第7話 請求書の安らぎ
給料日の丸の内は微熱を帯びている。
二十五日。
労働者が一ヶ月の対価を受け取り一時的な全能感に浸る日。
オフィスビルのエレベーターホールには今夜のディナーや週末の旅行を計画する浮足立った会話が溢れていた。
私は無表情でスマートフォンを操作しネットバンキングのアプリを開く。
桁の多い数字。
今月の給与とボーナスが振り込まれている。
一瞬だけ口角が上がる。
これは達成感ではない。
生存確認だ。
私というシステムの稼働証明であり燃料補給の通知。
(よし。これだけあれば、来月も生きられる)
生きられるというのは生物学的な意味ではない。
彼女を維持できるという意味だ。
午後三時十七分。
個人のメールアドレスに一通の通知が届く。
送信元:Amour Liaison 経理部。
件名:【請求書】〇月度ご利用料金のご案内。
心臓が跳ねる。
恐怖ではない。
恋文を待つ少女のようなあるいは劇薬の処方箋を待つ中毒患者のような焦燥と期待。
周囲の視線を気にしながら私はメールを開封した。
PDFファイルが展開される。
無機質な明朝体の羅列。
ご請求金額:¥685,000-
内訳。
基本パートナー契約料(Aクラス):¥500,000
オプション:深夜帯緊急ケア(添い寝):¥30,000×3回
オプション:ディープ・ティシュー・マッサージ:¥25,000×2回
オプション:休日拘束(フルタイム):¥40,000
その他実費(食費・生活消耗品費):¥5,000
高いと思うだろうか。
同世代のOLの手取り給与の倍以上。
高級ブランドのバッグが買える。
海外旅行に二回行ける。
けれど私はその数字を見て深く安堵のため息を吐いた。
(よかった)
(ちゃんと、高い)
安くないことに救われた。
もしこれが良心的な価格だったらあるいは「お気持ちで結構です」などという曖昧なものだったら私はきっと発狂していた。
高いからこそ信用できる。
私の孤独にはこれだけの値札がついている。
私の弱さを晒すにはこれだけのコストがかかる。
その等価交換の論理が私の理性を守る防波堤だった。
「……如月さん? どうかしましたか?」
部下が怪訝そうな顔で覗き込んでくる。
私がスマホを見つめて笑っていたらしい。
「いいえ。何でもないわ」
私は画面を消し完璧な上司の仮面を被り直す。
「今夜は定時で上がるから。あとは頼んだわよ」
「えっ、珍しいですね」
「……支払いがあるのよ。大事な」
私の人生で最も価値のある《必要経費》の支払いが。
帰宅。
玄関のドアを開けた瞬間の匂い。
出汁と柑橘系アロマ。
「おかえりなさい、玲奈さん」
なでしこの声。
私の全神経を弛緩させる魔法の周波数。
いつもならここで無言のハグを求めるところだが今日は違う。
私は背筋を伸ばし彼女に向き合う。
「ただいま。……話があるの」
「はい。請求書の件ですね?」
彼女も察している。
エプロン姿のまま居住まいを正し一歩下がる。
この瞬間の切り替えが好きだ。
甘やかしモードからビジネスモードへのシームレスな移行。
彼女がただの同居人ではなくプロであることを再確認できる瞬間。
リビングのテーブルに向かい合う。
いつものような癒やしのハーブティーではなく今日は硬水のミネラルウォーターが置かれている。
「ご確認いただけましたか」
彼女はタブレットを差し出す。
昼間に見たPDFと同じ明細。
「ええ。問題ないわ」
「今月はオプションが多めでしたので予算を超えていないか懸念しておりましたが」
「払えるわ。そのために働いてるんだもの」
私は即答する。
強がりではない。
本心だ。
以前の私は何のために金を稼いでいるのか分からなかった。
老後のため?
世間体のため?
