第二話 ラポール(信頼)の崩壊と、嘲笑のレミニセンス
あの「公開裁判」の翌日、帝都大学の掲示板に一枚の紙が張り出された。
『文学部 心理学科 昏野 睡(三年)
Causal-Link Server(臨床心理学ゼミ・ピアサポート記録サーバー)への重大な不正アクセス及び、守秘義務違反の疑いにより、無期限の停学処分とする』
それは、紙の上の死刑宣告だった。
「疑い」と書かれてはいるが、学生たちの間では、俺が「確定した犯罪者」として扱われるのに時間はかからなかった。
ゼミ室には、もう俺の居場所はなかった。
停学処分が下る直前、俺が荷物を取りに寄った時の空気は、凍りついていた。
「……うわ、来たよ」
「マジか。まだ大学に来る神経あったんだ」
「ヤバいって、こっち見ないでほしい」
ひそひそ声が、ナイフのように背中に突き刺さる。
俺がこれまで真摯に行ってきた分析や考察。それらも全てが、嘲笑の対象に変わっていた。
「昏野の先週の発表、今思えば怖くね?」
「あー、『○○さんはこういう傾向がある』とか言ってたやつ?」
「絶対サーバー覗いて、あらかじめ個人情報見てたんだよ。じゃなきゃ、あんな正確に分析できるわけないじゃん」
「キッモ……。ストーカーじゃん、ただの」
違う。
俺は、お前たちの「無意識の癖(シグナル)」――視線の動き、声色のトーン、指先の微細な震え――を観察し、論理的に分析していただけだ。だが、その弁明は、もはや誰の耳にも届かない。
ラポール(Rapport)。
臨床心理学の基礎。カウンセラーとクライエントの間に築かれる、温かく、信頼に満ちた関係性。
俺がこのゼミで築いてきた(と思っていた)人間関係は、この一件で、いとも簡単に崩壊した。
誰も俺の目を見ない。
目が合えば、「盗み見られる」とでも言うように、彼らは俺を汚物のように避けた。
ゼミのグループLINEからは即座にキックされ、個人のSNSアカウントは、昨日まで「いいね」を送り合っていたはずのゼミ仲間全員からブロックされていた。
俺は、社会的にも、デジタル的にも、完全に孤立した。
そして、その日の午後。
俺が自室で荷物の整理(という名の、茫然自失とした時間潰し)をしていると、玄関のドアが乱暴に開かれた。
「……ヒカリ」
「触んないで」
俺が彼女の名前を呼んだだけで、ヒカリは、まるでゴキブリでも見るかのような目で俺を睨みつけた。
「あんたのせいで、私の立場がどれだけ悪くなったか分かってるの!?」
「俺は……やってない」
「うるさい! 証拠があるんでしょ!?」
ヒカリは、ゼミの連中と同じ言葉を吐き捨てた。
彼女は自分の荷物を、大きなボストンバッグに乱暴に詰め込み始めた。俺がプレゼントしたワンピースも、二人で選んだマグカップも、すべてがゴミのように扱われていく。
「最低。最低よ、あんた」
「……ヒカリは、俺がそんなことをする人間だと思うのか?」
「思う! 大いに思う!」
彼女は、バッグのジッパーを力任に閉めると、俺に向き直った。その目は、昨日までの甘えたような光は消え失せ、冷たい軽蔑と憎悪に満ちていた。
「あんた、いつもそうだったもんね! 人のことジロジロ観察して、『瞳孔が開いてる』だの『声が上ずってる』だの、分析ばっかり! 私のこと、データか何かとしか思ってなかったんでしょ!」
「違う! 俺は、お前のことを……」
「もう信じない! あんたみたいな『変質者』と一緒にいたなんて、恥ずかしくて死にそう! あんたのせいで、私の評価まで下がったんだから!」
それが、彼女の本音だった。
彼女が恐れていたのは、俺の無実ではなく、俺という「スキャンダル」に汚染され、自分が築き上げてきた「人気者」というステータスが傷つくことだけだった。
「さようなら。もう二度と私に連絡してこないで。ストーカーで訴えるから」
バタン、と鉄のドアが閉まる音。
それは、俺とヒカリの関係が、完全に終わった音だった。
