フェイク・アフェクションと承認の残骸(明槻ヒカリ 視点)

「――すごい、ヒカリ。今日の君は、完璧だ」


鏡の前で、神宮寺 鏡(じんぐうじ かがみ)先輩が、私の肩を優しく抱いた。

高価な香水の匂いと、彼のよく通る声が、私を安心させる。

今日は、心理学科の中間発表会。

そして、私が「新しい私」として、本当の意味で認められる日。


鏡に映る私は、完璧だった。

先輩が見立ててくれた、知的に見えるセットアップ。

寝不足(研究のせい)を完璧に隠したメイク。

そして、左手の薬指には、彼がくれた指輪が光っている。


「……本当ですか?」

「ああ。君のその『レジリエンス』の理論は、戸塚教授も絶賛するだろう。君は、人の心を癒す、本当の才能がある」


「才能」

その言葉が、私を満たしていく。


(そう、私には才能がある)


あいつ――昏野 睡(くらや しずか)には、分からなかった才能。

あいつは、いつも私を「データ」としてしか見なかった。

私の心の「温かさ」や「揺らぎ」を、冷たい「分析」で切り刻むだけだった。


あの夜のことを、時々思い出す。

神宮寺先輩に言われて、眠っている睡の耳元で、あの「キーワード」を囁き続けた夜。

『忘れて……深く、リラックスする……』


(……あれは、睡のためでもあったんだ)


そう、自分に言い聞かせる。

あいつは、自分の才能に溺れて、周りが見えなくなっていた。

だから、神宮寺先輩が「治療」として、少しだけ「罰」を与えた。

それなのに、あいつは「犯罪」に手を染めた。サーバーをハッキングして、皆の秘密を盗み見た。


(最低)


私があんな「変質者」と付き合っていたなんて、思い出すだけで吐き気がする。

あいつを切り捨てて、本当によかった。

私は今、神宮寺先輩という、この大学で最も優秀で、最も私を「理解」してくれる人の、隣にいるのだから。



「――明槻ヒカリさん。『心的外傷(トラウマ)からの回復(レジリエンス)における、認知的再評価の役割』について。お願いします」


壇上に立つ。

スポットライトが眩しい。

ゼミ生たちの、羨望と賞賛の視線が、たまらなく気持ちいい。

戸塚教授も、満足げに頷いている。


私は、神宮寺先輩と(そして、昔、睡が私にだけ語ったアイデアを元に)完璧に準備したプレゼンテーションを始めた。


「……トラウマ体験とは、単なる過去の出来事ではありません。それは『現在進行形』の脅威として、クライエントの認知を歪め続けます」


私の声は、自分でも驚くほど、自信に満ちて響いていた。

これが、私。

これが、本当の私。

睡の陰に隠れていた、地味な私じゃない。


「……自己肯定感を劇的に改善させたのです」


発表が終わる。

割れんばかりの拍手。

やった。完璧だ。

私は、誇らしげに胸を張り、最前列の神宮寺先輩に笑顔を送った。


質疑応答も、完璧だった。

先輩と準備した「想定問答集」通りだ。

このまま、私の「勝利」で終わるはずだった。


――あの男が、手を挙げるまでは。


「昏野、です。休学中の身ですが、聴講させていただきました」


心臓が、氷水で満たされたように冷たくなった。

なぜ。

なんで、あいつが、ここにいるの。


講義室の後部座席。闇の中に、あの、全てを見透かすような、不愉快な目が光っていた。


「……あ、ありがとうございます」


声が、震えそうになるのを必死でこらえる。


「質問は一点だけです」


あいつは、淡々と続けた。


「……もし、クライエントが、現在進行形で『無自覚な罪悪感(Unconscious Guilt)』を抱えていた場合……その罪悪感が、再評価のプロセスにどのような『干渉』、あるいは『歪み(リグレッション)』をもたらすと想定されますか?」


(……む、無自覚な、罪悪感……?)


何を言っているの?

そんなの、想定問答集にはない。

私が「盗んだ」――いや、「参考にした」睡の理論にも、そんな応用的な話はなかった。


どうしよう。答えられない。


「……例えば、自らが『加害者』であるという事実を、無意識のレベルで『否認(Denial)』し続けているクライエントがいたとして」


あいつが、私を真っ直ぐに見ている。

やめて。そんな目で見ないで。


「その人物のレジリエンス・プロセスは、正常に機能するのでしょうか、と」


そして、あいつは、悪魔のように、あの「言葉」を口にした。


「それとも……そういった罪悪感は、都合よく、記憶から『忘れて』しまえば、問題ないのでしょうか?」


『忘れて』


――あ。

あの夜の記憶が、フラッシュバックする。

眠る睡の横顔。神宮寺先輩の冷たい指示の声。

『忘れて……深く、リラックスする……』

私が、あいつの耳元で、何度も、何度も……。


「あ……」


ダメだ、考えちゃダメだ。

私は、悪くない。

あれは、治療で……。


ガリッ。

気づくと、私は、右手の親指で、左手の薬指の爪を、激しくこすっていた。

私の「癖」。

どうしようもない「罪悪感」を感じた時に、無意識に出てしまう、私だけの「シグナル」。


「ヒカリ……明槻さん。顔色が悪いようですが」


やめて。

その呼び方で、呼ばないで。


「っ……!」

「そ、それは……ケース、バイ、ケース、ですが……」


声が震える。

会場の空気が、変わった。

さっきまでの「賞賛」が、「疑惑」に変わっていくのが、肌で分かる。


助けて、神宮寺先輩!


