第三話 カウンター・トランスと、無意識(イド)の告発
あの日、俺が全てを思い出してから、二ヶ月が経過していた。
俺、昏野 睡(くらや しずか)は、大学の休学手続きを延長し、自室という名のラボ(実験室)に籠城し続けていた。
世間では、俺は「起訴猶予(証拠不十分ながら嫌疑は濃厚)」という扱いのまま、社会的には「黒」と認定された犯罪者だった。
だが、俺の心は、あの日以来、凍てつくほどに冷静だった。
俺は、復讐の準備をしていた。
それは、物理的な証拠集めではない。俺が戦うべきフィールドは、法廷ではなく、彼らの「無意識」だ。
俺は、神宮寺 鏡と明槻 ヒカリに関する、あらゆるデータを収集し、分析した。
幸いなことに、あの二人は「成功者」と「人気者」の仮面を維持するため、SNSでの活動を休学前よりも活発化させていた。
神宮寺は、大学院の研究成果として、自身の講演動画をいくつもアップロードしていた。
ヒカリは、神宮寺の「献身的な彼女」として、日々の充実したゼミ活動や、お洒落なカフェの写真を投稿し続けていた。
俺は、デュアルディスプレイに彼らの動画と写真を無数に表示させ、フレーム単位で再生し、分析を繰り返した。
「……見つけた」
声が漏れる。
何百時間という分析の末、俺は、彼らが「嘘」をつく瞬間の、明確な『癖(シグナル)』を特定した。
神宮寺 鏡。
彼は、自分が絶対的に優位であり、「自信のある嘘」をつく時、必ず、右の口角が平均0.3秒間、左よりも僅かに(コンマ数ミリ単位で)吊り上がる。それは、他者を見下す「嘲笑」の無意識的な発露だ。
明槻 ヒカリ。
彼女は、表面的な嘘(「このケーキ美味しい!」など)は平気でつける。だが、自身の倫理観に関わる「罪悪感」を隠そうとする時――例えば、俺を裏切った直後のSNS投稿で「辛い時期だった」と書いている時――必ず、無意識に、左手の薬指の爪の生え際を、右手の親指でこする。
彼らは、自分の無意識が、俺という「観察者」にすべて漏れ出していることなど、知る由もない。
俺は、集めたデータを元に、一つの「実験計画」を立てた。
その舞台は、来週に迫った、心理学科の中間発表会。
休学生である俺には、本来、参加資格はない。だが、あの権威主義者である戸塚教授は、発表会を「学会のプレリハーサル」と位置づけ、他大学の学生や一般聴講生の参加も(見栄のために)許可していた。
俺は、一般聴講生として、その日、大学へ向かった。
最後に足を踏み入れてから二ヶ月。
キャンパスの空気は変わらない。だが、俺を見る目は変わった。
すれ違う同学科の学生が、俺の姿に気づくと、幽霊でも見たかのように息を飲み、足早に去っていく。
大講義室の後部座席。俺は、目立たないようにフレームの細い眼鏡をかけ直し、静かにその時を待った。
やがて、発表会が始まった。
数人の学生が、緊張した面持ちで凡庸な発表を終えていく。
そして、ついに彼女の名前が呼ばれた。
「――続きまして、明槻 ヒカリさん。『心的外傷(トラウマ)からの回復(レジリエンス)における、認知的再評価の役割』について。お願いします」
ヒカリが、自信に満ちた笑顔で登壇した。
以前の彼女とは、明らかに雰囲気が違う。高価そうなセットアップのスーツに、完璧なメイク。そして、その左手の薬指には、神宮寺から贈られたであろう、華奢な指輪が光っていた。
彼女は、聴衆を一瞥すると、澱みない声で語り始めた。
「……トラウマ体験とは、単なる過去の出来事ではありません。それは『現在進行形』の脅威として、クライエントの認知を歪め続けます。しかし、適切な『認知的再評価』、すなわち、出来事の『意味』を書き換える作業を行うことで、人は驚くべき回復力――レジリエンスを発揮するのです」
聴衆(特に学部生)からは、「おお……」と感嘆の声が漏れる。
戸塚教授も、満足げに頷いている。
だが、俺は、無表情のまま、彼女のプレゼンテーションスライドを凝視していた。
(……やはり、盗んだか)
彼女が今、得意げに語っている理論。
『意味の書き換え(Cognitive Reframing)』と『無意識の防衛機制(Defense Mechanism)』の関連性についてのその考察は、かつて俺が、自室のベッドで、ヒカリにだけ「いつか論文にしたい」と語った、俺自身のオリジナルの仮説だった。
彼女は、俺のアイデアを盗み、それを神宮寺が「指導」という名目でブラッシュアップし、完璧な「彼女の成果」として仕上げさせたのだ。
「……例えば、あるクライエントは、過去の『失敗』を『罰』として認識していました。しかし、それを『学習の機会』として再評価することで、自己肯定感を劇的に改善させたのです」
ヒカリは、完璧な発表を終えた。
会場は、大きな拍手に包まれる。
ヒカリは、誇らしげに胸を張り、最前列に座る神宮寺に笑顔を送った。神宮寺もまた、満足げに頷き返し、その右口角が、僅かに吊り上がったのを、俺は見逃さなかった。
「素晴らしい発表でした、明槻さん」戸塚教授が声を弾ませる。「では、何か質問のある方は?」
数人の学生が、当たり障りのない質問をする。
