターがかかるような、しかしそれでいて世界と繋がっているような、不思議な感覚になるのだ。
アパートの軋む階段を下り、外に出る。昼下がりの日差しが眩しい。僕は近所のスーパーマーケットへ向かって、ゆっくりと歩き出した。以前なら、ただの移動でしかなかったこの道行きも、今では「響き」を探すためのフィールドワークのような意味合いを持っていた。
トラックが通り過ぎる時の、地面を揺るがす重低音。自転車のブレーキが立てる、金属的な高い振動。子供たちの笑い声が起こす、空気の陽気な震え。それらは未だに僕にとってはカオスであり、時折、頭痛の種になることもあったが、それはもはや、不快なだけのノイズではなかった。これは、世界が生きている証なのだ。この無数の響きの奔流の中から、物語の種を拾い上げる。それが、物書きである僕の新しい日常になっていた。
自動ドアを抜けてスーパーの中に入ると、ひんやりとした空気と共に、さらに複雑な響きの洪水が僕を包み込んだ。カートの車輪が床の上を走る、不規則なリズム。冷蔵ケースのモーターが発する、途切れることのない低い唸り。レジのスキャナーが商品を読み取る、断続的で鋭い振動。人々がすれ違い、商品を手に取り、カゴに入れる。その一つ一つの動作が、微細な響きとなって空間を満たしている。
僕はカートを押し、その響きの海の中を泳ぐようにして進んだ。野菜コーナー、鮮魚コーナー、精肉コーナー。それぞれの場所で、響きの質感が微妙に変化するのが面白い。人々が発する活気、商品の鮮度、それらが見えないエネルギーとなって、僕の肌に伝わってくる。
パスタとレトルトソース、それから牛乳と卵をカゴに入れ、パンコーナーに差し掛かった時だった。
ふと、視線の先に、懐かしい横顔を見つけたような気がした。
僕より少し背が低く、柔らかなウェーブのかかった髪にポニーテール。棚から食パンを一枚手に取り、そのパッケージを真剣な表情で見つめている。その仕草、少しだけ傾げた首の角度、何かに集中すると僅かに唇を尖らせる癖。記憶の奥底に大切にしまってあった宝箱の蓋が、ゆっくりと開いていくような感覚。
――まさか。
心臓が、バクンと大きく跳ねた。僕が知っている彼女は、まだ制服姿の少女だった。しかし、目の前にいるのは、落ち着いた雰囲気の、大人の女性だ。それでも、面影はあまりにも色濃く残っている。
彼女が、ふと顔を上げた。そして、僕の姿がその瞳に映った瞬間、彼女の時間が、ぴたりと止まったのが分かった。大きく見開かれた瞳が、驚きと、信じられないという戸惑い。そして、確かな懐かしさの色を同時に映し出していた。
「……湊?」
彼女の唇が、そう動いた。音は聴こえない。けれど、僕の名前を呼んだことは、もはや疑いようもなかった。その形を、僕は忘れるはずがない。
僕がこくりと頷くと、彼女は手にしていた食パンを慌ててカゴに戻し、駆け寄ってきた。その数歩の距離が、ひどく長く、そして同時に一瞬のようにも感じられた。
『やっぱり、湊だ!すごい偶然!元気だった?』
彼女は、少し照れくさそうに笑いながら、ごく自然に、その指で言葉を紡ぎ始めた。僕が一番見慣れていた、彼女の流麗な手話だった。
彼女の名前は、櫻田葵(さくらだ あおい)。
幼稚園からの、幼馴染。僕の耳が聴こえないことを、僕自身が認識するよりも前から、彼女は僕の隣にいた。僕が筆談でしかコミュニケーションを取れなかった頃、彼女は誰よりも辛抱強く、僕の拙い文字を読んでくれた。そして、小学校に上がる頃には、僕のために、家族と一緒に手話を覚えてくれたのだ。
彼女にとって、僕が聴こえないことは、ハンディキャップではなかった。ただの「個性」の一つでしかなかった。だから、彼女の前では、僕はただの「相葉湊」でいられた。彼女は、僕の静寂の世界に差し込んだ、最初の光であり、一番の理解者だった。
しかし、そんな僕たちも、同じ高校を卒業し、それぞれの道へ進むことになる。すると、次第に会う機会は減っていった。僕は大学へは行かず、執筆の世界に閉じこもった。彼女は都内の大学に進学したと風の噂で聞いた。携帯電話でメッセージをやり取りすることはあっても、それもいつしか途絶え、僕たちは互いの日常から、静かに姿を消していったのだ。
『葵こそ、元気そうだな。綺麗になった』
僕も、少しぎこちない指の動きで、手話で返した。何年も使っていなかったせいで、スムーズに言葉が出てこない。それでも、彼女は僕の言葉を完璧に読み取って、嬉しそうに頬を赤く染めた。
『もう、何言ってるの。湊こそ、なんだか雰囲気が変わったね。少し、大人になった感じ』
僕たちは、スーパーの片隅で、しばらくの間、互いの空白の時間を埋めるように言葉を交わした。葵は大学で福祉を学び、今は市役所でケースワーカーとして働いているという。僕が物書きの真似事をしていると伝えると、彼女は「やっぱりね」と、昔と少しも変わらない笑顔で言った。
『湊は、昔からずっと、国語の成績だけは良かったもんね。作文、いつも褒められてたの、覚えてる?』
そんな他愛もない思い出話をしているうちに、どちらからともなく、もっと落ち着いて話したい、という気持ちが募っていった。僕たちは買い物を早々に済ませ、スーパーの近くにある、小さなカフェに入ることにした。
窓際のテーブル席に、向かい合って座る。コーヒーの湯気が、僕と彼女の間の少しだけ気まずい空気を、優しく溶かしていくようだった。