がらんどうになった部屋。
床には、彼女が詰め込みきれなかった安物の化粧水が一本、転がっている。
俺は、それを拾い上げる気力もなく、ただ、床に座り込んだ。
「あ……あぁ……」
声にならない呻きが漏れる。
なぜだ。
俺は、やっていない。なのに、なぜ誰も信じてくれない。
ヒカリ、お前だけは、信じてくれると思っていたのに。
その日を境に、俺は大学を休学した。
正確には、停学処分に加えて、俺自身が「自主休学」の届けを出した。
もう、誰の顔も見たくなかった。
部屋に引きこもり、カーテンを閉め切る日々。
食事は、ネットスーパーで頼んだ最低限のゼリー飲料。
シャワーも浴びず、ただ、ベッドとPCの往復。
意味もなくSNSを開いては、すぐに閉じる。
ブロックされているのは分かっている。だが、指が勝手に動いてしまう。
そんな日々が数日続いた、ある夜だった。
ふと、魔が差した。
俺は、ブラウザのシークレットモードを立ち上げ、ヒカリのアカウント名を打ち込んだ。
彼女のアカウントは、鍵がかけられていなかった。俺からのアクセスを拒絶する一方で、不特定多数の「フォロワー」からの視線は受け入れ続けるらしい。
開いた瞬間、俺は、息が止まるかと思った。
そのSNSは、俺の知っているヒカリのアカウントではなかった。
いや、アカウントは同じだが、その内容が、変貌していた。
プロフィール画像は、見覚えのない夜景をバックにした、完璧な笑顔のヒカリ。
そして、その隣には――神宮寺 鏡が、彼女の肩を抱き寄せて写っていた。
『ご報告。私、明槻ヒカリは、神宮寺 鏡さんとお付き合いさせていただくことになりました』
心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたように痛む。
『色々あって、本当に辛い時期だったけど……鏡さんが、私のことを「理解」して、守ってくれました。ようやく私を『本当の意味』で理解してくれる人に出会えた気がします』
「色々」?
「辛い時期」?
それは、俺が「犯罪者」になったことか。
『これからは、二人で支え合って、もっと高みを目指します!』
投稿には、おびただしい数の「いいね」が押されていた。
ゼミの仲間たちから、祝福のコメントが殺到していた。
『ヒカリ、おめでとう! やっぱお似合いだよ!』
『あの人(俺のことだ)と別れて正解!』
『神宮寺先輩なら安心だね!』
俺という「汚物」を切り捨て、ゼミの「スター」と結ばれる。
ヒカリにとって、それは完璧な「被害者からの復活」ストーリーであり、彼女の承認欲求を最高に満たすシナリオだった。
俺は、胃の底から逆流してくる酸っぱいものを、必死に飲み込んだ。
吐き気がする。
裏切られた。
俺は、あの二人に、ハメられたんだ。
神宮寺は俺の才能を妬み、ヒカリは神宮寺の権威に目が眩んだ。
二人の利害が一致し、俺という「邪魔者」を消すために、共謀した。
……だが。
俺の頭は、怒りよりも先に、冷静な「違和感」を検知し始めていた。
(なぜ、俺は、あの夜の記憶が、あんなにも曖昧なんだ?)
俺は、心理学を学ぶ人間だ。
自分の記憶プロセスには、人一倍敏感だ。
(疲れていた。それは事実だ。だが、完全に「欠落」しているのはおかしい)
普通の忘却(ぼうきゃく)ではない。
忘れた、というよりも、「綺麗に蓋をされている」感覚。
まるで、専門の清掃業者が入って、その部分だけをピンポイントで消し去ったかのような、不自然な空白。
(あの夜、ヒカリが帰ってきて……俺に、何かを……)
フラッシュバック。
『――睡、疲れてるんでしょ?』
『PC作業のことは、もう、忘れて……深く、リラックスする……』
「……あ」
声が出た。
忘れて。
キーワード(トリガー)だ。
(あの言葉……神宮寺がゼミで「記憶の忘却(アムネジア)を促す暗示」の古典的手法として紹介していたものと、完全に一致する……!)
