番外編 葵目線
スーパーマーケットの、少しだけ冷えた空気が好きだ。たくさんの家族の、今夜の食卓を彩るであろう食材たち。その一つ一つが放つ、静かな生命力と喧騒。カートを押しながら、色とりどりの野菜や、パックに詰められた肉や魚を眺めていると、自分がこの街で暮らす、無数の人々の営みの中に確かに存在しているのだと、ささやかに実感できる。市役所の福祉課でケースワーカーとして働く私は、日々、様々な「普通」から少しだけはみ出してしまった人々の声に耳を傾けている。だからこそ、こんな風に、誰もが当たり前に享受している日常の風景の中に身を置くと、深く息が吸えるような気がするのだ。
その日も、私は仕事帰りに、明日の朝のための食パンを選んでいた。どのメーカーのものが一番柔らかいか、成分表示を睨みながら吟味する。そんな、ありふれた日常のワンシーン。ふと、視線を感じて顔を上げた、その時だった。
時間が、止まった。
正確に言えば、私の時間だけが、ぴたりと音を立てて停止した。
パンコーナーの向かい、パスタソースが並ぶ棚の前で、一人の青年がカートを押して立ち尽くしていた。私を、まっすぐに、射抜くように見つめていた。少し色素の薄い髪。すっと通った鼻筋。何かに驚いたように、わずかに見開かれた瞳。記憶の中にある少年時代の面影と、目の前の青年とが、脳内でうまく像を結ばない。けれど、私の心臓は、頭の理解よりもずっと早く、その答えを弾き出していた。
――まさか。嘘でしょ。
心臓が、ドクン、と大きく跳ねる。彼の唇が、ほとんど音にならない形で、私の名前を紡いだように見えた。違う。彼に音は聴こえない。けれど、私には分かった。彼は確かに、私を認識している。記憶の宝箱の蓋が、勢いよく開け放たれる。制服姿の彼。教室の隅で、一人静かに文庫本を読んでいた背中。筆談用の小さなノートに、少しだけ癖のある文字を書き連ねていた指先。
「……湊?」
私の唇から、ほとんど無意識に彼の名前がこぼれ落ちた。音になったその名前が、スーパーの喧騒に吸い込まれて消える。彼には届かない。分かっているのに、そう呼ばずにはいられなかった。
彼が、こくりと小さく頷く。その瞬間、堰を切ったように、忘れていたはずの感情と、数年分の空白の時間が、濁流となって私の中に流れ込んできた。私が手にしていた食パンを慌ててカゴに戻し、彼へと駆け寄っていたのは、ほとんど反射的な行動だった。
『やっぱり、湊だ!すごい偶然!元気だった?』
数歩の距離を駆け寄りながら、私は自然と指を動かしていた。身体が覚えていた、彼と話すための、私たちの特別な言葉。少し照れくさくて、けれど喜びを隠しきれない私の手話を、湊は少し驚いたような、それでいて懐かしむような瞳で見つめていた。
相葉湊。
幼稚園からの、幼馴染。私の人生の、物心ついた頃の人生のページには、必ずと言っていいほど彼がいた。彼が、他の子と少しだけ違うのだと知ったのは、いつの頃だったか。私が彼の名前を呼んでも、振り返らない。先生がみんなに話しかけている時も、一人だけ違う方向を見ている。けれど、彼がハンディキャップを背負っているのだと、子供ながらに理解した時、私は彼を可哀想だとは思わなかった。ただ、彼が見ている世界を、私も見てみたいと思った。
彼が筆談でしかコミュニケーションを取れなかった頃、私は誰よりも辛抱強く、彼の拙い文字を読み解いた。小学校に上がる頃、母に頼み込んで、一緒に手話教室に通い始めた。新しい言語を覚えるのは、まるで秘密の暗号を手に入れるようで、わくわくした。私と湊だけに通じる言葉。それは、私たちを強く結びつける絆になった。
彼にとって、私が「最初の光」だったのかもしれない。でも、私にとっても、彼は、私の世界を広げてくれた、かけがえのない存在だったのだ。
『葵こそ、元気そうだな。綺麗になった』
少しぎこちない指の動きで、彼がそう返してくれた時、私の頬が、カッと熱くなるのが分かった。昔は、そんなこと、冗談でも言うような奴じゃなかったのに。空白の時間が、彼を少しだけ大胆にさせたのだろうか。それとも、私たちがもう、ただの幼馴染ではいられない年齢になったということなのだろうか。
