フェイク・アフェクションと承認の残骸(明槻ヒカリ 視点)
「――すごい、ヒカリ。今日の君は、完璧だ」
鏡の前で、神宮寺 鏡(じんぐうじ かがみ)先輩が、私の肩を優しく抱いた。
高価な香水の匂いと、彼のよく通る声が、私を安心させる。
今日は、心理学科の中間発表会。
そして、私が「新しい私」として、本当の意味で認められる日。
鏡に映る私は、完璧だった。
先輩が見立ててくれた、知的に見えるセットアップ。
寝不足(研究のせい)を完璧に隠したメイク。
そして、左手の薬指には、彼がくれた指輪が光っている。
「……本当ですか?」
「ああ。君のその『レジリエンス』の理論は、戸塚教授も絶賛するだろう。君は、人の心を癒す、本当の才能がある」
「才能」
その言葉が、私を満たしていく。
(そう、私には才能がある)
あいつ――昏野 睡(くらや しずか)には、分からなかった才能。
あいつは、いつも私を「データ」としてしか見なかった。
私の心の「温かさ」や「揺らぎ」を、冷たい「分析」で切り刻むだけだった。
あの夜のことを、時々思い出す。
神宮寺先輩に言われて、眠っている睡の耳元で、あの「キーワード」を囁き続けた夜。
『忘れて……深く、リラックスする……』
(……あれは、睡のためでもあったんだ)
そう、自分に言い聞かせる。
あいつは、自分の才能に溺れて、周りが見えなくなっていた。
だから、神宮寺先輩が「治療」として、少しだけ「罰」を与えた。
それなのに、あいつは「犯罪」に手を染めた。サーバーをハッキングして、皆の秘密を盗み見た。
(最低)
私があんな「変質者」と付き合っていたなんて、思い出すだけで吐き気がする。
あいつを切り捨てて、本当によかった。
私は今、神宮寺先輩という、この大学で最も優秀で、最も私を「理解」してくれる人の、隣にいるのだから。
◇
「――明槻ヒカリさん。『心的外傷(トラウマ)からの回復(レジリエンス)における、認知的再評価の役割』について。お願いします」
壇上に立つ。
スポットライトが眩しい。
ゼミ生たちの、羨望と賞賛の視線が、たまらなく気持ちいい。
戸塚教授も、満足げに頷いている。
私は、神宮寺先輩と(そして、昔、睡が私にだけ語ったアイデアを元に)完璧に準備したプレゼンテーションを始めた。
「……トラウマ体験とは、単なる過去の出来事ではありません。それは『現在進行形』の脅威として、クライエントの認知を歪め続けます」
私の声は、自分でも驚くほど、自信に満ちて響いていた。
これが、私。
これが、本当の私。
睡の陰に隠れていた、地味な私じゃない。
「……自己肯定感を劇的に改善させたのです」
発表が終わる。
割れんばかりの拍手。
やった。完璧だ。
私は、誇らしげに胸を張り、最前列の神宮寺先輩に笑顔を送った。
質疑応答も、完璧だった。
先輩と準備した「想定問答集」通りだ。
このまま、私の「勝利」で終わるはずだった。
――あの男が、手を挙げるまでは。
「昏野、です。休学中の身ですが、聴講させていただきました」
心臓が、氷水で満たされたように冷たくなった。
なぜ。
なんで、あいつが、ここにいるの。
講義室の後部座席。闇の中に、あの、全てを見透かすような、不愉快な目が光っていた。
「……あ、ありがとうございます」
声が、震えそうになるのを必死でこらえる。
「質問は一点だけです」
あいつは、淡々と続けた。
「……もし、クライエントが、現在進行形で『無自覚な罪悪感(Unconscious Guilt)』を抱えていた場合……その罪悪感が、再評価のプロセスにどのような『干渉』、あるいは『歪み(リグレッション)』をもたらすと想定されますか?」
(……む、無自覚な、罪悪感……?)
何を言っているの?
そんなの、想定問答集にはない。
私が「盗んだ」――いや、「参考にした」睡の理論にも、そんな応用的な話はなかった。
どうしよう。答えられない。
「……例えば、自らが『加害者』であるという事実を、無意識のレベルで『否認(Denial)』し続けているクライエントがいたとして」
あいつが、私を真っ直ぐに見ている。
やめて。そんな目で見ないで。
「その人物のレジリエンス・プロセスは、正常に機能するのでしょうか、と」
そして、あいつは、悪魔のように、あの「言葉」を口にした。
「それとも……そういった罪悪感は、都合よく、記憶から『忘れて』しまえば、問題ないのでしょうか?」
『忘れて』
――あ。
あの夜の記憶が、フラッシュバックする。
眠る睡の横顔。神宮寺先輩の冷たい指示の声。
『忘れて……深く、リラックスする……』
私が、あいつの耳元で、何度も、何度も……。
「あ……」
ダメだ、考えちゃダメだ。
私は、悪くない。
あれは、治療で……。
ガリッ。
気づくと、私は、右手の親指で、左手の薬指の爪を、激しくこすっていた。
私の「癖」。
どうしようもない「罪悪感」を感じた時に、無意識に出てしまう、私だけの「シグナル」。
「ヒカリ……明槻さん。顔色が悪いようですが」
やめて。
その呼び方で、呼ばないで。
「っ……!」
「そ、それは……ケース、バイ、ケース、ですが……」
声が震える。
会場の空気が、変わった。
さっきまでの「賞賛」が、「疑惑」に変わっていくのが、肌で分かる。
助けて、神宮寺先輩!
