第8話 熱と幼児退行

警告音が鳴り止まない。

私の脳内モニタにSYSTEM ERRORの赤文字が点滅している。

午後一時。

クライアントとの定例ミーティング中。

ホワイトボードの文字が歪む。

部下の喋る言葉が水槽の向こう側から聞こえてくるようにぼやけている。

関節の軋み。

眼球の奥で脈打つ鈍痛。

呼気に混じる異常な熱量。

自己診断プログラムが弾き出した結論は明白だった。


発熱。

それも微熱などという生温いものではない。

三十八度台後半。

私の身体というハードウェアが悲鳴を上げ強制シャットダウンを求めている。

「……如月さん?」

先方の担当者の声。

私は反射的に口角を持ち上げる。

「失礼。少し空調が効きすぎているようですね」

完璧な言い訳。

完璧な笑顔。

……のはずだった。

視界がブラックアウトするまでは。

ガタンッ。

椅子を倒す音。

遠くで誰かが叫んでいる。

地面が急激に接近してくる感覚。

(ああ、最悪)

(スケジュールの再調整、面倒だな)

薄れゆく意識の中で私はまだ仕事の段取りを考えていた。

なんて哀れな社畜根性だろう。


……

…………

……


「……玲奈さん」

「……玲奈さん、聞こえますか?」

水をたっぷり含んだような声。

鼓膜を優しく揺らすその周波数は私の意識を泥の底から引き上げる。

目を開ける。

知らない天井……ではない。

私の寝室だ。

けれど景色がいつもと違う。

枕元に加湿器。

氷嚢の冷気。

そして心配そうに覗き込む大和なでしこの顔。


「気がつきましたか?」

「私……」

声が出ない。

喉が錆びついたパイプのようにカサカサだ。

「会社で倒れたんですよ。部下の方から連絡があって、迎えに行きました」

彼女は私の額に手を当てる。

冷たい。

雪のように冷たくて柔らかい手。

その温度差に触れられただけで涙が出そうになる。

「三十九度二分。よくここまで我慢しましたね」

「仕事……まだ……」

「黙りなさい」

静かな、けれど絶対的な命令。

彼女は私の口元にストローを差し出す。

「飲んで。経口補水液です」

ちゅー、と吸い込む。

塩気と甘味が混ざった液体が乾いた食道を潤していく。

「ごめんなさいね、勝手に着替えさせました。汗でびっしょりでしたから」

言われて気づく。

私はいつものシルクのパジャマではなく肌触りの良い厚手のコットンTシャツを着ている。

下着まで替えられたのだろうか。

羞恥心を感じるべき場面だ。

けれど高熱に浮かされた脳は《恥》という感情処理さえも放棄していた。

(気持ちいい……)

清潔なシーツ。

適切な湿度。

そして彼女の匂い。

ここが病院ではなく私のであることが何よりの救いだった。


「お腹、空いてますか?」

首を横に振る。

固形物なんて想像しただけで吐き気がする。

「でも栄養は摂らないと。……ゼリーならいけますか?」

彼女はサイドテーブルからスプーンとカップを取り出す。

「口を開けて」

「……自分で」

手を伸ばそうとする。

鉛のように重い。

指先が震えてスプーンどころか自分の鼻さえ掴めそうにない。

「無理です。今の貴女は生まれたての小鹿より弱いんですから」

なでしこは呆れたように笑いスプーンを私の唇に押し当てた。


「あーん」

「……っ」

屈辱だ。

二十九歳。

年収二千万円。

部下を数十人抱えるリーダー。

それが「あーん」だと?

(嫌だ。みっともない)

(こんな弱った姿、見せたくない)

「玲奈さん」

彼女の声色がふっと低くなる。

甘やかすような、それでいて逃げ場を塞ぐような声。

「強がる元気があるなら治すことに使ってください。ほら」

スプーンが唇を割る。

冷たいゼリーが口内に滑り込む。

桃の味。

甘くて冷たくて優しい味。

「ん……」

「はい、上手です。もう一口」

抵抗できない。

二口目が運ばれてくる。

私は雛鳥のように口を開けることしかできない。

「いい子ですね」

頭を撫でられる。

汗で張り付いた前髪を指先でかれる感触。

ゾクゾクする。

熱のせいなのか快楽のせいなのか分からない。

ただ彼女に管理され支配され世話を焼かれているこの状況がたまらなく心地いい。

(もっと)