『もう、何言ってるの。湊こそ、なんだか雰囲気が変わったね。少し、大人になった感じ』
それは、お世辞でも、その場しのぎの言葉でもなかった。本当にそう感じたのだ。昔の彼は、どこかいつも、自分の周りに見えない壁を築いているような、そんな張り詰めた空気を纏っていた。静寂の世界に一人で閉じこもり、誰かがその壁に触れることを、ひどく恐れているような。その壁は、時として私でさえ、近づくことを躊躇させるほど、高く、そして分厚いものだった。
けれど、今、目の前にいる湊からは、その壁が、綺麗に取り払われているように感じられた。もちろん、彼が纏う静かな空気は変わらない。けれどそれは、拒絶の静けさではなく、世界と調和しているような、穏やかで、満たされた静けさに見えた。
私たちは、スーパーの片隅で、互いの近況を拙い手話で語り合った。私が大学で福祉を学び、今はこの街の市役所で働いていること。彼が大学には行かず、物書きの仕事をしていること。「やっぱりね」と私が笑うと、彼は少し照れくさそうに目を伏せた。
『湊は、昔からずっと、国語の成績だけは良かったもんね。作文、いつも褒められてたの、覚えてる?』
昔と少しも変わらないやり取り。それなのに、どこか満たされない。もっと知りたい。もっと話したい。この数年間の空白を、こんな場所で、立ち話だけで埋めてしまいたくない。そう思ったのは、きっとお互い様だったのだろう。私たちは買い物を早々に切り上げ、近くの小さなカフェに入ることにした。
窓際のテーブル席。コーヒーの湯気が、私たちの間の、少しだけぎこちない空気を優しく溶かしていく。人目のある場所では、手話は少し目立ってしまう。そのことに気づいた私は、バッグからメモ帳とペンを取り出した。彼も、心得たように頷く。その細やかな気遣いが、昔から少しも変わらない彼の優しさだった。
『本当にびっくりした。まさか、こんな所で会うなんて』
私がそう書くと、彼は『僕もだよ』とペンを走らせる。近況報告が一段落し、ふと訪れた沈黙。それは気まずいものではなく、次に何を話そうか、たくさんの言葉の中から、一番伝えたいことを探しているような、温かい時間だった。
沈黙を破ったのは、私の方だった。どうしても、聞きたかった。
『湊、さっき雰囲気が変わったって言ったけど、本当だよ。昔はもっと……なんて言うか、いつも自分の周りに壁を作ってるみたいだったから。でも、今はなんだか、それがなくなったみたい』
私の言葉に、彼は一瞬、息を呑んだように見えた。そして、何かを確かめるように、ゆっくりとペンを走らせた。
『……そう、かもしれない。最近、少しだけ、世界の見え方が変わったんだ』
そこから彼が語ってくれた物語は、私の想像を、遥かに超えるものだった。
『月のクジラ』という不思議なレコード店。月島詩織さんという、音を言葉に翻訳してくれる女性との出会い。クジラの声が「満月の光みたいな音」と表現されたこと。そして、店の奥にある『クジラのお腹』と呼ばれる部屋で、生まれて初めて、チェロの音楽を、全身で「聴いた」こと。
突拍子もない、と彼は思っているかもしれない。耳の聴こえない自分が、音楽に感動したなんて、誰が信じるだろう、と。けれど、私は彼の言葉を、一言一句、疑うことなんてできなかった。彼の瞳が、その体験が紛れもない真実であることを、何よりも雄弁に物語っていたからだ。彼は、本当に「聴いた」のだ。耳でなく、その魂で。
『すごい……。その、詩織さんっていう人、すごい人なんだね』
私が感嘆の声をメモに綴ると、彼は力強く頷いた。
『うん。彼女は、僕の世界を根底から変えてくれた。僕に、新しい言語を教えてくれたようなものなんだ。身体で聴くっていう、全く新しい言語を』
――身体で聴く言語。
その言葉が、私の胸に深く突き刺さった。
私は、彼のために手話を覚えた。それが、彼と世界を繋ぐための、最善の方法だと思っていた。私が彼の「翻訳者」なのだと、どこかで自負していたのかもしれない。けれど、湊は、私の知らない場所で、私とは違う、もっと根源的な「翻訳者」と出会い、全く新しい言語を手に入れていた。