視線を送ると、先輩は、まずい、という顔で私を睨みつけていた。
違う、そんな顔が見たいんじゃない!
私は、聴衆の「疑惑」の視線に焼かれながら、何も答えられず、ただ、爪をいじり続けることしかできなかった。
◇
あの日から、一週間。
私は、悪夢にうなされていた。
ゼミでは「ヒカリ、あの時どうしたんだ?」「もしかして、昏野の言ってた『加害者』って……」と、陰口を叩かれている。
大丈夫。
今日は、神宮寺先輩の、公開実験の日だ。
先輩が、あいつを完膚なきまでに叩き潰してくれる。
あいつが「異常者」で、私が「被害者」だって、先輩が、あの「奇跡」の力で、皆に証明してくれる。
私は、最前列の隅で、祈るように壇上を見上げていた。
先輩は、完璧だった。
サクラの学生の記憶を、自在に操ってみせる。
(すごい……やっぱり、この人こそが「本物」だ)
先輩が、壇上に、睡を呼び寄せた。
(……! そうよ、先輩! あいつを、皆の前で、叩き潰して!)
私の期待は、最高潮に達した。
睡が、何かを言っている。
「あなたの『右の口角』です」?
何を言っているの、あいつ。
次の瞬間、神宮寺先輩の様子が、おかしくなった。
そして、先輩は、恍惚とした表情で、マイクを握りしめた。
「――はい! 教授!! お分かりいただけましたか!」
「全ては、計画通りです! 昏野 睡は、邪魔だったのです!」
「……え?」
時が、止まった。
今、先輩は、何て言った?
「ヒカリは、最高の『駒』でした! 扱いやすかった!」
こま……?
私が?
「俺が電話で『暗示』をかければ、あいつは、眠っている昏野の隣で、俺の指示通りに動いてくれた!」
「サーバーアクセスも、全て俺が遠隔でやりました!」
うそ。
うそ、うそ、うそ。
睡が、やったんじゃ……。
私を、守ってくれるんじゃ……。
「ヒカリに盗ませた、昏野の『レジリエンス』のデータも最高でした!」
「あ……あ……あああああ……」
声にならない悲鳴が、喉から漏れた。
会場中の視線が、私に突き刺さる。
「駒」
「盗ませた」
「共犯者」
違う。
私は、被害者だったはず。
私は、睡に裏切られて、神宮寺先輩に「理解」されて、守ってもらった、可哀想な、でも、才能のある……。
(……全部、嘘だったの?)
神宮寺先輩が、私を見ていなかったことも。
私が、睡に、取り返しのつかないことをした「加害者」だったことも。
私が、自分の「承認欲求」のためだけに、踊らされていただけの、滑稽な「駒」だったことも。
全てが、暴露されていく。
私は、その場で崩れ落ちた。
遠くで、睡の、あの冷たい目が、私を、神宮寺先輩を、そして、私達を嘲笑したゼミ生たちを、静かに見下ろしているのが見えた気がした。
◇
……それから、どれくらい経っただろう。
大学は、退学になった。
神宮寺先輩は、逮捕された。
私は、「共犯者」として、警察の事情聴取を何度も受けた。
SNSのアカウントは、もちろん削除した。
でも、無駄だった。
私の顔写真も、神宮寺先輩とのツーショットも、中間発表会で狼狽する私の動画も、すべてが「デジタルタトゥー」として、ネットの海に拡散され続けている。
『稀代の悪女』
『承認欲求モンスター』
『駒女(こまじょ)』
私は、実家にも帰れず、都内の安アパートの一室で、息を潜めるように暮らしている。
バイトも、すぐに身元がバレて辞めさせられた。
誰も、私を「承認」してくれない。
誰も、私に「いいね」を押してくれない。
誰も、私を「才能がある」と褒めてくれない。
私は、ベッドの上で、意味もなく、スマートフォンの画面をスワイプする。
新しいアカウントを作っては、キラキラした他人の投稿を眺め、すぐに消す。
(……なんで、こうなったんだっけ)
睡は、私を「冷たい」と言ったけど、本当に冷たかったのは、私の方だった。
神宮寺先輩は、私を「理解する」と言ったけど、彼は私を「利用」しただけだった。
私は、ただ、「すごいね」って、誰かに言ってほしかっただけなのに。
ガリ、ガリ……。
無意識に、爪をこする。
左手の薬指。
もう、指輪はどこにもない。
アブノーマル・サイコロジー ~無意識(イド)の牢獄に堕ちた君と、虚偽(ミュトス)に溺れた彼女~ @flameflame
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