数字が増えていく口座残高だけが唯一の精神安定剤だった。
けれど今は違う。
この金は彼女の笑顔に変わる。
彼女の作る雑炊に変わる。
彼女の指先の温度に変わる。
なんて健全な経済活動だろう。
「……では、決済をお願いいたします」
彼女が頭を下げる。
私はスマホを取り出し送金操作を行う。
暗証番号入力。
送金実行。
完了画面。
六十八万五千円が私の口座から消えAmour Liaisonの口座へと移動する。
電子的な信号のやり取り。
けれど私には自分の身体から重い鎖が一本外れたような物理的な軽さを感じた。
「確認しました」
なでしこの手元のタブレットが通知音を鳴らす。
彼女は顔を上げ私を真っ直ぐに見つめた。
「ありがとうございます。今月も、玲奈さんの生活を支えさせていただけて光栄でした」
深々としたお辞儀。
美しい所作。
それは妻のようであり秘書のようであり、そして何より共犯者のようだった。
「……ねえ」
私は水を一口飲み乾いた喉を潤す。
「もし私が無一文になったら……貴女はいなくなるの?」
馬鹿な質問だ。
答えは分かっている。
契約書第12条。
支払い遅延時の契約解除規定。
「はい。いなくなります」
彼女は即答した。
慈悲も躊躇いもなく。
「私はプロのヒモですから。金の切れ目が縁の切れ目です」
冷酷な言葉。
けれどその言葉を聞いて私は笑い出しそうになった。
(ああ、よかった)
(本当に、よかった)
もしここで「お金なんて関係ありません」と言われたら私は恐怖で逃げ出していただろう。
無償の愛なんて重すぎる。
見返りを求めない献身なんて裏があるに決まっている。
けれど彼女は言い切った。
金がなければ去ると。
つまり金さえ払い続ければ彼女は絶対に私のそばにいるということだ。
シンプルで強固な契約。
愛などという不確かな感情よりもよほど信頼できる。
「……ふふっ」
「玲奈さん? 振られたと言われて笑う人は初めて見ましたよ」
なでしこが怪訝そうに小首を傾げる。
「安心したのよ。貴女がそういう人で」
「性格が悪いと言いたいんですね?」
「いいえ。プロ意識が高いと言ってるの」
私は席を立ち彼女の隣に座り直した。
ビジネスタイム終了の合図。
「支払いは済んだわ。……今月分のサービス、まだ残ってる?」
私の問いかけに彼女の表情が一瞬で崩れる。
鉄壁の営業スマイルから、とろけるような甘やかしの顔へ。
「もちろんです。今月はあと五日あります。来月の更新も済んでいますし……何より」
彼女は私の手を握り、その掌に頬を擦り寄せた。
「高額納税者の玲奈さんには、特別還元サービスをしなくてはいけませんね」
「……何をしてくれるの?」
「そうですね……今日は、朝まで離しません」
彼女の瞳の奥が揺れている。
金額の話をした直後だというのに、いや金額の話をしたからこそ、その瞳の熱量が心地よい。
彼女は私の価値を認めたのだ。
六十八万円分の価値がある女だと。
「お風呂、一緒に入りましょうか」
「は? オプションに入ってないけど」
「初回更新特典です。……背中、流させてください」
「……変なことしない?」
「プロですから」
嘘だ。
その目は獲物を狙う肉食獣の目だ。
けれど私はその檻に自ら飛び込む。
だって私は代金を支払ったのだから。
この空間の、この時間の、そして彼女という存在のオーナー権を向こう一ヶ月分買い占めたのだから。
「……高いお風呂になりそうね」
「お値段以上の満足をお約束しますよ」
彼女に手を引かれて浴室へ向かう。
脱衣所で服を脱ぎながら私は思う。
この関係はいびつだ。
金で買われた優しさ。
契約で縛られた温もり。
世間の常識から見れば哀れな女に見えるだろう。
(でも、これがいい)
(これが一番、傷つかない)
明細書の数字を思い出す。
あの数字は私を守る結界だ。
湯気が充満する浴室の中でなでしこが私を招き入れる。
その白い肌も優しい声もすべては私のものだ。
請求書一枚分の、私の愛しい所有物。
温かい湯に浸かりながら私は彼女の肩に頭を預けた。
来月もまた死ぬ気で働こう。
この安らぎを買い続けるために。
その決意はどんな高尚な人生訓よりも私の背骨を強く支えていた。
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