俺は、PCの前に座り直し、震える手でキーボードを叩く。
『神宮寺 鏡 論文』『催眠 暗示 記憶制御』
検索結果。
神宮寺が過去に発表した研究論文のタイトルが、俺の疑いを確信に変えた。
『健常者における選択的健忘(アムネジア)の誘導とその解除(リカバリー)に関する一考察』
これだ。
あいつは、ヒカリを利用して、俺に「暗示」をかけたんだ。
俺がサーバーにアクセスした(とされている)時間帯の記憶を、ピンポイントで「忘却」させた。
俺は、恋人であるヒカリに、全幅の信頼という名の「ラポール」を築いていた。
だからこそ、かかった。
催眠療法において、最も強く暗示が機能するのは、対象者がセラピストを「絶対的に信頼」している時だ。
俺は、俺の専門知識を、最も原始的な「信頼」によって、打ち破られた。
「……ふざけるな」
怒りが、絶望を塗り替えていく。
俺は、俺自身の知識で、この「暗示」を解く。
「自己催眠(オートハイプノーシス)」
他者からかけられた暗示を、自らの手で解くことを「解催眠(かいさいみん)」という。
俺は、部屋の電気を消し、PCのディスプレイもオフにした。
完全な暗闇と静寂。
自室のベッドに深く横たわり、呼吸を整える。
スゥ……ハァ……。
まずは、導入(インダクション)。
自分自身の意識を、変性意識状態(トランス)へと導く。
体の末端から、力が抜けていく感覚を、丹念にトレースする。
(指先が重い……腕が重い……脚が重い……)
意識が、水の中に沈んでいく。
冷たく、暗い、無意識の底へ。
(大丈夫だ。俺は、安全だ。俺は、ただ、あの夜の「真実」を知りたいだけだ)
自己暗示をかける。
そして、俺は、あの夜の「トリガー」を、自分自身で口にした。
「……『忘れて』……」
その瞬間、頭蓋骨の内側で、何かが激しく軋む音がした。
ガチガチと歯が鳴り、全身が痙攣し始める。
(抵抗するな……受け入れろ……!)
記憶の「蓋」が、無理やりこじ開けられる。
映像が、音声が、濁流のように脳内になだれ込んできた。
――『睡、疲れてるんでしょ?』
――『PC作業のことは、もう、忘れて……深く、リラックスする……』
ヒカリの声。
俺の意識が、彼女の言葉によって深い催眠状態に落ちていく。
俺の体は、ベッドに倒れ込む。
――『……あ、神宮寺先輩? 終わりました。今、寝てます』
ヒカリが電話をしている。
相手は、やはり神宮寺だ。
――『ああ、ご苦労様、ヒカリ。じゃあ、今から彼のPCを遠隔操作する。君は、彼が起きないように、さっきのキーワードを、彼の耳元で定期的に囁き続けて』
電話のスピーカーから漏れる、神宮寺の冷たい声。
――『こ、これで……本当に、睡のためになるんですよね?』
ヒカリの、震える声。
――『もちろんさ。彼も、自分の「限界」を知れば、君の「温かさ」の価値が分かるようになる。これは、彼への「治療」なんだよ』
――『治療……』
――『さあ、ヒカリ。彼が目を覚まさないように、しっかりやってくれ。……ああ、そうだ。ついでに、彼のPCに、このデータを仕込んでおいて。君がさっき、彼が寝た後に部屋に入れた「USB」から』
――『……はい』
――『……いいね。これで昏野 睡は終わりだ。これからは、君の時代だよ、ヒカリ』
――『……はい!』
ヒカリの、嬉しそうな声。
俺の意識が混濁する中、俺のPCが遠隔操作され、サーバーへの不正アクセスが実行されていく。
俺は、それを、ベッドの上で、意識を奪われたまま、ただ、聞かされていた。
「……っ、う……あ、ああああああああっ!!」
俺は、ベッドの上で絶叫していた。
全身は汗でびっしょり濡れ、心臓は破裂しそうなほど激しく脈打っている。
全て、思い出した。
あれは、夢じゃない。
俺が、俺自身の部屋で、俺の「恋人」によって、無力化され、犯罪者に仕立て上げられた、紛れもない「現実」だ。
俺は、よろよろと起き上がり、暗闇の中で、PCの電源を入れた。
眩しい光が、俺の涙に濡れた顔を照らす。
ディスプレイに映るのは、ヒカリと神宮寺が、仲睦まじく笑い合うSNSの画面。
俺は、ゆっくりと、その画面に向かって、指を立てた。
「……そうか」
声は、自分でも驚くほど、冷たく乾いていた。
「お前たちは、俺の『意識』を奪って、記憶に『蓋』をしたつもりか」
「俺の専門領域で、俺に喧嘩を売ったのか」
「無意識に隠したつもりか」
俺は、笑っていた。
涙を流しながら、この世の何よりも冷たい笑みを浮かべていた。
「いいだろう」
「なら、俺が、お前たちの『無意識』そのものを、法廷に引きずり出してやる」
俺は、キーボードに手を置いた。
復讐の、始まりだった。
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