番外編 詩織視点

 この店は、音の揺りかごだ。あるいは、物語の墓標かもしれない。壁一面を埋め尽くすレコードジャケットは、一つ一つが声なき語り部。その四角い沈黙の中に、幾千ものメロディと、それに寄り添った人々の記憶が眠っている。私はここで、その声なき声に耳を澄ませるのが好きだった。

 

 私の名前は、月島詩織(つきしま しおり)。この古びたレコード店『月のクジラ』で働きながら、時折、音楽についてのエッセイを書いて暮らしている。古い紙とインク、そして微かな埃が混じり合ったこの店の匂いが、私の肌には一番しっくりと馴染んだ。

 

 その日の午後、通り雨が街路を洗い清めた後だった。湿ったアスファルトの匂いが、開け放ったドアから流れ込んでくる。私はカウンターの奥で、書きかけのエッセイに手を入れていた。テーマは「静寂の音楽」。音が鳴りやんだ後の余韻や、楽譜に記された休符が持つ豊かさについて。言葉を紡いでは消し、消しては紡ぐ。音を言葉に翻訳する作業は、いつも難しく、そしてこの上なく楽しかった。

 

 カラン、とドアベルが鳴るはずの場所で、微かな振動が空気を揺らした。顔を上げると、雨上がりの光を背負って、一人の青年が入ってきた。私より少し年下だろうか。線の細い体に、少し色の薄い髪。その佇まいは、まるで世界との間に一枚、薄いガラスの膜があるかのようだった。まるで彼は、この音で満ちた空間に迷い込んだ、一羽の鳥のようにも見えた。

 

 彼は驚いたように店内を見回し、それからゆっくりと、まるで貴重な美術品に触れるかのように、レコードの棚の間を歩き始めた。その静かな足取りは、この場所が持つ空気を乱さないようにという、無意識の配慮からくるもののように感じられた。私は彼の邪魔をしないよう、ただ静かにその姿を目で追った。

 

 ジャズ、クラシック、ロック、ポップス。膨大な音の迷宮を、彼はさまよう。何を求めているわけでもないのだろう。ただ、そこに在るものの気配を、肌で感じ取ろうとしているように見えた。一枚一枚のジャケットを、彼は指でなぞるのではなく、ほんの少し離れた場所から、慈しむように見つめている。その眼差しには、渇望と、そして諦めにも似た静けさが滲んでいた。

 

 やがて、彼の足がある一枚のレコードの前で止まった。深い海の底を描いたような、濃紺のジャケット。中央で、一頭のクジラが月に向かって浮かんでいる。タイトルは『鯨の詩』。私も特に気に入っている一枚だった。彼はそのレコードをそっと両手で持ち上げると、食い入るように見つめ始めた。その真剣な横顔に、私はどうしようもなく惹きつけられた。彼が、そのジャケットの向こう側に、どんな物語を見ているのか知りたくなった。

 

「それ、お好きなんですか?」


 気づけば、自然と声が出ていた。彼は驚いたように肩を揺らし、ゆっくりとこちらを振り返った。その瞳は、少しだけ戸惑いの色を浮かべている。彼の唇が微かに動いたが、言葉にはならなかった。何かを伝えようとして、けれどその手段を見つけあぐねているような、そんなもどかしさが彼の全身から伝わってくる。

 

 私は微笑みかけ、もう一度何かを言おうとした。だが、それよりも早く、彼は俯いてポケットから小さなメモ帳とペンを取り出した。いつものことだ、とでも言うような、少し諦めの含まれた、けれど慣れた手つきだった。

 

 さらさらとペンを走らせ、彼はそのメモ帳を私に見せた。

 

『すみません。耳が、聴こえないんです』


 その文字を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。けれどそれは、憐憫や同情ではなかった。ああ、そうか。だからだったのか。彼を包んでいたあの薄いガラスの膜の正体が、腑に落ちた気がした。音のない世界。この、音で飽和した空間で、彼はたった一人、静寂の中に立っていたのだ。驚きはしたが、それ以上に、彼がこの店に足を踏み入れてくれたことに、何か運命めいたものを感じていた。

 

 私は彼の手からメモ帳をそっと受け取ると、その下に返事を書き込んだ。

 

『そうだったんですね。ごめんなさい。そのレコード、とても素敵ですよね。私も大好きなんです』


 私の少し丸まった文字を見て、彼はこくりと頷いた。その表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。彼は再びジャケットに視線を落とし、それから何かを思いついたように、私の持つメモ帳にペンを走らせた。


『クジラの声って、どんな音がするんですか?』


 胸を突かれた。なんて、まっすぐで、根源的な問いだろう。音を言葉で説明することの無力さは、エッセイを書くたびに痛感している。ましてや、音を知らない彼に、どうすればこの響きを届けられるだろう。

 

 少し考えるふりをして、私は頭の中で必死に言葉を探した。ただ「低く、重い音」だなんて陳腐な説明はしたくなかった。彼が求めているのは、音の物理的な情報ではない。その音が持つ、魂の輪郭だ。そうだ、音を情景として渡せばいい。物語として、手渡せばいいんだ。

 

 この音楽は、どこまでも深く、静かで、そして孤独だ。まるで、光の届かない海の底。でも、そこには絶望だけじゃない。暗闇に慣れた目にだけ見える、月の光のような、一条の救いがある。孤独な魂が、同じ孤独を抱える誰かに向けて放つ、静かで荘厳な呼び声。

 

 私はいたずらっぽく微笑んでみせると、ペンを取った。

 

『うーん、言葉にするのは難しいな……。でも、そうですね……。海の底で、たった一人で見る、満月の光みたいな音、かな』


 書き終えて、彼の顔を窺う。彼は私の書いた文字を、ゆっくりと、何度も反芻するように目で追っていた。そして、はっとしたように顔を上げ、その瞳が大きく見開かれた。届いた。私の言葉が、彼の静かな世界に、小さな波紋を広げたのが分かった。


『素敵な表現ですね。ありがとうございます』


 彼の返事を見て、今度は私の胸が温かくなった。言葉の選び方、その感受性の鋭さ。この人はきっと、私と同じ種類の人間だ。


『よかった。あなた、もしかして、何か書く人ですか?言葉の選び方が、そんな感じがして』


 彼は少し驚いたように目を丸くし、それから少し照れたように頷いた。


『物書きの真似事をしています』

 

『やっぱり!なんだか、嬉しいです。私はここで働きながら、音楽についてのエッセイみたいなものを書いているんです。仲間ですね』

 

 そう書いて、私はぱちんとウインクしてみせた。彼の頬が、ほんの少しだけ緩む。彼を隔てていたガラスの膜に、小さなひびが入ったような気がした。

 

 それから私たちは、しばらくの間、メモ帳を介して音のない会話を続けた。私は次々と彼にレコードを見せては、そこに眠る物語を短い言葉で書き記した。嵐の夜の海のようなピアノソナタ。日曜の朝の陽だまりを編んだようなギター。星々の間を静かに旅するシンセサイザー。私の言葉を通して、彼の瞳の中に、見たこともないはずの音の風景が、いくつも立ち上がっていくのが見えた。彼は、私の言葉を翻訳して、自分だけの音楽を頭の中で奏でているのかもしれない。

 

 ふと、私の指が、ある一枚のレコードを捉えた。モノクロ写真のジャケット。厳しい表情で、一心不乱にチェロを奏でる男。この音楽は、安易な慰めを与えてはくれない。むしろ、聴く者の魂の奥底を抉り、そこにある名付けようのない感情を無理やり引きずり出すような、激しさと深さを持っていた。彼の持つ静かな佇まいの奥に、私は何か、満たされない渇望のようなものを感じ取っていた。この音楽なら、彼の魂に触れることができるかもしれない。


『この人のチェロ、聴いてみてほしいな。きっと、あなたの書く物語に、何かをくれると思う』


 そう書いた。だが、彼の返事は、分かりきってはいたけれど、私の胸をちくりと刺した。

 

『でも、僕には聴こえない』


 その紛れもない事実に、彼の表情がわずかに曇る。私と話している間、彼はそのことを忘れかけていたのかもしれない。そのことに気づいた瞬間、どうしようもない衝動が、私の内側から突き上げてきた。

 

 同情なんかじゃない。ただ純粋に、私が愛してやまないこの美しい世界を、目の前にいる彼と分かち合いたい。彼にも、感じてほしい。音の奔流に身を委ねる、あの魂が震えるような感覚を。

 

 私は何かを決心して、彼の目をじっと見つめた。そして、ペンを置き、ゆっくりと、はっきりと、唇だけで言葉を紡いだ。


 

「――この音、あなたに、聴かせてあげたいな」


 

 あえて声には出さない。でも、私の全身全霊を、その言葉に込めた。私の眼差しが、表情が、この強い願いを彼に届けてくれることを信じて。

 

 彼は、息を呑んだようだった。私の唇の動きを、必死に読み取ろうとしている。確信はないのかもしれない。でも、彼の瞳が、確かに揺れた。彼を覆っていたガラスの膜が、音を立てて砕け散ったような気さえした。彼の静寂の中に、私の存在という、確かな一つの「響き」が生まれた瞬間だったのかもしれない。


 私は、彼が黙って差し出した手に、チェロのレコードをそっと乗せた。ジャケットの男の厳しい表情が、まるで「お前には聴こえるのか」と問いかけているようだった。

 

 彼はレコードを大切そうに抱えると、一度、深く頭を下げて店を出ていった。雨はすっかり上がり、西の空が燃えるような茜色に染まっている。

 

 彼が去った後も、店の中には彼の静かな気配が残っているようだった。今日、この音の揺りかごに、新しい物語の種が落ちた。それはまだ小さく、か細いけれど、きっといつか、美しい旋律を奏で始めるだろう。そんな予感が、雨上がりの澄んだ空気の中に、静かに満ちていた。

 

 私はカウンターに戻り、書きかけのエッセイに目を落とす。「静寂の音楽」というテーマが、今や全く違う意味を帯びて輝いて見えた。音のない世界に生きる彼が、これからどんな物語を紡いでいくのか。そして、私が手渡したあのチェロの音は、彼の世界で、どんな「響き」に翻訳されるのだろうか。

 

 窓の外では、夕闇がゆっくりと世界を包み始めていた。街の灯りが、ぽつり、ぽつりと灯り始める。それはまるで、これから始まる新しい物語のための、小さな、希望の音符のように思えた。

 

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