ヒカリは、神宮寺と「想定問答集」でも作っていたのだろう。すべてに完璧に答えていく。
会場が、彼女の「勝利」を確信した空気で満たされた、その時。
俺は、講義室の後部座席で、静かに手を挙げた。
会場の視線が、一斉に俺に突き刺さる。
空気が、一瞬で凍りついた。
「なんで、あいつが……」
「ヤバい、何を言う気だ……」
ヒカリの顔から、笑顔が消えた。
彼女は、俺の姿を認め、一瞬、狼狽に目を見開いた。
だが、すぐに平静を取り繕い、戸惑う戸塚教授に「……どうぞ」と、質問を促した。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
「昏野、です。休学中の身ですが、聴講させていただきました」
俺の声は、マイクも使っていないのに、講義室の隅々まで奇妙なほどクリアに響いた。
「明槻さん。素晴らしい発表でした。非常に示唆に富む内容です」
「……あ、ありがとうございます」
ヒカリの声が、僅かに上ずる。
「質問は一点だけです」
俺は、あくまで学術的な好奇心を装い、続けた。
「あなたの理論では、『認知的再評価』がレジリエンスの鍵であると。では、もし、クライエントが、再評価すべきトラウマとは別に、現在進行形で『無自覚な罪悪感(Unconscious Guilt)』を抱えていた場合……その罪悪感が、再評価のプロセスにどのような『干渉』、あるいは『歪み(リグレッション)』をもたらすと想定されますか?」
それは、一見すると、非常に高度で、専門的な質問だった。
盗用した知識の表面しか理解していない人間には、決して答えられない、応用的な質問。
会場は、静まり返った。
意味が難しすぎて、ほとんどの学生は、ただ俺とヒカリを交互に見ている。
戸塚教授は、俺の質問の「学術的な鋭さ」に、僅かに目を見張った。
神宮寺は、面白くなさそうに腕を組んでいる。
ヒカリの顔から、血の気が引いていくのが、遠目にも分かった。
「む、無自覚な、罪悪感……ですか?」
「はい。例えば、自らが『加害者』であるという事実を、無意識のレベルで『否認(Denial)』し続けているクライエントがいたとして。その人物のレジリエンス・プロセスは、正常に機能するのでしょうか、と」
俺は、彼女の目を、真っ直ぐに見据えた。
そして、最後の「トリガー」を引いた。
「それとも……そういった罪悪感は、都合よく、記憶から『忘れて』しまえば、問題ないのでしょうか?」
その瞬間。
ヒカリの肩が、ビクッ、と痙攣した。
『忘れて』
あの日、彼女が俺の耳元で囁き続けた、あのキーワード。
俺は、あの夜の彼女の「声色」と「抑揚」を、完璧にコピーして、その単語を口にした。
カウンター・トランス(逆催眠誘導)。
彼女自身が、俺に暗示をかけた時の「トリガー」を、彼女の「罪悪感」と直結させて、無意識に叩き込んだのだ。
「あ……」
ヒカリの脳裏に、あの夜の記憶が、フラッシュバックしたのが分かった。
俺に暗示をかけ、神宮寺の指示を受け、俺を裏切った、あの夜の記憶が。
「そ、それは……ケース、バイ、ケース、ですが……」
ヒカリの声が、震え始めた。
そして、彼女の手が、動いた。
壇上の演説台の下で、隠すようにしながら。
彼女の右手の親指が、左手の薬指の爪の生え際を、激しく、こすり始めた。
俺が特定した、彼女の「罪悪感のシグナル」だ。
「……ケースバイケース、ですか。具体的には?」
俺は、逃さない。
冷静に、畳み掛ける。
「つまり、その、罪悪感が、どのような……ものであれ……認知的再評価は、可能、だと……」
ヒカリは、しどろもどろになりながら、自分が何を言っているのかも分からなくなっているようだった。
彼女の視線は、助けを求めるように、最前列の神宮寺へと泳ぐ。
神宮寺は、まずい、という表情を浮かべ、ヒカリに「落ち着け」と目配せを送っている。
だが、その彼の右口角もまた、苛立ちと嘲笑によって、僅かに吊り上がっていた。
「ヒカリ……明槻さん。顔色が悪いようですが」
俺は、あえて彼女の旧姓ではなく、親しかった頃の呼び名を使った。
それが、更なる罪悪感を呼び起こすトリガーになると知っていたからだ。
「っ……!」
ヒカリは、はっきりと狼狽し始めた。
完璧だったプレゼンテーション。
自信に満ちていた「人気者」の仮面。
その全てが、音を立てて崩れていく。
会場の空気が、変わった。
さっきまでの賞賛は消え失せ、「どうしたんだ?」「急に様子がおかしい」「質問に答えられてないぞ」という、疑惑のささやきが広がり始める。
戸塚教授も、ゼミのスター候補の失態に、眉をひそめている。
「……明槻さん、答えられないのですか?」
俺は、静かに、最後通牒を突きつけた。
「わ、私……」
ヒカリは、ついに言葉を失い、自分の「癖」――爪をこする仕草――を、聴衆の目の前に晒したまま、壇上で立ち尽くした。
彼女の「盗用した知識」と、彼女が隠し続けてきた「罪悪感」。
その二つが、俺が仕掛けた「トリガー」によって、白日の下に暴かれた瞬間だった。
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