視線を送ると、先輩は、まずい、という顔で私を睨みつけていた。

違う、そんな顔が見たいんじゃない!


私は、聴衆の「疑惑」の視線に焼かれながら、何も答えられず、ただ、爪をいじり続けることしかできなかった。



あの日から、一週間。

私は、悪夢にうなされていた。

ゼミでは「ヒカリ、あの時どうしたんだ?」「もしかして、昏野の言ってた『加害者』って……」と、陰口を叩かれている。


大丈夫。

今日は、神宮寺先輩の、公開実験の日だ。

先輩が、あいつを完膚なきまでに叩き潰してくれる。

あいつが「異常者」で、私が「被害者」だって、先輩が、あの「奇跡」の力で、皆に証明してくれる。


私は、最前列の隅で、祈るように壇上を見上げていた。

先輩は、完璧だった。

サクラの学生の記憶を、自在に操ってみせる。


(すごい……やっぱり、この人こそが「本物」だ)


先輩が、壇上に、睡を呼び寄せた。


(……! そうよ、先輩! あいつを、皆の前で、叩き潰して!)


私の期待は、最高潮に達した。

睡が、何かを言っている。

「あなたの『右の口角』です」?

何を言っているの、あいつ。


次の瞬間、神宮寺先輩の様子が、おかしくなった。

そして、先輩は、恍惚とした表情で、マイクを握りしめた。


「――はい! 教授!! お分かりいただけましたか!」

「全ては、計画通りです! 昏野 睡は、邪魔だったのです!」

「……え?」


時が、止まった。

今、先輩は、何て言った?


「ヒカリは、最高の『駒』でした! 扱いやすかった!」


こま……?

私が?


「俺が電話で『暗示』をかければ、あいつは、眠っている昏野の隣で、俺の指示通りに動いてくれた!」

「サーバーアクセスも、全て俺が遠隔でやりました!」


うそ。

うそ、うそ、うそ。

睡が、やったんじゃ……。

私を、守ってくれるんじゃ……。


「ヒカリに盗ませた、昏野の『レジリエンス』のデータも最高でした!」

「あ……あ……あああああ……」


声にならない悲鳴が、喉から漏れた。

会場中の視線が、私に突き刺さる。

「駒」

「盗ませた」

「共犯者」


違う。

私は、被害者だったはず。

私は、睡に裏切られて、神宮寺先輩に「理解」されて、守ってもらった、可哀想な、でも、才能のある……。


(……全部、嘘だったの?)


神宮寺先輩が、私を見ていなかったことも。

私が、睡に、取り返しのつかないことをした「加害者」だったことも。

私が、自分の「承認欲求」のためだけに、踊らされていただけの、滑稽な「駒」だったことも。


全てが、暴露されていく。


私は、その場で崩れ落ちた。

遠くで、睡の、あの冷たい目が、私を、神宮寺先輩を、そして、私達を嘲笑したゼミ生たちを、静かに見下ろしているのが見えた気がした。



……それから、どれくらい経っただろう。

大学は、退学になった。

神宮寺先輩は、逮捕された。

私は、「共犯者」として、警察の事情聴取を何度も受けた。


SNSのアカウントは、もちろん削除した。

でも、無駄だった。

私の顔写真も、神宮寺先輩とのツーショットも、中間発表会で狼狽する私の動画も、すべてが「デジタルタトゥー」として、ネットの海に拡散され続けている。


『稀代の悪女』

『承認欲求モンスター』

『駒女(こまじょ)』


私は、実家にも帰れず、都内の安アパートの一室で、息を潜めるように暮らしている。

バイトも、すぐに身元がバレて辞めさせられた。


誰も、私を「承認」してくれない。

誰も、私に「いいね」を押してくれない。

誰も、私を「才能がある」と褒めてくれない。


私は、ベッドの上で、意味もなく、スマートフォンの画面をスワイプする。

新しいアカウントを作っては、キラキラした他人の投稿を眺め、すぐに消す。


(……なんで、こうなったんだっけ)


睡は、私を「冷たい」と言ったけど、本当に冷たかったのは、私の方だった。

神宮寺先輩は、私を「理解する」と言ったけど、彼は私を「利用」しただけだった。


私は、ただ、「すごいね」って、誰かに言ってほしかっただけなのに。


ガリ、ガリ……。

無意識に、爪をこする。

左手の薬指。

もう、指輪はどこにもない。

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アブノーマル・サイコロジー ~無意識(イド)の牢獄に堕ちた君と、虚偽(ミュトス)に溺れた彼女~ @flameflame

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