(もっと触って)

(もっと私をダメにして)

理性の堤防が決壊していく。

高熱という言い訳を得た私のは濁流となって溢れ出した。


ゼリーを食べ終えると彼女は再び私の額に氷嚢を当てた。

「少し眠りましょう。私がついてますから」

彼女が立ち上がろうとする。

瞬間。

恐怖が走った。

行かないで。

その一言が喉まで出掛かって理性の検閲に引っかかる。

(ダメ。それは契約外)

(彼女は仕事で看病してるだけ)

(拘束時間をいたずらに伸ばすのはコストパフォーマンスが悪い)

論理。計算。自制。

いつもの私がブレーキをかける。

けれど熱に溶かされた本能がアクセルをベタ踏みした。

私の手は思考よりも早く彼女の服の裾を掴んでいた。

ぎゅっ。

握力なんてない。

ただすがりつくだけの弱々しい力。

「……?」

なでしこが足を止める。

振り返った彼女の目は少し驚いたように見開かれていた。

「玲奈さん?」


「……やだ」

自分の声じゃないみたいだ。

幼くて情けなくて震えている。

「一人に……しないで」

(言っちゃった)

(終わった。引かれる。重いって思われる)

後悔が津波のように押し寄せる。

私は布団の中に潜り込みたい衝動に駆られる。

けれど彼女の手が私の手を優しく包み込んだ。

「行きませんよ」

笑っていた。

困ったように、でも嬉しそうに。

「ただの洗い物です。でも……貴女がそう言うなら、後回しにします」

彼女はベッドの端に腰を下ろした。

私の手を両手で包み込み自分の膝の上に置く。

「ここにいます。貴女が眠るまで、ううん、貴女の熱が下がるまで」

「……ほんと?」

「はい。私はプロですから。クライアントの要望(オーダー)には最大限応えます」


また《プロ》と言う。

その言葉が今は少しだけ憎らしい。

でもその《プロ意識》のおかげで彼女は私のそばにいてくれる。

「……手」

「はい?」

「冷たくて……きもちいい」

「そうですか。……こうですか?」

彼女は私の頬に掌を密着させる。

ひんやりとした感触。

火照った肌に染み渡る極上の冷却材。

私は猫のようにその手に頬を擦り付けた。

「ん……」

「ふふ。本当に猫みたい」

彼女のもう片方の手が私の背中を一定のリズムでトントンと叩き始める。

母の心音。

羊水の中の記憶。

意識が急速に遠のいていく。

恥も外聞もない。

私は今ただのだ。

彼女がいなければ水も飲めず熱調整もできず孤独に震えて死んでいく弱い生き物。

「なでしこ……」

「はい」

「……すき」

寝言だ。

これは寝言だ。

だからセーフだ。

「……はい。私もですよ、玲奈さん」

彼女の答えが聞こえた気がした。

けれどそれが営業トークなのか本音なのかを判断する知能は今の私には残されていない。

暗闇の中に落ちていく恐怖はもうない。

彼女の手が私の命綱となって繋ぎ止めてくれているから。

私は安心して意識を手放した。


次に目が覚めた時、熱は三十七度台まで下がっていた。

窓の外は夜。

ベッドサイドのランプだけが灯っている。

重たい頭を動かすと隣に彼女がいた。

椅子に座ったまま私のベッドに上半身を預けて眠っている。

私の手はまだ彼女の両手に包まれたままだった。

(……馬鹿みたい)

あんなに泣いて縋って。

明日の朝どんな顔をして会えばいいのか分からない。

けれど。

彼女の寝顔を見ていると不思議と後悔はなかった。


無防備な寝息。

仕事モードの完璧な仮面が外れたあどけない表情。

彼女もまた疲れていたのだ。

私という厄介なクライアントの看病で。

「……ありがと」

音にならない声で呟く。

私は繋がれた手に少しだけ力を込めた。

彼女は起きない。

ただ無意識に私の手を握り返してきた。

その力強さが契約書よりも確かな《絆》のように思えて。

私はもう一度目を閉じた。

熱が下がってもこのまま幼児退行していたい。

この温かい手の中でずっと守られていたい。

そんな危険な願望が風邪のウイルスよりも深く私の細胞に巣食い始めていた。

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