『本当にびっくりした。まさか、こんな所で会うなんて』
葵が、カップを両手で包み込みながら、筆談用のメモ帳にそう書いて見せた。人前で手話を使うのは、周りの目が気になるだろうという彼女なりの配慮だった。そういう細やかな気遣いができるところも、昔から少しも変わっていなかった。
『僕もだよ。この辺りに住んでるのか?』
『うん、去年の春にこっちに戻ってきたの。湊は、ずっと実家?』
『いや、アパートで一人暮らしだよ。ここから二駅くらい離れたところ』
そんな近況報告が一段落すると、ふと、沈黙が訪れた。それは気まずいものではなく、互いに何を話そうか、たくさんの言葉の中から、最適なものを探しているような。そんな温かい沈黙だった。
先に口火を切ったのは、葵の方だった。
『湊、さっき雰囲気が変わったって言ったけど、本当だよ。昔はもっと……なんて言うか、いつも自分の周りに壁を作ってるみたいだったから。でも、今はなんだか、それがなくなったみたい』
彼女の言葉に、僕は胸を突かれた。壁。その自覚は、僕自身にもあった。聴こえないことを理由に、僕は世界を拒絶し、自分の殻に閉じこもっていた。その壁を、葵はずっとそばで感じていたのだ。そして、その壁がなくなったことにも、誰よりも早く気づいてくれた。
『……そう、かもしれない。最近、少しだけ、世界の見え方が変わったんだ』
僕は、どう説明すればいいか少し迷いながら、ペンを走らせた。そして、自然と、あの店の話に行き着いた。
『最近、不思議なレコード店を見つけたんだ。『月のクジラ』っていうんだけど』
僕は、詩織さんとの出会いから書き始めた。彼女が僕に、音を言葉で表現してくれたこと。クジラの声が「満月の光みたいな音」と表現してくれたこと。そして、店の奥にある『クジラのお腹』で、チェロの音楽を、全身で「聴いた」こと。
我ながら、あまりに突拍子もない話だと思った。耳の聴こえない僕が、音楽に感動したなんて、誰が信じてくれるだろう。しかし、葵は僕の言葉を一言一句、真剣な眼差しで聴いてくれていた。時折、驚いたように目を丸くしながらも、決して疑うような素振りは見せなかった。
僕が、詩織さんの言葉を借りて「ノイズの中にだって、物語は隠れてる」と書いた時、彼女は小さく息を呑んだように見えた。
『すごい……。その、詩織さんっていう人、すごい人なんだね』
葵は、感嘆の声を漏らすように、そうメモに書いた。
『うん。彼女は、僕の世界を根底から変えてくれた。僕に、新しい言語を教えてくれたようなものなんだ。身体で聴くっていう、全く新しい言語を』
『身体で聴く言語……』
葵は、その言葉を反芻するように、じっと見つめた。そして、何かを決心したように顔を上げ、僕の目をまっすぐに見て、ペンを走らせた。
『ねえ、湊。そのお店、私も行ってみたいな。湊が体感したっていう音楽、私も……あなたの言葉だけじゃなくて、私も感じてみたい。湊が見つけた新しい世界を、少しだけ、見せてくれないかな』
その言葉に、今度は僕が息を呑む番だった。
葵は、僕の物語を読みたいのではなく、僕が体験した「響き」そのものを、共有したいと言ってくれている。それは、僕が詩織さんと分かち合った体験とは、また少し違う意味を持つように思えた。
詩織さんが、僕を静寂の世界から、響きの世界へと導いてくれたのだとすると、葵は、僕の過去と現在を繋ぎ、その変化の全てを肯定しようとしてくれている。彼女は、僕が自分の殻に閉じこもっていた頃の、孤独な「相葉湊」を知っている。そして今、新しい世界に足を踏み出した「相葉湊」をも、知ろうとしてくれているのだ。
僕の胸に、暖かく、そして少しだけ切ない感情が込み上げてきた。
『……もちろん、いいよ。一緒に行こう』
僕がそう書くと、葵は、心の底から嬉しそうに、花が咲くように微笑んだ。それは、僕が知っている、少女の頃の彼女の笑顔そのものだった。
『ありがとう!楽しみだな。じゃあ、今度の日曜日なんてどう?』
僕たちは、その場で次の約束を取り付けた。連絡先を交換し、カフェを出る頃には、空は柔らかな夕暮れの色に染まり始めていた。
『じゃあ、またね』
別れ際、葵は手話でそう言うと、小さく手を振って駅の方へと歩いていった。その背中が見えなくなるまで、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。
過去との予期せぬ再会。それは、僕が詩織さんと出会って築き上げてきた、新しい世界の秩序を、少しだけ揺るがす出来事だった。
詩織さんが開いてくれたのは、未来へと続く扉だった。そして今日、葵がノックしたのは、僕が固く閉ざしていたはずの、過去へと続く扉だ。
この二つの扉が、僕の目の前で同時に開かれようとしている。
葵は、あの『クジラのお腹』で、何を聴き、何を感じるのだろうか。そして僕は、僕の過去を全て知る彼女の隣で、あの響きを聴いた時、何を思うのだろうか。
帰り道、僕はスーパーの袋の重みを心地よく感じながら、アパートへの道を歩いていた。世界の響きは、相変わらず僕の周りで鳴り続けている。しかし、その交響曲の中に、今日、一つだけ新しくて、そして、ひどく懐かしい音色が加わったような気がした。
それは、僕の物語が、また新しい章を迎えようとしていることを告げる、静かであるが、確かな希望の前兆だった。
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