そのことに、ほんの少しだけ、チクリと胸が痛んだのは、紛れもない事実だった。寂しさ、と呼ぶには傲慢で、嫉妬、と呼ぶにはあまりに身勝手な、複雑な感情。私が与えられなかったものを、その詩織さんという女性は、いとも容易く彼に与えてしまった。私がずっとノックし続けても開かなかった、彼の心の最も奥深くにある扉を、彼女は開けてしまったのだ。
でも、その感情は、すぐに、もっと大きな、温かい感情に溶けていった。
よかった。
心の底から、そう思った。
彼が、自分だけの力で、新しい世界への扉を見つけ、それを開く勇気を持てたことが、自分のことのように嬉しかった。私が知っている湊は、いつも何かを諦めているような、静かな悲しみを瞳の奥にたたえた少年だった。その彼が今、こんなにも生き生きとした表情で、自分の世界の変化を語っている。その事実が、たまらなく愛おしかった。
だから、気づいた時には、もうペンが動いていた。
『ねえ、湊。そのお店、私も行ってみたいな。湊が体感したっていう音楽、私も……あなたの言葉だけじゃなくて、私も感じてみたい。湊が見つけた新しい世界を、少しだけ、見せてくれないかな』
それは、計算も下心も全くない、私の心からの願いだった。
湊が体験したという「響き」を、私も共有したい。彼が見つけた新しい言語を、私も学んでみたい。そして、彼が乗り越えてきた壁の、その向こう側にある景色を、この目で見たい。過去を知る私だからこそ、彼の変化の大きさを、誰よりも深く理解できるはずだ。そして、その変化を、誰よりも強く肯定してあげられるはずだ。
私が彼の「最初の光」だったのなら、今、彼を照らしている新しい光が、どれほど眩しく、温かいものなのかを、この身体で感じてみたかった。
私の言葉に、今度は湊が息を呑む番だった。彼の瞳が、少しだけ揺れている。
やがて、彼は決心したように、力強くペンを走らせた。
『……もちろん、いいよ。一緒に行こう』
その文字を見た瞬間、嬉しさで胸がいっぱいになった。花が咲くように、と湊は思ってくれたかもしれない。まさに、そんな気持ちだった。閉ざされていた過去と、今、目の前で輝き始めた現在が、確かな一本の線で結ばれたような気がした。
『ありがとう!楽しみだな。じゃあ、今度の日曜日なんてどう?』
私たちは、その場で次の約束を取り付け、新しく連絡先を交換した。カフェを出る頃には、空は柔らかな夕暮れの色に染まっていた。彼と別れ、一人で歩く帰り道。スーパーの袋の重みが、今日の出来事が夢ではなかったことを教えてくれる。
湊は、詩織さんが「未来への扉」を開き、私が「過去へと続く扉」をノックした、と言っていた。
そうかもしれない。私は、彼の過去の象徴だ。彼が壁の内側で、一人で膝を抱えていた頃の、孤独な時間と静寂を知っている。だからこそ、怖いのかもしれない。私と会うことで、あの頃の自分に引き戻されてしまうのではないかと、心のどこかで恐れているのかもしれない。
でも、違うよ、湊。
過去は、今と繋がっている。あなたが一人で耐えてきた静寂の時間があったからこそ、今のあなたは、誰よりも深く「響き」の意味を理解できるんじゃないかな。私がノックしたのは、過去へと続く扉なんかじゃない。あなたが今まで歩んできた道のり、その全てが、今のあなたに繋がっているんだよ、と教えてあげるための扉だ。
詩織さんという人が、あなたを未来へと導く光なら、私は、あなたの足元を照らす、ささやかな光でありたい。あなたがどこから来て、どこへ向かおうとしているのか、その道のりを見失わないように。過去も、現在も、そして未来も、地続きの「相葉湊」という一人の人間の物語なのだと、隣で伝え続けたい。
日曜日の『月のクジラ』。
そこで、私たちは何を「聴く」のだろう。
湊が体感したという、チェロの響き。満月の光みたいな、クジラの声。
私には、どんな風に聴こえるだろうか。
そして、私の隣で、その響きを全身で浴びる湊は、どんな表情をするのだろう。
考えるだけで、胸が高鳴る。
それは、ただの再会の続きではない。空白だった数年間を飛び越えて、私と湊の、新しい物語が始まる、その序曲になる。そんな確かな予感が、秋の澄んだ空気の中に、静かに満ちていくのを感じていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます