第四話 カタルシスの自白(アポート)と、空白のカルテ
ヒカリが壇上で「罪悪感のシグナル」を晒し、狼狽して立ち尽くしたあの中間発表会は、騒然とした雰囲気の中で幕を閉じた。
ヒカリは「体調不良」を理由に、神宮寺 鏡に抱えられるようにして退室。ゼミ生たちは、スキャンダル(俺の冤罪事件)の「共犯者」かもしれないヒカリと、その彼女が盗用した(かもしれない)俺の理論、そして、その両方を白日の下に晒した俺の「不気味な質問」の板挟みになり、疑惑の視線を交わすだけだった。
だが、神宮寺 鏡は、まだ自分の勝利を信じて疑っていなかった。
ヒカリという「駒」が、俺のカウンター・トランス(逆誘導)によって使い物にならなくなったことには苛立ちを見せた。しかし、彼にとってヒカリは「トロフィー」であり「道具」の一つに過ぎない。
(昏野 睡……あいつ、まだ何かを企んでいる)
神宮寺の歪んだ自己愛は、この事態を「自分への挑戦」と受け取った。
彼は、自らの「カリスマ」と「技術」を、より強固な形でゼミ生たち、そして何より戸塚教授に証明し、俺の存在を完全に無力化する必要があると考えた。
一週間後。
神宮寺は、大学院の研究成果の集大成として、学部生や教授陣、さらには外部の専門家まで招いた大規模な「公開実験」をセッティングした。
会場は、中間発表会よりも遥かに大きな、階段教室(大講義室)だ。
テーマは、彼が最も得意とする領域。
『暗示による記憶の強化と制御――その臨床応用の可能性』。
俺は、あの日と同じように、一般聴講生として、後部座席の闇に紛れ込んでいた。
「――皆さん。記憶とは、単なる記録ではありません。それは『解釈』です」
スポットライトを浴び、マイクを握った神宮寺は、水を得た魚だった。
彼のよく通る声が、会場の隅々まで響き渡る。
「そして『解釈』であるならば、我々専門家の手によって、より良い方向へ『制御』することが可能なはずです。例えば……」
彼は、被験者として登壇させた学生(おそらくサクラだろう)に、見事な手際で催眠誘導(インダクション)をかけていく。
「はい、あなたは今、とてもリラックスしている……。あなたは、数字の『4』という概念を、一時的に忘れます……」
神宮寺が指を鳴らす。
「君の指は何本あるかな?」
「はい……1、2、3、5、6……10本、です?」
会場が、どよめきと賞賛の拍手に包まれる。
神宮寺は、得意の絶頂にいた。
彼は、自分がこの場の「支配者」であることを確認し、満足げに会場を見渡した。
そして――彼の視線が、後部座席の俺を捉えた。
(……来たか)
神宮寺の右口角が、僅かに吊り上がった。俺が分析した通りの、「自信に満ちた嘲笑」のシグナルだ。
彼は、俺を「公開処刑」にするつもりだ。
「ああ……これはこれは」
神宮寺は、マイクを通して、あえて俺に注目を集めた。
「昏野くんじゃないか。君も来てくれていたんだね」
数百の視線が、一斉に俺に突き刺さる。
「サーバー荒らしの……」
「まだ大学にいたのか……」
「君も、あの不祥事以来、『記憶』というものには、人一倍、興味があるんじゃないかな?」
神宮寺が、あからさまな皮肉を口にする。会場から、くすくすという下品な笑いが漏れた。
彼は、俺が中間発表会でヒカリにした「仕返し」のつもりだろう。
「どうだろう、昏野くん。よければ、壇上(ステージ)に上がって、この『奇跡』を間近で見ていかないか? 何か、君なりの『意見』も聞かせてもらいたいな」
完全な、挑発。
俺が断れば「逃げた」と嘲笑われ、上がれば、彼の「技術」の当て馬にされて、完膚なきまでに叩き潰される。
最前列では、戸塚教授が面白くなさそうに腕を組み、事の成り行きを見守っている。
俺は、静かに立ち上がった。
一歩、また一歩と、階段を下り、数百の視線に焼かれながら、スポットライトが当たる壇上へと向かった。
「……勇気あるね、昏野くん」
神宮寺が、俺の耳元で囁く。マイクには乗らない声だ。
「ヒカリにしたような小細工は、俺には通用しないぞ」
「……お呼びいただき、光栄です。神宮寺先輩」
俺も、冷静に返した。
二人の天才(と、カリスマ)が、ついに壇上で対峙する。
会場の空気は、張り詰めていた。
「素晴らしい技術です」
俺は、マイクを通して、まず彼を賞賛した。
「まさに、神の領域だ」
「はは。そうだろう?」
神宮寺は、完全に油断した。
「ですが、神宮寺先輩」
俺は、続けた。
「あなたの完璧な誘導には、たった一つ、興味深い『癖(ハビット)』がある」
神宮寺の笑顔が、一瞬、固まった。
「……何が言いたい?」
「あなたの、その『右の口角』です」
俺は、彼を真っ直ぐに見据えた。
「あなたは、自分が他者を『支配』し、『制御』できたと確信した瞬間、必ず、右の口角だけが非対称に吊り上がる。……今、まさに、俺を見下している、その時のように」
「……っ」
神宮寺の顔から、笑みが消えた。
彼の「無意識」の領域に、俺が土足で踏み込んだのだ。動揺が走る。
彼は、それを隠そうと、取り繕うように、もう一度、右口角を吊り上げて見せた。
「面白い分析だ。さすが、人のデータを盗み見るだけは……」
――その瞬間だった。
彼が、俺を嘲笑するために、再び「シグナル」を発した、そのコンマ一秒の隙。
俺は、彼の「心の隙間」に、最強の「暗示」を叩き込んだ。
俺は、声帯をコントロールし、声色、トーン、抑揚、その全てを、神宮寺がこの世で最も尊敬し、恐れている「権威」――戸塚教授の声と、寸分違わぬものに変えた。
「――神宮寺くん」
「!?」
神宮寺の肩が、ビクッ、と跳ねた。
彼は、目の前にいる俺ではなく、最前列にいる「本物の戸塚教授」の幻影を見た。
俺は、戸塚教授の声のまま、続けた。
「実に見事なデモンストレーションだった。君の才能は、本物だ」
神宮寺の瞳孔が、カッと開く。
彼が最も欲していた、「権威」からの絶対的な承認。
彼の自己愛は、頂点に達した。
「さあ、神宮寺くん。君が、その素晴らしい『成果』を出すために、一体、何をしてきたのか……。君が、その偉業を達成するために『忘れて』きた、全てのプロセスを、今、ここで、私に『思い出して』報告したまえ」
『忘れて』――ヒカリに使ったトリガー。
『思い出して』――解催眠のコマンド。
『戸塚教授の声』――絶対的な権威。
カウンター・インダクション(逆誘導)が、成立した。
神宮寺の脳は、承認欲求の快感と、矛盾したコマンドによって、完全に変性意識状態(トランス)に陥った。
彼は、恍惚とした、高揚した表情で、マイクを握りしめた。
これから始まるのは、罪の「自白」ではない。
彼にとっての、輝かしい「功績」の、カタルシス(浄化)だった。
「……はい! 教授!! お分かりいただけましたか!」
神宮寺は、スポットライトを浴び、まるでオペラ歌手のように朗々と語り始めた。
「全ては、計画通りです! 昏野 睡は、邪魔だったのです!」
会場が、凍りついた。
戸塚教授が、最前列で「な……」と口を開けて固まっている。
「あいつの分析眼は、危険すぎた! 俺の『上』を行く可能性があった! だから、消す必要があったのです!」
神宮寺は、恍惚として続ける。
「ヒカリは、最高の『駒』でした! 承認欲求が強すぎて、扱いやすかった! 俺が電話で『暗示』をかければ、あいつは、眠っている昏野の隣で、俺の指示通りに動いてくれた!」
会場の片隅で、ヒカリが「あ……あ……」と顔面蒼白になっている。
「サーバーアクセスも、全て俺が遠隔でやりました! 昏野のPCを踏み台にしてね! あいつは『忘却』の暗示の中で、自分が犯罪者に仕立て上げられているとも知らずに! 傑作でしょう!?」
ゼミ生たちが、息を飲んでいる。
あの日、俺を嘲笑した連中だ。
彼らは今、真実(ほんもの)の「犯罪者」の、高らかな凱旋演説を聞かされていた。
「ヒカリに盗ませた、昏野の『レジリエンス』のデータも最高でした! あれは、俺の研究を数年先に進めてくれた!」
「他にも、何人かの使えない後輩のデータも、俺の名前で発表してやりましたよ! 奴らに持たせておくより、よっぽど有意義だ!」
神宮寺の「自白(アポート)」は、止まらない。
彼は、自分がどれほど賢く、どれほど周到に、ライバルを蹴落とし、凡人たちを支配してきたかを、最高の「成果報告」として、戸塚教授(の幻影)に捧げていた。
「――神宮寺!!!」
ついに、本物の戸塚教授が、怒りに顔を真っ赤にして叫んだ。
その、現実の、怒りに満ちた声が、神宮寺のトランスを、強引に叩き割った。
「……え?」
神宮寺は、我に返った。
恍惚とした表情が、一瞬で凍りつく。
彼は、自分が何を語ったのかを、一瞬で理解した。
彼は、自分が作り上げた最高の「舞台」で、自分自身の「無意識」によって、全てを暴露させられたのだ。
「あ……あ……ちが……違う、今のは、デモンストレーションで……」
見苦しい言い訳は、もう誰の耳にも届かない。
会場のあちこちで、スマートフォンが彼に向けられ、その「歴史的自白」は、完璧に録画されていた。
「だ、誰か! 昏野を捕まえろ! あいつが、俺に何かをしたんだ!」
神宮寺は、最後に俺を指差したが、もう遅い。
教授陣が、警備員を呼ぶ声が響く。
ヒカリは、自分が「共犯者」であったことが、首謀者の口から確定的に暴露された瞬間、声にならない悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。
俺を嘲笑したゼミ生たちは、顔面蒼白のまま、動けない。
彼らは、「人の心」を学ぶゼミで、最も醜悪な「悪意」と、最も愚かな「集団心理」を、当事者として体験してしまった。
自分たちが、カリスマ性に騙され、本物の才能(俺)を集団でリンチしたという事実は、彼らの未来に、重い、重い罪悪感(カルテ)として刻み込まれるだろう。
俺は、狂乱する壇上の神宮寺と、崩れ落ちるヒカリ、そして、呆然とする聴衆を一瞥すると、誰にも気づかれないように、静かにその場を立ち去った。
俺の、復讐は、終わった。
◇
――数年後。
場所は、アメリカ合衆国、ヴァージニア州クアンティコ。
FBI(連邦捜査局)の、行動分析課(BAU)。
俺は、昏野 睡という名前を捨て(法的には残しているが)、『ドクター・シズカ』として、凶悪犯罪者の心理分析(プロファイリング)を行っていた。
「……ドクター。被疑者は、完全黙秘だ。嘘発見器にも反応しない。まるで、自分で『忘れた』とでも思い込んでいるようだ」
ベテランの捜査官が、苛立たしげにコーヒーをすする。
俺は、マジックミラー越しに、取調室に座る連続殺人犯を、静かに観察していた。
「……いや、彼は、覚えていますよ」
俺は、眼鏡の位置を、静かに直した。
フレームの細い、あの頃と同じ眼鏡だ。
「捜査官。彼の、左の眉を見てください。被害者の名前が呼ばれるたび、0.2秒だけ、非対称に痙攣している」
「……!」
「嘘は、必ず無意識(そこ)に現れる。彼らが、どれだけ強く『忘れた』と、自分自身に暗示をかけても……ね」
俺の目は、あの頃よりも、さらに冷たく、深く、人間の心の闇の底を、見据え続けていた。
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