第6話 日曜日の強制オフ
体内時計の誤差はプラスマイナス五分以内。
私の脳には高性能なアラームが内蔵されている。
午前六時〇〇分。
スマートフォンのアラームが鳴るコンマ数秒前に私は
遮光カーテンの隙間から漏れる微かな光が日曜日であることを告げている。
本来であれば泥のように眠る権利がある日だ。
けれどシニアアナリストに完全な休息など存在しない。
思考回路が瞬時に起動し本日のタスクをリストアップする。
一、ニューヨーク市場のクロージング確認。
二、来週のプレゼン資料のブラッシュアップ。
三、部下からの報告書への赤入れ。
推定所要時間、六時間。
午前中に片付ければ午後は……まあ、何か生産的なインプットに充てられるだろう。
私は音を立てないようにベッドを抜け出した。
隣ではなでしこが静かな寝息を立てている。
彼女の睡眠を妨害するのは契約違反(そして私の良心が痛む行為)だ。
忍び足でリビングへ移動し愛用のMacBookを開く。
起動音はオフにしてある。
ディスプレイのブルーライトだけが薄暗い部屋を冷たく切り裂いた。
カフェイン錠剤を一粒飲み込みキーボードに指を置く。
カチャ、カチャ、カチャ。
心地よい打鍵音。
やはり私はこちらの世界の住人だ。
昨夜のマッサージで溶かされた脳髄が再び硬質な論理武装を整えていく。
数字。グラフ。ロジック。
これらが構築する堅牢な城塞こそが私の居場所。
集中力が深まり周囲の音が消える。
ゾーンに入った感覚。
「……玲奈さん?」
不意に、背後から声がかかった。
心臓が跳ねる。
振り返ると寝癖のついた髪のままのなでしこが立っていた。
大きめのTシャツ一枚という無防備な姿。
けれどその瞳は笑っていなかった。
「……おはよう。起こしちゃった?」
私は罪悪感を誤魔化すように画面から目を逸らさずに答える。
「あと二時間くらいで終わるから。朝ごはんはその後でいいわ」
「二時間」
彼女はオウム返しに呟き、裸足のまま音もなく近づいてきた。
そして私の背後から伸びてきた手が、容赦なくMacBookのディスプレイを閉じた。
パタン。
乾いた音が響き私の視界が強制的にブラックアウトする。
「ちょっ……何するの! 保存してない箇所が!」
「オートセーブ機能、オンですよね?」
彼女は冷静だ。
私の焦燥など織り込み済みといった顔でPCを私の手から引き剥がす。
「返して。急ぎの案件なの」
「契約書の第4条を確認させてください。《休日は原則として業務を行わず、心身の回復に努めること》」
「《原則》でしょ? 例外規定もあるはずよ。緊急時とか」
「今が緊急時です」
なでしこはPCをテーブルの向こう側、私の手の届かない場所へと押しやった。
「貴女の顔色が緊急事態宣言を出しています。目の下のクマ、昨日より濃くなってますよ?」
彼女は私の前に回り込み両手を頬に添えて強引に上を向かせた。
「……っ」
逃げられない。
至近距離で見つめられる琥珀色の瞳。
そこには有無を言わせない強い光が宿っていた。
「今日は日曜日です。神様だって休む日です。貴女が働いていい理由がありますか?」
「でも、不安なの。休んでると、置いていかれる気がして……」
「誰に?」
「……競合他社に。後輩に。時代の流れに」
「大丈夫。一日休んだくらいで崩れるような土台なら、それは最初から欠陥住宅です。玲奈さんが築いてきたキャリアは、そんなに
痛いところを突く。
彼女の言葉はマッサージの時と同じで正確に急所を
「今日は禁止です」
彼女は宣言した。
「仕事も、ニュースチェックも、専門書の読書も禁止。スマートフォンも没収します」
「そんな横暴な……私はクライアントよ? 雇い主の命令が聞けないの?」
私は最後の抵抗を試みる。
金銭による上下関係。
それを持ち出せば彼女は引かざるを得ないはずだ。
けれどなでしこはふわりと笑った。
「ええ、貴女はクライアントです。そして私はプロのヒモです」
「は?」
「ヒモの極意をご存知ですか? それは『飼い主を長持ちさせること』です。貴女に過労死されたら、私が路頭に迷うんですよ。だから、これは私のための業務命令です」
彼女は私の手からスマートフォンも抜き取りソファへと放り投げた。
「今日は一日、私に使われてください」
「……使われる?」
「はい。私の抱き枕兼、膝枕の実験台兼、映画鑑賞の同伴者になっていただきます。拒否権はありません」
彼女の手が私の腰に回される。
有無を言わせない力強さで寝室へと引きずり込まれていく。
「ちょ、待っ……まだ顔も洗ってない!」
「後で蒸しタオルで拭いてあげます」
「歯磨きも!」
「後で!」
ベッドに押し倒される。
柔らかいマットレスの反発。
その上からなでしこが覆いかぶさってくる。
Tシャツから香る体温の匂い。
「二度寝しましょう。あと三時間は眠れます」
「眠くないわよ。目が覚めちゃったし」
「じゃあ、寝たふりでいいです。目を閉じて、私の心臓の音を聞いていてください」
彼女は私を抱きしめ自分の胸元に私の耳を押し当てた。
トク、トク、トク、トク。
規則正しいリズム。
温かくて少し早くて生きている音。
「……子ども扱い」
「子どもですよ。仕事道具を取り上げられただけで泣きそうな顔をして」
「泣いてない」
「はいはい」
彼女の手が背中を一定のリズムで叩き始める。
トントン、トントン。
催眠術だ。
これは高度な精神干渉攻撃だ。
抗おうとする理性が徐々に白い霧に包まれていく。
(悔しい)
こんなに簡単に手玉に取られるなんて。
私は年間数十億円を動かすコンサルタントなのに。
一人の女性の腕の中で赤子のように無力化されている。
(でも……)
PCの画面を見ていた時の、あの焼けるような焦燥感が消えている。
《やらなきゃいけないこと》が強制的に排除された世界。
そこには《何もしなくていい》という空白だけがある。
恐ろしいほどの贅沢。
「……なでしこ」
「ん?」
「もし私の評価が下がったら、責任取ってよね」
「任せてください。私が一生、美味しいお味噌汁を作って養ってあげます……貴女のお金で」
「……最低」
(最高)
口から出た言葉と心の声が裏返る。
彼女のヒモとしてのプライド(という名の開き直り)が、今はなぜか頼もしく思えた。
瞼が重い。
カフェインの効果なんて彼女の体温の前では無意味だったらしい。
「おやすみなさい、玲奈さん」
頭上から降ってくる優しい声。
私は抵抗を止めた。
彼女の腕の中でなら負けてもいい。
今日だけは。
この温かい檻の中で思考停止する幸福に、私は白旗を上げた。
意識が落ちる寸前、彼女が私の髪にキスをしたような気がしたけれど、それを確かめる術はもうなかった。
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